十一
お米のぶらぶらしだしたのは、秋も半ば過ぎて、
近ごろはそれがだんだん落ち付いてきて、宗助の気をもむ
そこへ小六が引っ越してきた。宗助はそのころのお米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、夫だけによく知っていたから、なるべくは、
「大丈夫よ」と言った。この答を得た時、宗助はなおのこと安心ができなくなった。ところが不思議にも、お米の気分は、小六が引っ越してきてから、ずっと引き立った。自分に責任の少しでも加わったために、心が緊張したものとみえて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、お米が在来よりどれほどつとめているかがよくわかった。宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新しい感謝の念をいだくと同時に、こう気を張りすぎる結果が、一度にからだにさわるような騒ぎでも引き起こしてくれなければいいがと心配した。
不幸にも、この心配が暮れの
小六は六畳から出てきて、ちょっと
二時ごろになって、お米はやっとのこと、とろとろと眠ったが、目がさめたら額をまいた濡手拭がほとんどかわくくらい暖かになっていた。その代わり頭のほうは少し楽になった。ただ肩から背筋へかけて、全体に重苦しいような感じが新しく加わった。お米はなんでも精をつけなくては毒だという考えから、一人で起きておそい
「お気分はいかがでございます」と清がお給仕をしながら、しきりに聞いた。お米はだいぶいいようだったので、床を上げてもらって、火鉢によったなり、宗助の帰りを待ち受けた。
宗助は例刻に帰ってきた。神田の通りで、
「にぎやかだよ。ちょっと行ってごらん。なに電車に乗って行けばわけはない」と勧めた。そうして自分は寒さに腐食されたように赤い顔をしていた。
お米はこう宗助からいたわられた時、なんだか自分のからだの悪いことを訴えるに忍びない心持ちがした。実際またそれほど苦しくもなかった。それでいつものとおり
ところが九時近くになって、突然宗助に向かって、少しかげんが悪いからさきへ寝たいと言いだした。今まで平生のとおり機嫌よく話していただけに、宗助はこの言葉を聞いてちょっと驚いたが、大したことでもないというお米の保証に、ようやく安心してすぐ休む仕度をさせた。
お米が床へはいってから、約二十分ばかりのあいだ、宗助は耳のはたに
彼はいろいろな事情を総合して考えたうえ、まあ大丈夫だろうと腹の中できめた。そうして爪の先で軽く鉄瓶の縁をたたいた。その時座敷で、
「あなたちょっと」と言うお米の苦しそうな声が聞こえたので、我知らず立ち上がった。
座敷へ来てみると、お米は
「もう少し後の方」とお米が訴えるように言った。宗助の手がお米の思うところへ落ち付くまでには、二度も三度もそこここと位置をかえなければならなかった。指でおしてみると、
宗助は昔の言葉で早打ち肩というのを覚えていた。小さい時
お米はいつになくのぼせて、耳まで赤くしていた。頭が熱いかと聞くと苦しそうに熱いと答えた。宗助は大きな声を出して清に
「清、お前急いで通りへ行って、氷囊を買って医者を呼んで来い。まだ早いから起きてるだろう」
清はすぐ立って茶の間の時計を見て、
「九時十五分でございます」と言いながら、それなり勝手口へ回って、ごそごそ下駄を捜しているところへ、うまいぐあいに外から小六が帰ってきた。例のとおり兄には挨拶もしないで、自分の部屋へはいろうとするのを、宗助はおい小六とはげしく呼び止めた。小六は茶の間で少し
「どうかなすったんですか」と酔いが一時に去ったような表情をした。
宗助は清に命じたとおりを、小六に繰り返して、早くしてくれとせきたてた。小六は
「兄さん、医者まで行くのは急いでも時間がかかりますから、坂井さんの電話を借りて、すぐ来るように頼みましょう」
「ああ。そうしてくれ」と宗助は答えた。そうして小六の帰るあいだ、清に何べんとなく金盥の水をかえさしては、一生懸命にお米の肩をおしつけたり、もんだりしてみた。お米の苦しむのを、なにもせずにただ見ているにたえなかったから、こうして自分の気をまぎらしていたのである。
この時の宗助にとって、医者の来るのを今か今かと待ち受ける心ほどつらいものはなかった。彼はお米の肩をもみながらも、たえず表の物音に気を配った。
ようやく医者が来たときは、はじめて夜が明けたような心持ちがした。医者は商売柄だけあって、少しもうろたえた様子を見せなかった。小さい折り鞄をわきに引きつけて、落ち付きはらった態度で、慢性病の患者でも取り扱うようにゆっくりした診察をした。そのせまらない顔色をはたで見ていたせいか、わくわくした宗助の胸もようやく治まった。
医者は
とかくするうち約一時間もたった。医者はしばらく経過を見てゆこうと言って、それまでお米の枕元にすわっていた。世間話もおりおりはまじえたが、おおかたは無言のまま、二人ともにお米の容体を見守ることが多かった。
「だいぶ冷えますな」と医者が言った。宗助は気の毒になったので、あとの注意をよく聞いたうえ、遠慮なく引き取ってくれるようにと頼んだ。その時お米はさっきよりはだいぶ軽快になっていたからである。
「もう大丈夫でしょう。頓服を一回上げますから今夜飲んでごらんなさい。たぶん寝られるだろうと思います」と言って医者は帰った。小六はすぐその後を追って出ていった。
小六が薬取りに行ったあいだに、お米は、
「もう何時」と言いながら、枕元の宗助を見上げた。
「少しはいいだろう」と聞いた。
「ええよっぽど楽になったわ」とお米はいつものとおり微笑をもらした。お米はたいてい苦しい場合でも、宗助に微笑を見せることを忘れなかった。茶の間では、清が突っ伏したまま
「清を寝かしてやってください」とお米が宗助に頼んだ。
小六が薬取りから帰ってきて、医者の言いつけどおり服薬をすましたのは、もうかれこれ十二時近くであった。それから二十分とたたないうちに、病人はすやすや寝入った。
「いいあんばいだ」と宗助がお米の顔を見ながら言った。小六もしばらく
「もう大丈夫でしょう」と答えた。二人は氷囊を額からおろした。
やがて小六は自分の部屋へはいる。宗助はお米のそばへ床を延べていつものごとく寝た。五、六時間の後冬の
そのうち
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