四
小六の苦にしていた佐伯からは、予期のとおり二、三日して返事があったが、それはきわめて簡単なもので、はがきでも用の足りるところを、丁重に封筒へ入れて三銭の切手をはった、
役所から帰って、
「へえ、
「いつ?」とお米は湯吞を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。
「いつとも書いてないがね。なにしろ遠からぬうちには帰京つかまつるべく
「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」
宗助はお米の批評に、同意も不同意も表しなかった。読んだ手紙を巻きおさめて、投げるようにそこへほうり出して、四、五日目になる、ざらざらした
お米はすぐその手紙を拾ったが、べつに読もうともしなかった。それを
「遠からぬうちには帰京つかまつるべく候あいだ、どうだっていうの」と聞いた。
「いずれ帰ったら、
「遠からぬうちじゃ
「いいや」
お米は念のため、膝の上の手紙をはじめて開いて見た。そうしてそれをもとのように畳んで、
「ちょっとその状袋を」と手を夫の方へ出した。宗助は自分と火鉢の間にはさまっている青い封筒を取って細君に渡した。お米はそれをふっと吹いて、中をふくらまして手紙を収めた。そうして台所へ立った。
宗助はそれぎり手紙のことには気をとめなかった。今日役所で同僚が、このあいだイギリスから来遊したキチナー元帥に、新橋のそばで会ったという話を思い出して、ああいう人間になると、世界じゅうどこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういうふうに生まれついてきたものかもしれない。自分の過去から引きずってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されるべき将来をとって、キチナーという人のそれに比べてみると、とうてい同じ人間とは思えないぐらいかけ隔たっている。
こう考えて宗助はしきりに
台所へ出てみると、細君は七輪の火を赤くして、
食事をすまして、夫婦が火鉢を間に向かい合った時、お米はまた、
「佐伯のほうは困るのね」と言いだした。
「まあしかたがない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「そのまえにちょっと叔母さんに会って話をしておいたほうがよかなくって」
「そうさ。まあそのうちなんとかいってくるだろう。それまでうちやっておこうよ」
「小六さんがおこってよ。よくって」とお米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下目を使って、手に持った小楊枝を着物の
うわべから見ると、夫婦ともそうものに屈託するけしきはなかった。それは彼らが小六のことに関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけにお米は一、二度、
「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなたこんだの日曜ぐらいに番町まで行ってごらんなさらなくって」と注意したことがあるが、宗助は、
「うん、行ってもいい」ぐらいな返事をするだけで、その行ってもいい日曜が来ると、まるで忘れたようにすましている。お米もそれを見て、責める様子もない。天気がいいと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と言う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜でしあわせね」と言う。
さいわいにして小六はその後一度もやって来ない。この青年は、いたって凝り性の神経質で、こうと思うとどこまでも進んでくるところが、書生時代の宗助によく似ている代わりに、ふと気が変わると、
宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生して、自分の目の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらすることもあった。また苦々しく思うおりもあった。そういう場合には、心のうちに、当時の自分がいちずにふるまった苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起こさせるために、とくに天が小六を自分の目の前にすえつけるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥るために生まれてきたのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
けれども、今日まで宗助は、小六に対して意見がましいことをいったこともなければ、将来について注意を与えたこともなかった。彼の弟に対する待遇方はただ普通凡庸のものであった。彼の今の生活が、彼のような過去をもっている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験をもった年長者のそぶりは容易に出なかった。
宗助と小六のあいだには、まだ二人ほど男の子がはさまっていたが、いずれも早世してしまったので、兄弟とはいいながら、年は
二年の時宗助は大学を去らなければならないことになった。東京の
佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式をすましたうえ、家の始末をつけようと思ってだんだん調べてみると、あると思った財産は案外に少なくって、かえってないつもりの借金がだいぶあったに驚かされた。叔父の佐伯に相談すると、しかたがないから
父のなくなったこの際にも、叔父の都合は元とあまり変わっていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこういう男の常として、いざという場合には比較的融通のつくものとみえて、叔父はこころよく整理を引き受けてくれた。その代わり宗助は自分の家屋敷の売却方について、いっさいのことを叔父に一任してしまった。早くいうと、急場の金策に対する報酬として、土地家屋を提供したようなものである。叔父は、
「なにしろ、こういうものは買手を見て売らないと損だからね」と言った。
道具類も
それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろという手紙が来たが、いくらに売れたともなんとも書いてないので、折り返して聞き合わせると、三週間ほどたっての返事に、優に例の立替えを償うに足る金額だから心配しなくてもいいとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節うんぬんとあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話してみると、お米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから、しかたがないわね」と言って、例のごとく微笑した。その時宗助ははじめて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どうくふうしたって、抜けることのできないような位地と事情のもとに束縛されていたので、ついそれなりになってしまった。
