六
小六はともかくも都合しだい下宿を引き払って、兄の家へ移ることに相談が調った。お米は六畳に置きつけた桑の鏡台をながめて、ちょっと残り惜しい顔をしたが、
「こうなると少しやり場に困るのね」と訴えるように宗助に告げた。実際ここを取り上げられては、お米のお
「お前、どうかしたのかい。たいへん色が悪いよ」と言いながら、鏡から目を放して、実際のお米の姿を見た。
「寒いせいなんでしょう」と答えて、すぐ西側についている一間の戸棚をあけた。下には古い
「こんなもの、どうしたってかたづけようがないわね」
「だからそのままにしておくさ」
小六のここへ引き移ってくるのは、こういう点から見て、夫婦のいずれにも、多少迷惑であった。だから来るといって約束しておきながら、今だに来ない小六に対しては、べつだんの催促もしなかった。一日延びれば延びただけ窮屈が逃げたような気がどこかでした。小六にもちょうどそれと同じはばかりがあったので、いられるかぎりは下宿にいるほうが便利だと胸をきめたものか、つい一日一日と引っ越しを
そのうち薄い霜が降りて、裏の
宗助は心配した。役所へ出ていてもよくお米のことが気にかかって、用のじゃまになるのを意識する時もあった。ところがある日帰りがけに突然電車の中で
「お米、お
その晩夫婦は
「どうですな世の中は」と宗助が例にない浮いた調子を出した。お米の頭の中には、夫婦にならないまえの、宗助と自分の姿がきれいに浮かんだ。
「ちっと、おもしろくしようじゃないか。このごろはいかにも不景気だよ」と宗助がまた言った。二人はそれから今度の日曜にはいっしょにどこへ行こうか、ここへ行こうかと、しばらくそればかり話し合っていた。それから二人の春着のことが題目になった。宗助の同僚の
「高木の細君は夜具でもかまわないが、おれはひとつ新しい
「外套が欲しいって」
「ああ」
お米は夫の顔を見て、さも気の毒だというふうに、
「おこしらえなさいな。
「まあよそうよ」と急にわびしく答えた。そうして「時に小六はいつから来る気なんだろう」と聞いた。
「来るのはいやなんでしょう」とお米が答えた。お米には、自分がはじめから小六にきらわれているという自覚があった。それでも夫の弟だと思うので、なるべくはそりを合わせて、少しでも近づけるように近づけるようにと、今日までしむけてきた。そのためか、今では以前と違って、まあ普通の
「そりゃ下宿からこんな所へ移るのはよかあないだろうよ。ちょうどこっちが迷惑を感ずるとおり、向こうでも窮屈を感ずるわけだから。おれだって、小六が来ないとすれば、今のうち思いきって外套を作るだけの勇気があるんだけれども」
宗助は男だけに思いきってこう言ってしまった。けれどもこれだけではお米の心を尽くしていなかった。お米は返事もせずに、しばらく黙っていたが、細い
「小六さんは、まだ
「またヒステリーが始まったね。いいじゃないか、小六なんぞが、どう思ったって。おれさえついてれば」
「論語にそう書いてあって」
お米はこんな時に、こういう冗談を言う女であった。宗助は、
「うん、書いてある」と答えた。それで二人の会話がしまいになった。
翌日宗助が目をさますと、トタン張りの
「さあ、もう時間よ」と注意したとき、彼はこの点滴の音を聞きながら、もう少し暖かい蒲団の中にぬくもっていたかった。けれども血色のよくないお米の、かいがいしい姿を見るやいなや、
「おい」と言ってすぐ起き上がった。
外は濃い雨にとざされていた。崖の上の
「また靴の中がぬれる。どうしても二足持っていないと困る」と言って、底に小さい穴のあるのをしかたなしにはいて、ズボンの
「靴ばかりじゃない。家の中までぬれるんだね」と言って宗助は苦笑した。お米はその晩夫のために
あくる日もまた同じように雨が降った。夫婦もまた同じように同じことをくり返した。そのあくる日もまだ晴れなかった。三日目の朝になって、宗助は眉を縮めて舌打ちをした。
