十三

 新年の頭をこしらえようという気になって、宗助は久しぶりにかみゆいどこの敷居をまたいだ。暮れのせいか客がだいぶ立て込んでいるので、はさみの音が二、三か所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さをむりに乗り越して、一日も早く春に入ろうとあせるような表通りの活動を、宗助は今見てきたばかりなので、その鋏の音が、いかにもせわしない響きとなって彼の鼓膜を打った。

 しばらくストーブのはたで煙草を吹かして待っているあいだに、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動にいやおうなしにまきこまれて、やむをえず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を目の前へ控えた彼は、実際これという新しい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、なんだかざわざわした心持ちをいだいていたのである。

 お米のほつはようやく落ち付いた。今ではいつものごとく外へ出ても、うちのことがそれほど気にかからないぐらいになった。よそに比べると閑静な春の仕度も、お米からいえば、年に一度の忙がしさには違いなかったので、あるいはいつもどおりの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、よみがえったようにはっきりしたさいの姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠のいた時のごとくに、胸をなでおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕えに来るかわからないという、ぼんやりしたねんが、おりおり彼の頭のなかに霧となってかかった。

 年の暮れに、事を好むとしか思われない世間の人が、わざと短い日を前に押し出したがってあくせくする様子を見ると、宗助はなおのことこのぼうばくたる恐怖の念に襲われた。なろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走しわすのうちに一人残っていたい思いさえ起こった。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見いだした時、ふとこの影は本来何者だろうとながめた。首から下はまっ白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞もまったく見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥のかごが、鏡の奥に映っていることに気がついた。鳥が止まり木の上をちらりちらりと動いた。

 頭へにおいのする油を塗られて、景気のいい声を後からかけられて、表へ出たときは、それでも清々した心持ちであった。お米のすすめどおり髪を刈ったほうが、つまり気を新たにする効果があったのを、冷たい空気のなかで、宗助は自覚した。

 水道税のことでちょっと聞き合わせる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。下女が出てきて、こちらへと言うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導いていった。すると茶の間の襖が二寸ばかりあいていて、中から三、四人の笑い声が聞こえた。坂井の家庭は相変わらず陽気であった。

 主人はのいい長火鉢の向こう側にすわっていた。細君は火鉢を離れて、少し縁側の障子の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。主人の後に細長い黒いわくにはめた柱時計がかかっていた。時計の右が壁で、左がふくろだなになっていた。そのはりまぜいしずりだの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。

 主人と細君のほかに、つつそでのそろいの模様にを着た女の子が二人肩をすりつけ合ってすわっていた。片方は十二、三で、片方はとおぐらいに見えた。大きな目をそろえて、襖の陰からはいってきた宗助の方を向いたが、二人の目元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。宗助は一応へやの内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、いちばん入口に近い所にかしこまっているのを見いだした。

 宗助はすわって五分とたたないうちに、さっきの笑い声は、この変な男と坂井の家族とのあいだにとりかわされた問答から出ることを知った。男はすなほこりでざらつきそうな赤い毛と、日に焼けてしようがいさめっこない強い色をもっていた。瀬戸物のボタンのついた白木綿のシャツを着て、手織のこわいぬのの襟から財布の紐みたような長い丸打ちをかけた様子は、めったに東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。そのうえ男はこの寒いのにひざぞうを少し出して、紺の落ちたくらの帯の尻に差した手拭を抜いては鼻の下をこすった。

 「これはの国からたんものをしょってわざわざ東京まで出てくる男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、

 「どうか旦那、一つ買っておくれ」と挨拶をした。

 なるほどめいせんだのおめしだの、しろつむぎだのがそこらいちめんにとり散らしてあった。宗助はこの男のや言葉づかいのおかしいわりに、りっぱな品物を背中へ乗せて歩くのをむしろ不思議に思った。主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米もあわもとれないから、やむをえず桑を植えてかいこを飼うんだそうであるが、よほど貧しい所とみえて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う子供が三人しかないという話であった。