しかたがないから、なお三、四回書面で往復を重ねてみたが、結果はいつも同じことで、
「これじゃしようがないよ」と宗助は腹がたったような顔をしてお米を見た。三か月ばかりして、ようやく都合がついたので、久しぶりにお米を連れて、出京しようと思うやさきに、つい
病気が本復してからまもなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移るまえに、いい機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行せずに、やはり下り列車の走るかたに自己の運命を託した。そのころは東京の家を畳むとき、懐にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実のもとに、父から臨時随意に多額の学資を請求して、かってしだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに
「お米、久しくほうっておいたが、また東京へ掛け合ってみようかな」と言いだした。お米はむろんさからいはしなかった。ただ下を向いて、
「だめよ。だって、叔父さんにまったく信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向こうじゃこっちに信用がないかもしれないが、こっちじゃまた向こうに信用がないんだ」と宗助はいばって言いだしたが、お米の伏し目になっている様子を見ると、急に勇気がくじけるふうにみえた。こんな問答を最初は月に一、二へんぐらいくり返していたが、後には
「いいや、小六さえどうかしてくれれば。あとのことはいずれ東京へ出たら、会ったうえで話をつけらあ。ねえお米、そうすると、しようじゃないか」と言いだした。
「それで、よござんすとも」とお米は答えた。
宗助は佐伯のことをそれなりほうってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向かって言いだせるものでないと、宗助は考えていた。したがってそのほうの談判は、はじめからいまだかつて筆にしたことがなかった。小六からは時々手紙が来たが、きわめて短い形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で会った小六を覚えているだけだから、いまだに小六をたわいない子供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどという気はむろん起こらなかった。
夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さにたえかねて、抱き合って暖を取るようなぐあいに、お互い同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、お米がいつでも、宗助に、
「でもしかたがないわ」と言った。宗助はお米に、
「まあがまんするさ」と言った。
二人のあいだにはあきらめとか、忍耐とかいうものが絶えず動いていたが、未来とか希望というものの影はほとんどささないようにみえた。彼らはあまり多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避するふうさえあった。お米が時として、
「そのうちにはまたきっといいことがあってよ。そうそう悪いことばかり続くものじゃないから」と夫を慰さめるように言うことがあった。すると、宗助にはそれが、真心ある
「我々は、そんないいことを予期する権利のない人間じゃないか」と思いきって投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつのまにか、自分たちは自分たちのこしらえた、過去という暗い大きな穴の中に落ちている。
彼らは自業自得で、彼らの未来を
「だって、近ごろの相場なら、捨て売りにしたって、あの時叔父のこしらえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまりばかばかしいからね」と宗助が言いだすと、お米は淋しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあのことばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事よろしく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と言う。
「そりゃしかたがないさ。あの場合ああでもしなければ
「だからさ。叔父さんのほうでは、お金の代わりに家と地面をもらったつもりでいらっしゃるかもしれなくってよ」とお米が言う。
そういわれると、宗助も叔父の処置に一理あるように思われて、口では、
「そのつもりがよくないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はそのつどしだいしだいに背景の奥に遠ざかってゆくのであった。
夫婦がこんなふうに淋しくむつまじく暮らしてきた二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代にはたいへん懇意であった
ところが杉原のほうでは、妙な引っ掛かりから、宗助のここにくすぶっていることを聞き出して、しいて面会を希望するので、宗助もやむをえず我を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、まったくこの杉原のおかげである。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまった時、宗助は
「お米、とうとう東京へ行けるよ」と言った。
「まあ結構ね」とお米が夫の顔を見た。
東京に着いてから二、三週間は、目の回るように日がたった。新しく世帯をもって、新しい仕事を始める人に、ありがちなせわしなさと、自分たちを包む大都の空気の、日夜はげしく
夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも
宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗さん、しばらくお目にかからないうちに、たいへんお
「これがあの……」と叔母はためらって宗助の方を見た。お米はなんと挨拶のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
小六もむろん叔父夫婦とともに二人を迎いにきていた。宗助は一目その姿を見たとき、いつのまにか自分をしのぐように大きくなった、弟の発育に驚かされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へはいろうというまぎわであった。宗助を見て、「
宗助とお米は一週ばかり宿屋ずまいをして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話をやいてくれた。こまごましい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければというので、
「お前も新世帯だから、さぞものいりが多かろう」と言って金を六十円くれた。
