門
夏目漱石/カクヨム近代文学館
一
「おい、よい天気だな」と話しかけた。細君は、
「ええ」と言ったなりであった。宗助もべつに話がしたいわけでもなかったとみえて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君のほうから、
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と言った。しかしその時は宗助がただうんという生返事を返しただけであった。
二、三分して、細君は障子のガラスの所へ顔を寄せて、縁側に寝ている夫の姿をのぞいて見た。夫はどういう了見か
「あなたそんな所へ寝ると
宗助は両肱の中で大きな目をぱちぱちさせながら、
「寝やせん、大丈夫だ」と小声で答えた。
それからまた静かになった。外を通るゴム車のベルの音が二、三度鳴ったあとから、遠くで鶏の
「お
「
「その近江のおうの字がわからないんだ」
細君は立て切った障子を半分ばかりあけて、敷居の外へ長い物差を出して、その先で近の字を縁側へ書いて見せて、
「こうでしょう」と言ったぎり、物差の先を、字のとまったところへ置いたなり、澄み渡った空をひとしきりながめ入った。宗助は細君の顔も見ずに、
「やっぱりそうか」と言ったが、冗談でもなかったとみえて、べつに笑いもしなかった。細君も近の字はまるで気にならない様子で、
「ほんとうにいいお天気だわね」となかばひとり言のように言いながら、障子をあけたまままた
「どうも字というものは不思議だよ」とはじめて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくらやさしい字でも、こりゃ変だと思って疑りだすとわからなくなる。このあいだも
「まさか」
「おれだけかな」と宗助は頭へ手を当てた。
「あなたどうかしていらっしゃるのよ」
「やっぱり神経衰弱のせいかもしれない」
「そうよ」と細君は夫の顔を見た。夫はようやく立ち上がった。
針箱と
崖は秋に入ってもべつに色づく様子もない。ただ青い草の
宗助は障子を
宗助は銀金具のついた机の引出しをあけてしきりに中を調べだしたが、べつになにも見付け出さないうちに、はたりとしめてしまった。それから
「おい、
「二十五番地じゃなくって」と細君は答えたが、宗助が
「手紙じゃだめよ。行ってよく話をしてこなくっちゃ」とつけ加えた。
「まあ、だめまでも手紙を一本出しておこう。それでいけなかったら出かけるとするさ」と言いきったが、細君が返事をしないので、
「ねえ、おい、それでいいだろう」と念を押した。
細君は悪いとも言いかねたとみえて、そのうえ争いもしなかった。宗助は郵便を持ったまま、座敷からすぐ玄関に出た。細君は夫の足音を聞いてはじめて、座を立ったが、これは茶の間の縁伝いに玄関に出た。
「ちょっと散歩に行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」と細君は微笑しながら答えた。
三十分ばかりして
「暑い」と言っている。
「だってあんまりだわ。このお天気にそんな厚いものを着て出るなんて」
「なに、日が暮れたら寒いだろうと思って」と小六は言い訳を半分しながら、
「相変わらず精が出ますね」と言ったなり、
「お茶ならたくさんです」と小六が言った。
「いや?」と女学生流に念を押したお米は、
「じゃお菓子は」と言って笑いかけた。
「あるんですか」と小六が聞いた。
「いいえ、ないの」と正直に答えたが、思い出したように、「待ってちょうだい、あるかもしれないわ」と言いながら立ち上がる拍子に、横にあった炭取りを取りのけて、袋戸棚をあけた。小六はお米の後姿の、羽織が帯で高くなったあたりをながめていた。なにを捜すのだか、なかなか手間がとれそうなので、
「じゃお菓子もよしにしましょう。それよりか、
「兄さんは今ちょいと」と後ろ向きのまま答えて、お米はやはり戸棚の中を捜している。やがてぱたりと戸をしめて、
「だめよ。いつのまにか兄さんがみんな食べてしまった」と言いながら、また火鉢の向こうへ帰ってきた。
「じゃ晩になにかごちそうなさい」
「ええしてよ」と柱時計を見ると、もう四時近くである。お米は「四時、五時、六時」と時間を勘定した。小六は黙って嫂の顔を見ていた。彼はじっさい嫂のごちそうにはあまり興味を持ちえなかったのである。
「
「このあいだから行く行くって言ってることは言ってるのよ。だけど、兄さんも朝出て夕方に帰るんでしょう。帰るとくたびれちまって、お湯に行くのもたいぎそうなんですもの。だから、そう責めるのもじっさいお気の毒よ」
「そりゃ兄さんも忙しいには違いなかろうけれども、僕もあれがきまらないと気がかりで落ち付いて勉強もできないんだから」と言いながら、小六は
「だからさっき手紙を出しておいたのよ」と慰めるように言った。
「なんて」
「そりゃ
「もし手紙を出したのなら、その用には違いないでしょう」
「ええ、ほんとうに出したのよ。今兄さんがその手紙を持って、出しに行ったところなの」
小六はこれ以上弁解のような慰謝のような、嫂の言葉に耳を借したくなかった。散歩に出るひまがあるなら、手紙の代わりに自分で足を運んでくれたら、よさそうなものだと思うと、あまりいい心持ちでもなかった。座敷へ来て、書棚の中から赤い表紙の洋書を出して、方々ページをはぐって見ていた。
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