 「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」と言って細君は笑った。すると織屋も、

 「ほんとうのことだよ、奥さん。読み書きさんぴつのできるものは、おれよりほかにねえんだからね。まったくひどい所にゃ違いない」とまじめに細君の言うことをうけがった。

 織屋はいろいろのたんものを主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」という言葉をしきりに繰り返した。そりゃ高いよ、いくらいくらにおまけなどと言われると、「じゃねえね」とか、「拝むからそれで買っておくれ」とか、「まあ目方を見ておくれ」とかすべて異様ないなかびた答をした。そのたびにみんなが笑った。主人夫婦はまたひまだとみえて、おもしろ半分にいつまでも織屋の相手をした。

 「織屋、お前そうして荷をしょって、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳を食べるんだろうね」と細君が聞いた。

 「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減ることちゅうたら」

 「どんな所で食べるの」

 「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」

 主人は笑いながら茶屋とはなんだと聞いた。織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へたてには、飯が非常にうまいので、腹をすえて食いだすと、たいていの宿屋はかなわない。三度三度食っちゃ気の毒だというようなことを話して、またみんなを笑わした。

 織屋はしまいによりいとの紬と、しろを一匹細君に売りつけた。宗助はこの押し詰まった暮れに、夏の絽を買う人を見て、余裕のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向かって、

 「どうですあなたも、ついでになにか一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこういう機会に買っておくと、幾割か値安に買える便宜を説いた。そうして、

 「なにお払いはいつでもいいんです」と受け合ってくれた。宗助はとうとうお米のために、銘仙を一反買うことにした。主人はそれをさんざん値切って三円にまけさした。織屋はまけたあとでまた、

 「まったく値じゃねえね。泣きたくなるね」と言ったので、大勢がまた一度に笑った。

 織屋はどこへ行っても、こういうひなびた言葉を使って通しているらしかった。毎日なじみの家をぐるぐる回って歩いているうちには、背中の荷がだんだんかろくなって、しまいに紺の風呂敷とさなひもだけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新しい反物をしょえるだけしょって出てくるのだと言った。そうして養蚕の忙しい四月の末か五月の初めまでに、それをすっかり金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっているむらへ帰って行くのだそうである。

 「うちへ来だしてから、もう四、五年になりますが、いつ見ても同じことで、少しも変わらないんですよ」と細君が注意した。

 「じっさい珍しい男です」と主人も評語を添えた。三日も外へ出ないと、町幅がいつのまにかとり広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過ごしたりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持してゆくのは、じっさい珍しいに違いなかった。宗助はつくづくこの織屋のようぼうやら、態度やら、服装やら、言葉使いやらを観察して、一種気の毒な思いをなした。

 彼は坂井を辞して、うちへ帰る途中にも、おりおりインバネスの羽根の下にかかえて来た銘仙の包みを持ちかえながら、それを三円という安い価で売った男の、粗末なぬのの縞と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気のないこわい髪の毛が、どういうわけか、頭のまん中でりっぱに左右に分けられているさまを、絶えず目の前に浮かべた。

 うちではお米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、おしの代わりに座蒲団の下へ入れて、自分でその上へすわっているところであった。

 「あなた今夜敷いて寝てください」と言って、お米は宗助をかえりみた。夫から、坂井へ来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、お米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙のしまがらあいを飽かずながめては、安い安いと言った。銘仙はまったく品のいいものであった。

 「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」としまいに聞きだした。

 「なに中へ立つ呉服屋がもうけすぎてるのさ」と宗助はその道に明るいようなことを、この一反の銘仙から推断して答えた。

 夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のあることと、その余裕のために、横町の道具屋などに意外な儲けかたをされる代わりに、時とするとこういう織屋などから、さしむき不用のものを廉価に買っておく便宜を有していることなどに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、にぎやかな模様に落ちていった。宗助はその時突然語調をかえて、

 「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、たいてい貧乏なうちでも陽気になるものだ」とお米をさとした。

 その言い方が、自分たちのさみしい生涯を、多少みずからたしなめるような苦い調子を、お米の耳に伝えたので、お米はおぼえず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見た。宗助は坂井から取ってきた品が、お米のこうに合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、べつだんそこには気がつかなかった。お米もちょっと宗助の顔を見たなり、その時はなんにも言わなかった。けれどもに入って寝る時間が来るまで、お米はそれをわざと延ばしておいたのである。