家を持ってかれこれとりまぎれているうちに、はや半月余もたったが、地方にいる時分あんなに気にしていた
「あなたあのことを叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ言わないよ」と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」とお米がうす笑いをした。
「だって、落ち付いて、そんなことを言い出す暇がないんだもの」と宗助が弁解した。
また十日ほどたった。するとこんだは宗助のほうから、
「お米、あのことはまだ言わないよ。どうも言うのがめんどうでいやになった」と言いだした。
「いやなのをむりにおっしゃらなくってもいいわ」とお米が答えた。
「いいかい」と宗助が聞き返した。
「いいかいって、もともとあなたのことじゃなくって。
その時宗助は、
「じゃ、しかつめらしく言いだすのもなんだか妙だから、そのうち
小六はなに不足なく叔父の家に寝起きしていた。試験を受けて高等学校へはいれれば、寄宿へ入舎しなければならないというので、その相談まですでに叔父と打合わせがしてあるようであった。新しく出京した兄からは、べつだん学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに新しい相談も持ち込んでこなかった。
宗助はしぜん叔父の
「まあいいじゃありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持ちがした。それでも、たまには行かないと、心のうちで気がとがめるような不安を感ずるので、また行くようになった。おりおりは、
「どうも小六がごやっかいになりまして」とこっちから頭を下げて礼を言うこともあった。けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払ってもらった地所家作についても、口をきるのがついめんどうになった。しかし宗助が興味をもたない叔父のところへ、不承無承にせよ、時たま出かけてゆくのは、単に
「宗さんはどうもすっかり変わっちまいましたね」と叔母が叔父に話すことがあった。すると叔父は、
「そうよなあ。やっぱり、ああいうことがあると、ながくまであとへ響くものだからな」と答えて、因果は恐ろしいというふうをする。叔母は重ねて、
「ほんとうに、こわいもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが──どうもはしゃぎすぎるくらい活発でしたからね。それが二、三年見ないうちに、まるで別の人見たように
「まさか」と叔父がまた答える。
「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」と叔母がまた弁解する。
こんな会話が老夫婦のあいだにとりかわされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。実際彼は叔父のところへ来ると、老人の目に映るとおりの人間に見えた。
お米はどういうものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の
「どうです、ちとお出かけなすっちゃ」などと言われると、ただ、
「ありがとう」と頭を下げるだけで、ついぞ出かけたためしはなかった。さすがの宗助さえ一度は、
「叔父さんのところへ一度行ってみちゃ、どうだい」と勧めたことがあるが、
「でも」と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてそのことを言いださなかった。
両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎とかいう劇症で、二、三日風邪の気味で寝ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、
「お米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」と宗助が言った。
「あなたまだ、あのことを聞くつもりだったの。あなたもずいぶん執念深いのね」とお米が言った。
それからまた一年ばかりたったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。
三年目の夏休みに小六は
「兄さん、少しお話があって来たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚いた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎかえずに、小六の話を聞いた。
小六のいうところによると、二、三日まえ彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮れかぎり、気の毒ながら出してやれないと、叔母から申し渡されたのだそうである。小六は父が死んで、すぐに叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物もひとりでにできるし、こづかいも適宜にもらえるので、父の存生中と同じように、なに不足なく暮らせてきた惰性から、その日の晩までも、ついぞ学資という問題を、頭に思い浮かべたことがなかったため、叔母の宣告を受けた時は、ぼんやりしてとかくの挨拶さえできなかったのだという。
叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間もかかってくわしく説明してくれたそうである。それには叔父のなくなったことやら、継いで起こる経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらがはいっていたのだという。
「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日までいろいろ骨を折ったんだけれども」
叔母はこう言ったと小六はくり返した。小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事をかたづけたあと、広島へ帰るとき、小六に、お前の学資は叔父さんに預けてあるからと言ったことがあるのを思い出して、叔母にはじめて聞いてみると、叔母は案外な顔をして、
「そりゃ、あの時、宗さんがいくらか置いていきなすったことは、いきなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きておいでの時分から、お前の学資は融通してきたんだから」と答えた。
小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定で、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう言われてみると、
「お前も一人じゃなし、兄さんもあることだから、よく相談をしてみたらいいだろう。その代わり
小六から一部始終を聞いた時、宗助はただ弟の顔をながめて、一口、
「困ったな」と言った。昔のようにかっと激して、すぐ叔母のところへ談判に押しかけるけしきもなければ、今まで自分に対して、世話にならないでもすむ人のように、よそよそしくしむけてきた弟の態度が、急に方向を転じたのを、にくいと思う様子も見えなかった。
