十六
正月は
「こりゃいけない」と言いながら玄関へ上がった。その様子があたかもお米を
「どうもすみません。ほんとうにお気の毒さま」と言って笑いだした。宗助はべつに返すべき冗談ももたなかった。
「お米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄をはかなくっちゃならないようにみえるだろう。ところが下町へ出ると大違いだ。どの通りもどの通りもからからで、かえって埃がたつくらいだから、足駄なんぞはいちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこういう所に住んでいる我々は、一世紀がたおくれることになるんだね」
こんなことを口にする宗助は、べつに不足らしい顔もしていなかった。お米も夫の鼻の穴をくぐる煙草の
「坂井さんへ行って、そう言っていらっしゃいな」と軽い返事をした。
「そうして屋賃でもまけてもらうことにしよう」と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。
その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のあるところを一日のうちにほぼかたづけて夕方帰ってみると、留守のあいだに、坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。三日目の日暮れに下女が使いに来て、おひまならば、旦那様と奥様と、それから若旦那様にぜひ今晩お遊びにいらっしゃるようにと言って帰った。
「なにをするんだろう」と宗助は疑った。
「きっと
「せっかくだからお前行くがいい。おれは歌留多は久しく取らないからだめだ」
「私も久しく取らないからだめですわ」
二人は容易に行こうとはしなかった。しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くがよかろうということになった。
「若旦那行ってこい」と宗助が小六に言った。小六は苦笑いして立った。夫婦は若旦那という名を小六にかむらせることを、たいへんな
その晩小六は大晦日に買った梅の花のお手玉を
「ずいぶん念の入った趣向だね。いったいだれの考えだい」と兄が聞いた。
「だれですかな」と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへほうり出したまま、自分の
それから二、三日して、たしか
「春もようやく一段落がついた」と語っていた。そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、お米は夫の顔を見て微笑した。宗助は茶碗を置いて、
「まだなにか催しがあるのかい」と少し迷惑そうな
「それじゃ行こう」と言って宗助は出かけた。宗助は一般の社交をきらっていた。やむをえなければ会合の席などへ顔を出す男でなかった。個人としての
「あっちへ行きましょう」と言って、茶の間を通り越して、廊下伝いに小さな書斎へはいった。そこには
「さあどうぞ」と言いながら、どこかぴちりとひねって、電気燈をつけた。それから、
「ちょっと待ちたまえ」と言って、マッチでガス
「これが僕の
宗助も厚い綿の上で、一種の静かさを感じた。ガスの燃える音がかすかにして、しだいに背中からほかほか暖まってきた。
「ここにいると、もうどことも交渉はない。まったく気楽です。ゆっくりしていらっしゃい。じっさい正月というものは予想外にうるさいものですね。私も
そこへ下女が三尺の狭い入り口をあけてはいってきたが、改めて宗助に丁寧なお辞儀をしたうえ、木皿のような菓子皿のようなものを、一つ前に置いた。それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを言わずにさがった。木皿の上にはゴム
「どうですあったかいうちに」と主人が言ったので、宗助ははじめてこの饅頭の蒸してまもない新しさに気がついた。珍しそうに黄色い皮をながめた。
「いやできたてじゃありません」と主人がまた言った。「実は昨夜あるところへ行って、冗談半分にほめたら、お
主人は
そのあいだに主人は
「それでね
主人はこんなことをはなはだ気楽そうに述べたてた。その話の様子からして考えると、彼はのべつにこういう場所に
宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、しいて興味を装う必要もなく、ただ尋常な挨拶をするところが、かえって主人の気に入るらしかった。彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去をのぞくようなそぶりを見せた。しかしそちらへは宗助が進みたがらない
そのうち小六の
「さよう、それと反対で、社会教育だけあって学校教育のないものは、ずいぶん複雑な性情を発揮する代わりに、頭はいつまでも子供ですからね。かえって始末が悪いかもしれない」
主人はここでちょっと笑ったが、やがて、
「どうです、私のところへ書生によこしちゃ、少しは社会教育になるかもしれない」と言った。主人の書生は彼の犬が病気で病院へはいる一か月まえとかに、徴兵検査に合格して入営したぎり、今では一人もいないのだそうであった。
宗助は小六の所置をつける好機会が、求めざるに先だって、春とともにおのずからめぐってきたのを喜んだ。同時に、今まで世間に向かって、積極的に好意と親切を要求する勇気をもたなかった彼は、突然この主人の申しいでにあって少しまごつくくらい驚いた。けれどもできるならなりたけ早く弟を坂井に預けておいて、この変動から出る自分の余裕に、いくぶんか安之助の補助を足して、そうして本人の希望どおり、高等の教育を受けさしてやろうという分別をした。そこで打ち明けた話を腹蔵なく主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけであったが、しまいにぞうさなく、
「そいつはいいでしょう」と言ったので、相談はほぼその座でまとまった。
宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。また辞して帰ろうとしたのである。ところが主人からまあゆっくりなさいと言ってとめられた。主人は
主人は小六のことに関連して、
「いや
「
この弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行にはいったが、なんでも金をもうけなくっちゃいけないと口癖のように言っていたそうで、日露戦争後まもなく、主人のとめるのも聞かずに、大いに発展してみたいとかとなえて、ついに満州へ渡ったのだという。そこでなにを始めるかと思うと、
「それからあと
主人は思いついたように、床の柱にかけた、きれいな房のついた一種の装飾物をとりおろした。
それは
「土産にこんなものを持ってきました。蒙古刀だそうです」と言いながら、すぐ抜いて見せた。後にさしてあった
「こりゃ箸ですよ。蒙古人は始終これを腰へぶら下げていて、いざごちそうという段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸でそばから食うんだそうです」
主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりするまねをして見せた。宗助はひたすらにその精巧な作りをながめた。
「まだ蒙古人のテントに使うフェルトももらいましたが、まあ昔の
主人は蒙古人のじょうずに馬を扱うことや、蒙古犬のやせて細長くて、西洋のグレー・ハウンドに似ていることや、彼らが
「
主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、
「どうです一ぺん会ってごらんになっちゃ、わざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっとおもしろいですよ。なんなら御紹介しましょう。ちょうど
「おいでになるのは御令弟だけですか」
「いやほかに一人
宗助はその
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