 二人はいつものとおり十時過ぎ床にはいったが、夫の目がまださめているころをみはからって、お米は宗助の方を向いて話しかけた。

 「あなたさっき子供がないとさむしくっていけないとおっしゃってね」

 宗助はこれに類似のことを普般的に言った覚えはたしかにあった。けれどもそれはあながちに、自分たちの身の上について、特にお米の注意をひくために口にした、故意の観察でないのだから、こう改まって聞きただされると、困るよりほかはなかった。

 「なにもうちのことを言ったのじゃないよ」

 この返事を受けたお米は、しばらく黙っていた。やがて、

 「でも宅のことを始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、ひっきょうあんなことをおっしゃるんでしょう」とまえとほぼ似たような問を繰り返した。宗助はもとよりそうだと答えなければならないあるものを頭の中にもっていた。けれどもお米をはばかって、それほどあからさまな自白をあえてしえなかった。この病気あがりの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談にして笑ってしまうほうがよかろうと考えたので、

 「淋しいといえば、そりゃ淋しくないでもないがね」と調子をかえてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったきり、新しい文句も、おもしろい言葉も容易に思いつけなかった。やむをえず、

 「まあいいや。心配するな」と言った。お米はまたなんとも答えなかった。宗助は話題を変えようと思って、

 「昨夕ゆうべも火事があったね」と世間話をしだした。するとお米は急に、

 「私は実にあなたにお気の毒で」とせつなそうに言い訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。ランプはいつものように床の間の上にすえてあった。お米はにそむいていたから、宗助には顔の表情がはっきりわからなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まであお向いて天井を見ていた彼は、すぐさいの方へ向き直った。そうして薄暗い影になったお米の顔をじっとながめた。お米も暗いなかからじっと宗助を見ていた。そうして、

 「とうからあなたに打ち明けてあやまろうあやまろうと思っていたんですが、つい言いにくかったもんだから、それなりにしておいたのです」ととぎれとぎれに言った。宗助にはなんの意味かまるでわからなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらくぼんやりしていた。するとお米が思いつめた調子で、

 「私にはとても子供のできる見込みはないのよ」と言いきって泣きだした。

 宗助はこの可憐な自白をどうなぐさめていいか、分別に余って当惑していたうちにも、お米に対してはなはだ気の毒だという思いが非常に高まった。

 「子供なんざ、なくてもいいじゃないか。上の坂井さん見たようにたくさん生まれてごらん、はたから見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」

 「だって一人もできないときまっちまったら、あなただってよかないでしょう」

 「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生まれるかもしれないやね」

 お米はなおと泣きだした。宗助もとほうにくれて、ほつの治まるのを穏やかに待っていた。そうして、ゆっくりお米の説明を聞いた。

 夫婦は和合どうせいという点において、人並み以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それもはじめから宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落としたのだから、さらに不幸の感が深かった。

 はじめておもになったのは、二人が京都を去って、広島にやせじよたいを張っている時であった。懐妊とことがきまったとき、お米はこの新しい経験に対して、恐ろしい未来と、うれしい未来を、一度に夢に見るような心持ちをいだいて日を過ごした。宗助はそれを目に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉のかたまりが、目の前におどる時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五か月まで育って突然おりてしまった。その時分の夫婦の活計くらしは苦しいつらい月ばかり続いていた。宗助は流産したお米の蒼い顔をながめて、これもつまりは世帯の苦労から起こるんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のためにうちくずされて、ながく手のうちに捕えることのできなくなったのを残念がった。お米はひたすら泣いた。

 福岡へ移ってからまもなく、お米はまたいものをたしなむ人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、お米はよろずに注意して、つつましやかにふるまっていた。そのせいか経過は至極順当にいったが、どうしたわけか、これという原因もないのに、月足らずで生まれてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者に診てもらうと、発育が十分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変わらないくらい、人工的に暖めなければいけないと言った。宗助のてぎわでは、室内に暖炉をすえつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許すかぎりを尽くして、専念にあかの命をまもった。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情の塊はついに冷たくなった。お米は幼児のなきがらをいだいて、

 「どうしましょう」とすすり泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土にするまで、一口も愚痴らしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人のあいだにはさまっていた影のようなものが、しだいに遠のいて、ほどなく消えてしまった。

 すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移ってはじめての年に、お米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶからだが衰えていたので、お米はもちろん、宗助もひどくそこを気づかったが、今度こそはという腹は両方にあったので、はりのある月を無事にだんだんと重ねていった。ところがちょうどいつつきになって、お米はまた意外の失敗しくじりをやった。そのころはまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女がばたへ出て水をくんだり、洗濯をしなければならなかった。お米はある日裏にいる下女に言いつける用ができたので、井戸流しのそばに置いたたらいのそばまで行って話をしたついでに、流しを向こうへ渡ろうとして、青いこけのはえているぬれた板の上へ尻持ちを突いた。お米はまたやりそこなったとは思ったが、自分のこつを面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分のからだにも少しの異状を引き起こさなかったことがたしかにわかった時、お米はようやく安心して、過去のしつを改めて宗助の前に告げた。宗助はもとより妻をとがめる意もなかった。ただ、

 「よく気をつけないとあぶないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。

 とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生まれるという間ぎわまで日が詰まったとき、宗助は役所へ出ながらも、お米のことがしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子の前に立った。そうしてなかば予期している赤児の泣き声が聞こえないと、かえってなにかの変でも起こったらしく感じて、急いでうちへ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずることがあった。

 さいわいにお米の産気づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、そばにいて世話のできるという点から見ればはなはだ都合がよかった。産婆もゆっくり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なくとりそろえてあった。産も案外軽かった。けれどもかんじんの小児こどもは、ただ子宮をのがれて広いところへ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細いガラスのくだのようなものを取って、小さい口のなかへ強いをしきりに吹き込んだが、きき目はまるでなかった。生まれたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、目と鼻と口とをほうふつした。しかしそののどから出る声はついに聞くことができなかった。

 産婆は出産のあったつい一週間まえに来て、丁寧に胎児の心臓まで聴診して、至極御健全だと保証していったのである。よく産婆の言うことに間違いがあって、腹のの発育が今までのうちにどこかで止まっていたにしたところで、それがすぐ取り出されない以上、母体は今日まで平気に持ちこたえるわけがなかった。そこをだんだん調べてみて、宗助は自分がいまだかつて聞いたことのない事実を発見した時に、思わず恐れ驚いた。胎児は出る間ぎわまで健康であったのである。けれどもさいたいてんらくといって、俗にいうえなくびへまきつけていた。こういう異常の場合には、もとより産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のあるばあさんなら、取り上げる時に、うまく頸にかかった胞をはずして引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年と取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸をからんでいた臍帯は、時たまあるごとくひとではなかった。ふたに細い咽喉を巻いている胞を、あの細いところを通す時にはずしそこなったので、小児こどもはぐっと気管をしめられて窒息してしまったのである。

 罪は産婆にもあった。けれどもなかば以上はお米の落度に違いなかった。臍帯纏絡の変状は、お米が井戸端で滑って痛く尻持ちをついた五か月まえすでにみずからかもしたものと知れた。お米は産後のじよくちゆうにその始末を聞いて、ただ軽くうなずいたきりなんにも言わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ目をうるませて、長いまつをしきりに動かした。宗助はなぐさめながら、ハンケチでほおに流れる涙をふいてやった。

 これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦い経験をなめた彼等は、それ以後幼児についてあまり多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のためにさむしく染めつけられて、容易にはげそうにはみえなかった。時としては、彼我の笑い声を通してさえ、お互いの胸に、この裏側が薄暗く映ることもあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向かって新たに繰り返そうとは、お米も思いよらなかったのである。宗助も、いまさら妻からそれを聞かせられる必要は、少しも認めていなかったのである。

 お米の夫に打ち明けるといったのは、もとより二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からそのおりの模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下した覚えがないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、くらやみと明るみの途中に待ち受けて、これをこうさつしたと同じことであったからである。こう解釈したとき、お米は恐ろしい罪を犯した悪人とおのれをみなさないわけにゆかなかった。そうして思わざる徳義上のしやくを人知れず受けた。しかもその呵責を分かって、ともに苦しんでくれるものは世界じゅうに一人もなかった。お米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。