自分のかってに作り上げた美しい未来が、半分くずれかかったのを、さもはたの人のせいででもあるかのごとく、心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外にさす夕日をしばらくながめていた。
その晩宗助は裏から大きな
「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろっていう気なんじゃなくって」とお米が聞いた。
「まあ、会って聞いてみないうちは、どういう了見かわからないがね」と宗助が言うと、お米は、
「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで
「だってそれじゃ無理ね」とお米がまた言った。
「人間一人大学を卒業させるなんて、おれのてぎわじゃとてもだめだ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
会話はそこで別の題目に移って、再び小六のうえにも叔母のうえにも帰ってこなかった。それから二、三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母のところへ寄ってみた。叔母は、
「おやおや、まあお珍しいこと」と言って、いつもよりは
叔母の言うところによると、宗助の
「宗さんおこっちゃいけませんよ。ただ叔父さんの言ったとおりを話すんだから」と叔母が断わった。宗助は黙ってあとを聞いていた。
小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田のにぎやかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六にははじめから話してないことだから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そういう訳でね、まことに宗さんにも、お気の毒だけれども、なにしろ取って返しのつかないことだからしかたがない。運だと思ってあきらめてください。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃわけはありますまいよ、よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえよければ、焼けた
安之助は叔父の
「でね、少しあった株をみんなそのほうへ回すことにしたもんだから、今じゃほんとうに一文なし同然な仕儀でいるんですよ。それは世間から見ると、
宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭がなくなった証拠だろうと自覚した。叔母は自分の言うとおりが、宗助にほんとうと受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分のあいだ、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければ、ならないのだそうである。
「その配当だって、またどうなるかわかりゃしないんでさあね。うまくいったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、またひとつ間違えばまるで
宗助は叔母のしうちに、これというめだったあこぎなところも見えないので、心の中では少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合いもせずに帰るのは、いかにもばかばかしい気がした。そこで今までの問題はそこにすえっきりにしておいて、自分が当時小六の学資として叔父に預けていった千円の所置を聞きただしてみると、叔母は、
「宗さん、あれこそほんとうに小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へはいってからでも、もうかれこれ七百円はかかっているんですもの」と答えた。
宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や
「ありゃとんだばかな目にあって」と言いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、なんですか、あのことはまだお話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると、
「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と言いながら、その顚末を語って聞かした。
宗助が広島へ帰るとまもなく、叔父はその売りさばき方を
「でもね、まだ
叔母は宗助の預けていった品物には、まるで重きを置いていないような、ものの言い方をした。宗助も今日までほうっておくくらいだから、あまりその方面には興味をもちえなかったので、少しも良心に悩まされているけしきのない叔母の様子を見ても、べつに腹はたたなかった。それでも、叔母が、
「宗さん、どうせ
父は正月になると、きっとこの屛風を薄暗い蔵の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ
宗助は屛風の前にかしこまって、自分が東京にいた昔のことを考えながら、
「叔母さん、じゃこの屛風はちょうだいしてゆきましょう」と言った。
「ああああ、お持ちなさいとも。なんなら使いに持たせてあげましょう」と叔母は好意から申し添えた。
宗助はしかるべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。
「安さんには、お会いなさらなかったの」とお米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でもなんでも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「ずいぶん骨が折れるでしょうね」
お米はそう言ったなり、叔父や叔母の処置については、
「小六のことはどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と言うだけであった。
「理屈をいえば、こっちにも言い分はあるが、言いだせば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠もなにもなければ勝てるわけのものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」とお米がすぐ言ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからのことさ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんなことはどうでもよかったんですもの」
夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇の下からのぞいてみて、
次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の言ったとおりを残らず話して聞かせて、
