二十二
家の敷居をまたいだ宗助は、おのれにさえ
「汽車に乗ると短い道中でも気のせいか疲れるね。留守中にべつだん変わったことはなかったかい」と聞いた。じっさい彼は短い汽車旅行にさえたえかねる顔つきをしていた。
お米はいかな場合にも、夫の前に忘れなかった笑顔さえ作りえなかった。といって、せっかく保養に行った転地先から今帰ってきたばかりの夫に、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話しにくかった。わざと活発に、
「いくら保養でも、
宗助はお米の言葉を聞いて、はじめて一窓庵の空気を風で払ったような心持ちがした。ひとたび山を出て
「坂井さんからはその後なんともいってこないかい」
「いいえなんとも」
「小六のことも」
「いいえ」
その小六は図書館へ行って留守だった。宗助は手拭と
あくる日役所へ出ると、みんなから病気はどうだと聞かれた。なかには少しやせたようですねと言うものもあった。宗助にはそれが無意識の冷評の意味に聞こえた。菜根譚を読む男はただ、どうですうまくいきましたかと尋ねた。宗助はこの問にもだいぶ痛い思いをした。
その晩はまたお米と小六から、代る代る鎌倉のことを根堀り葉堀り問われた。
「気楽でしょうね。留守居もなにも置かないで出られたら」とお米が言った。
「それで
「しかし退屈ね。そんなに
「もう少し滋養物が食えるところでなくっちゃあ、やっぱりからだによくないでしょう」と小六がまた言った。
宗助はその
次の日は平凡に宗助の頭を照らして、事なき光を西に落とした。夜に入って彼は、
「ちょっと坂井さんまで行ってくる」と言い捨てて門を出た。月のない坂をのぼって、ガス燈に照らされた
「よくおいでです。どうも相変わらず寒いじゃありませんか」と言う常のとおり元気のいい主人を見ると、子供を大ぜい自分の前へ並べて、そのうちの一人と掛け声をかけながら、じゃん
「そら
「とうとう雪子に負けた」と席をはずして、宗助の方を向いたが、「どうですまた
書斎の柱には、例のごとく
「相変わらずかかっておりますな」と言った。そうして主人の
「ええちとものずきすぎますね、蒙古刀は」と答えた。「ところが
「御舎弟はその後どうなさいました」と宗助はなにげないふうを示した。
「ええようやく四、五日まえ帰りました。ありゃまったく蒙古向きですね。お前のような
「もう一人のお
「安井ですか、あれもむろんいっしょです。ああなると落ち付いちゃいられないとみえますね。なんでも元は京都大学にいたこともあるんだとかいう話ですが。どうして、ああ変化したものですかね」
宗助は
下女が平たい大きな菓子皿に妙な菓子を盛って出た。一丁の豆腐ぐらいな大きさの
「どうです一つ」といつものとおりまず自分から手を出した。
「これはね、
主人はあやかりたい名のもとに、甘たるい金玉糖を幾切れか
「なに実をいうと、二十年も三十年も夫婦が
彼のいうところによると、清水谷から
「
こんな冗談まじりの話を、主人はいくらでも続けるので、宗助はやむをえずある辺まではつられていった。けれども腹の中はけっして主人のように太平楽にはゆかなかった。辞して表へ出て、また月のない空をながめた時は、その深く黒い色のもとに、なんとも知れない一種の悲哀とものすごさを感じた。
彼は坂井の家に、ただいやしくもまぬかれんとする了見で行った。そうして、その目的を達するために、恥と不愉快を忍んで、好意と
彼の頭をかすめんとした雨雲は、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれからさき何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければすまないような、虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天のことであった。それを逃げて回るのは宗助のことであった。
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