 彼女はそのとき普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それはからだからいうときわめて安静の三週間に違いなかった。同時に心からいうと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さいひつぎをこしらえて、人の目に立たない葬儀を営んだ。しかる後、また死んだもののために小さなはいを作った。位牌には黒いうるしで戒名が書いてあった。位牌の主は戒名を持っていた。けれども俗名はふたおやといえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間のたんの上へのせて、役所から帰ると絶えず線香をたいた。そのにおいが六畳に寝ているお米の鼻に時々通った。彼女の官能は当時それほどに鋭くなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌を簞笥の引出しの底へしまってしまった。そこには福岡でなくなった子供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が、別々に綿でくるんで丁寧に入れてあった。東京の家を畳むとき、宗助は先祖の位牌を一つ残らず携えて、諸所を漂泊するのわずらわしさに堪えなかったので、新しい父の分だけを鞄の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。

 お米は宗助のするすべてを、寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして蒲団の上にあお向けになったまま、この二つの小さい位牌を、目に見えない因果の糸を長く引いて互いに結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、はじめから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。お米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命のおごそかな支配を認めて、そのおごそかな支配のもとに立つ、幾月日の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じたとき、時ならぬ呪詛のろいの声を耳のはたに聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団の上にむさぼらなければならないように、生理的にしいられているあいだ、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間のあんは、お米にとって実に比類のない忍耐の三週間であった。

 お米はこの苦しい半月あまりを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにもつらかったので、看護婦の帰ったあくる日に、こっそり起きてぶらぶらしてみたが、それでも心にせまる不安は、容易にまぎらせなかった。たいぎなからだをむりに動かすわりに、頭の中は少しも動いてくれないので、またがっかりして、ついには取り放しの夜具の下へもぐり込んで、人の世を遠ざけるように、目を堅くつぶってしまうこともあった。

 そのうち定期の三週間も過ぎて、お米のからだはおのずからすっきりなった。お米はきれいに床を払って、新しい気のするまゆを再び鏡に照らした。それはころもがえの時節であった。お米も久しぶりに綿のはいった重いものを脱ぎ捨てて、はだあかの触れない軽い気持ちをさわやかに感じた。春と夏の境いをぱっと飾る陽気な日本の風物は、さむしいお米の頭にもいくぶんかの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものをかき立てて、にぎやかな光のうちに浮かしたまでであった。お米の暗い過去のなかに、その時一種の好奇心がきざしたのである。

 天気のすぐれて美しいある日の午前、お米はいつものとおり宗助を送り出してからじきに、表へ出た。もう女はがさをさして外を行くべき時節であった。急いでなたを歩くと額のあたりが少し汗ばんだ。お米は歩き歩き、着物を着換えるとき、簞笥をあけたら、思わず一番目の引出しの底にしまってあった、新しい位牌に手が触れたことを思いつづけて、とうとうある易者の門をくぐった。

 彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけですんでいた。それが実生活のおごそかな部分を冒すようになったのは、まったく珍しいといわなければならなかった。お米はその時まじめな態度とまじめな心をもって、易者の前にすわって、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確かめた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一、二銭でうらなう人と、少しも違った様子もなく、さんをいろいろに並べてみたり、ぜいちくをもんだり数えたりした後で、しさいらしくあごの下のひげを握ってなにか考えたが、終わりにお米の顔をつくづくながめた末、

 「あなたには子供はできません」と落ち付きはらって宣告した。お米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中でかんだり砕いたりした。それから顔を上げて、

 「なぜでしょう」と聞き返した。その時お米は易者が返事をするまえに、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともにお米の目の間を見つめたまま、すぐ、

 「あなたは人に対してすまないことをした覚えがある。その罪がたたっているから、子供はけっして育たない」と言いきった。お米はこのいちげんに心臓を射抜かれる思いがあった。くしゃりと首を折ったなりうちへ帰って、そのは夫の顔さえろくろく見上げなかった。

 お米の宗助に打ちあけないで、今まで過ごしたというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細いランプのが、よるの中に沈んでゆきそうな静かな晩に、はじめてお米の口からその話を聞いたとき、さすがにいい気味はしなかった。

 「神経の起こったとき、わざわざそんなばかなところに出かけるからさ。ぜにを出してくだらないことを言われて、つまらないじゃないか。その後もそのうらないのうちへ行くのかい」

 「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」

 「行かないほうがいい。ばかげている」

 宗助はわざとおうような答をしてまた寝てしまった。

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