「叔母さんがお前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急なお前の性質を知ってるせいか、それともまだ子供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにもわからないが、なにしろ事実は今言ったとおりなんだよ」と教えた。
小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
「そうですか」と言ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「しかたがないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い了見はないんだから」
「そりゃ、わかっています」と弟はけわしいものの言い方をした。
「じゃおれが悪いっていうんだろう。おれはむろん悪いよ。昔から今日まで悪いところだらけの男だもの」
宗助は横になって煙草を吹かしながら、これより以上はなんとも語らなかった。小六も黙って、座敷の
「お前あの屛風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
「
「この暑いのに、こんなものを立てておくのは、気違いじみているが、入れておく所がないから、しかたがない」という述懐をした。
小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とはあまりにかけ隔たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩はしえなかった。この時も急に癇癪の角を折られた気味で、
「屛風はどうでもいいが、これからさき僕はどうしたもんでしょう」と聞きだした。
「それは問題だ。なにしろ今年いっぱいにきまればいいことだから、まあよく考えるさ。おれも考えておこう」と宗助が言った。
弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿はきらいである。学校へ出ても落ち付いて
「そのくらいなことでそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこうさしつかえない。お前のほうがおれよりよっぽどえらいよ」と兄が言ったので、話はそれぎり
宗助はそれから湯を浴びて、
蚊帳の中へはいった時、お米は、
「小六さんのことはどうなって」と夫に聞くと、
「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりの後夫婦ともすやすや寝入った。
翌日目がさめて役所の生活が始まると、宗助はもう小六のことを考える暇をもたなかった。
それでも日に一度ぐらいは、小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いてくることがあって、その時だけは、あいつの将来もなんとか考えておかなくっちゃならないという気も起こった。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸の
そのうち九月も末になって、毎晩
このあいだ
安之助は、そんなことはない。宗さんも君のことではだいぶ心配して、近いうちまた
安之助は忙しいとかで、一時間足らず話して帰っていったが、小六の処置については、両人のあいだに具体的の案は別に出なかった。いずれゆっくりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するがよかろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、お米は宗助に、
「なにを考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を
「おれももう一ぺん小六みたようになってみたい」と言った。「こっちじゃ、向こうがおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに、向こうじゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
お米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床を延べて寝た。夢の上に高い
次の週間には、小六も来ず、佐伯からの
それでも夫婦はこのあいだに小六のことを相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気ならむろんのこと、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助のところへ置くよりほかにみちはない。佐伯ではいったんああ言いだしたようなものの、頼んでみたら、当分
「とうていだめだね」
「どうしたって無理ですわ」と言った。
夫婦のすわっている茶の間の次が台所で、台所の右に
「それよりか、あの六畳をあけて、あすこへ来ちゃいけなくって」とお米が言いだした。お米の考えでは、こうして自分のほうで部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直してあげたら、どうかなるでしょう」とお米が言い添えた。実は宗助にもこんな考えが、多少頭に浮かんでいた。ただお米に遠慮があるうえに、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう
小六にそのとおりを通知して、お前さえそれでさしつかえなければ、おれがもう一ぺん佐伯へ行って掛け合ってみるがと、手紙で問い合わせると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降るなかを、
「なに、叔母さんのほうじゃ、こっちでいつまでもあなたのことをほうり出したまんま、かまわずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合がよければ、とうにもどうにかしたんですけれども、御存じのとおりだから実際やむをえなかったんですわ。しかしこっちからこう言ってゆけば、叔母さんだって、安さんだって、それでもいやだとは言われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。
お米にこう受け合ってもらった小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰っていった。しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんのところへ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧めてくれと催促していった。
宗助が行く行くと言って、日を暮らしているうちに、世の中はようやく秋になった。その朗らかなある日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのがおくれるので、この要件を手紙にしたためて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だという返事が来たのである。
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