「いつまで降る気なんだ。靴がじめじめして我慢にもはけやしない」
「六畳だって困るわ、ああもっちゃ」
夫婦は相談して、雨が晴れしだい、屋根をつくろってもらうように家主へ掛け合うことにした。けれども靴のほうはなんともしようがなかった。宗助はきしんではいらないのをむりにはいて出ていった。
さいわいにその日は十一時ごろからからりと晴れて、
「あなた、あの
「せっかく
「これでもいい絵なんでしょうかね」と聞いたことがあった。その時宗助ははじめて抱一の名をお米に説明して聞かした。しかしそれは自分が昔父から聞いた覚えのある、おぼろげな記憶をいいかげんにくり返すにすぎなかった。実際の画の価値や、また抱一についての詳しい歴史などに至ると、宗助にもその実はなはだおぼつかなかったのである。
ところがそれが偶然お米のために妙な行為の動機をかたちづくる原因となった。過去一週間夫と自分のあいだに起こった会話に、ふとこの知識を結びつけて考ええた彼女は、ちょっとほほえんだ。この日雨が上がって、
お米は手を
お米はむろん夫が佐伯から受け取った屛風を、いくらかに売り払うつもりでわざわざここまで足を運んだのであるが、広島以来こういうことにだいぶ経験を積んだおかげで、普通の細君のような努力も苦痛も感ぜずに、思いきって亭主と口をきくことができた。亭主は五十がっこうの色の黒い頰のこけた男で、
「そうですな、拝見に出てもようがす」と軽く受け合ったが、べつに気の乗った様子もないので、お米は腹の中で少し失望した。しかし自分からがすでに大した望みをいだいて出てきたわけでもないので、こう簡易に受けられると、こっちから頼むようにしても、見てもらわなければならなかった。
「ようがす。じゃ後ほどうかがいましょう。今小僧がちょっと出ておりませんからな」
お米はこのぞんざいな言葉を聞いてそのまま
「お払いになるなら」と少し考えて、「六円にいただいておきましょう」といやいやそうに
「じゃ、奥さんせっかくだから、もう一円奮発しましょう。それでお払いください」と言った。お米はその時思いきって、
「でも、道具屋さん、ありゃ抱一ですよ」と答えて、腹の中ではひやりとした。道具屋は、平気で、
「抱一は近来はやりませんからな」と受け流したが、じろじろお米の姿をながめたうえ、
「じゃなおよく御相談なすって」と言い捨てて帰っていった。
お米はその時の模様を詳しく話したあとで、
「売っちゃいけなくって」とまた無邪気に聞いた。
宗助の頭の中には、このあいだから物質上の欲求が、絶えず動いていた。ただじみな生活をしなれた結果として、足らぬ
「売るなら売っていいがね。どうせ
「だってまた降ると困るわ」
宗助はお米に対して永久に天気を保証するわけにもゆかなかった。お米も降らないまえにぜひ屛風を売れとも言いかねた。二人は顔を見合わして笑っていた。やがて、
「安すぎるでしょうか」とお米が聞いた。
「そうさな」と宗助が答えた。
彼は安いと言われれば、安いような気がした。もし買手があれば、買手の出すだけの金はいくらでも取りたかった。彼は新聞で、近来古書画の入札が非常に高価になったことを見たような心持ちがした。せめてそんなものが一幅でもあったらと思った。けれどもそれは自分の呼吸する空気の届くうちには、落ちていないものとあきらめていた。
「買手にもよるだろうが、売手にもよるんだよ。いくら名画だって、おれが持っていた分にはとうていそう高く売れっこはないさ。しかし七円や八円てえな、あんまり安いようだね」
宗助は抱一の屛風を弁護するとともに、道具屋をも弁護するような語気をもらした。そうしてただ自分だけが弁護に価しないもののように感じた。お米も少し気を腐らした気味で、屛風の話はそれなりにした。
あくる日宗助は役所へ出て、同僚のだれかれにこの話をした。すると皆申し合わせたように、それは
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