十
佐伯の
ただ小六だけが時々話しに出かける様子であったが、これとても、そうしげしげ足を運ぶわけでもないらしかった。それに彼は帰ってきて、叔母の家の消息をほとんどお米に語らないのを常としておった。お米はこれを故意から出る小六のしうちかとも疑った。しかし自分が佐伯に対して特別の利害を感じない以上、お米は叔母の動静を耳にしないほうを、かえって喜んだ。
それでも時々は、
専門上の知識のない小六が、精密な返答をしうるはずはむろんなかった。彼はただ安之助から聞いたままを、覚えているかぎり念を入れて説明した。この印刷術は近来英国で発明になったもので、根本的にいうとやはり電気の利用にすぎなかった。電気の一極を活字と結びつけておいて、他の一極を紙に通じて、その紙を活字の上へおしつけさえすれば、すぐできるのだと小六が言った。色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから、色刷りなどの場合には、絵の具をかわかす時間が省けるだけでもたいへん重宝で、これを新聞に応用すれば、インキやインキロールの
「じゃ
「よしたんじゃないんですが、あのほうは費用がずいぶんかかるので、いくら便利でも、そうだれもかれもこしらえるわけにゆかないんだそうです」と小六が答えた。小六はいくぶんか安之助の利害を代表しているような口ぶりであった。それから三人のあいだに、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱりなにをしたって、そううまくゆくもんじゃあるまいよ」と言った宗助の言葉と、
「坂井さん見たように、お金があって遊んでいるのがいちばんいいわね」と言ったお米の言葉を聞いて、小六はまた自分の
こういう機会に、佐伯の消息はおりおり夫婦の耳へもれることはあるが、そのほかには、まったくなにをして暮らしているか、互いに知らないですごす月日が多かった。
ある時お米は宗助にこんな問をかけた。
「小六さんは、安さんのところへ行くたんびに、小遣いでももらってくるんでしょうか」
今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問にあって、すぐ、「なぜ」と聞き返した。お米はしばらくためらった末、
「だって、このごろよくお酒を飲んで帰ってくることがあるのよ」と注意した。
「安さんが例の発明や、金もうけの話をするとき、その聞き賃におごるのかもしれない」と言って宗助は笑っていた。会話はそれなりでつい発展せずにしまった。
越えて三日目の夕方に、小六はまた
「小六さんにお酒をやめるように、あなたから言っちゃいけなくって」と切り出した。
「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」と宗助は少し案外な顔をした。
お米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。けれども実際はだれもいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰ってこられるのが、不安だったのである。宗助はそれなりほうっておいた。しかし腹の中では、はたしてお米の言うごとく、どこかで金を借りるか、もらうかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと
そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二を領するように押し詰まってきた。風が毎日吹いた。その音を聞いているだけでも、
それでも冷たい雨が横に降ったり、雪どけの道がはげしくぬかったりする時は、着物をぬらさなければならず、
「小六さんお酒好き」とお米が聞いたことがあった。
「もうじきお正月ね。おなたお
そういう場合がたび重なるにつれて、二人のあいだは少しずつ近寄ることができた。しまいには、
「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。なにをしたってこれからだわ。そりゃ
お米は二度ばかりこういう慰め方をした。三度目には、
「来年になれば、安さんのほうでどうか都合してあげるって受け合ってくだすったんじゃなくって」と聞いた。小六はその時ふたしかな表情をして、
「そりゃ安さんの計画が、口でいうとおりうまくいけばわけはないんでしょうが、だんだん考えると、なんだか少しあてにならないような気がしだしてね。鰹船もあんまりもうからないようだから」と言った。お米は小六の
「ほんとうにね。兄さんにさえお金があると、どうでもしてあげることができるんだけれども」と、お世辞でもなんでもない、同情の意を表した。
その夕暮れであったか、小六はまた寒いからだを
その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びたことを聞いた。この縁談は安之助が学校を卒業するとまもなく起こったもので、小六が
「いい器量?」とお米が聞いたことがある。
「まあいいほうでしょう」と小六が答えたことがある。
その晩はなぜ暮れのうちに式を済まさないかというのが、蕎麦搔きのでき上がるあいだ、三人の話題になった。お米は方位でも悪いのだろうと
「やっぱり物質的の必要かららしいです。先がなんでもよほどはでな
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