第三話

 自炊はまだまだ最低限で、これからの成長に期待状態だ。

 包丁の使い方はそこまでひどくないと思うが、火加減の具合は迷う。レパートリーは少なくて、一週間もすれば一巡してしまうし、大体よく分からない炒め物や、あまりもの味噌汁ができるのが固定化されていた。

 味噌は買うか迷ったが、何品も料理を作る腕がない。魚を焼いて白飯と味噌汁があれば、なんとなくいい一食を食べられたような気持ちになるのでちょうどよかった。

 今日もまたキャベツと玉ねぎを突っ込んだ豚汁のなり損ないの味噌汁に、野菜炒めがメニューだ。ご飯は一度にたくさん炊いて、冷凍ストックにしている。

 僕はずぼらだ。汚部屋になるほど杜撰ではないが、毎日ご飯を炊いていけるとは思えなかったので、抜ける手は抜くようにしている。

 それに、バイトで掃除をして体力を消耗しきった後に、翌日のご飯のことまで考えるほど、僕の腕はついてこない。だから、暇なときに色々とストックを作っておくのが定番だ。

 と言っても、僕はほぼ毎日バイトを入れている。当然休みはあるが、水族館側の都合で出されたシフトで問題なく頷いていた。僕の主張は講義との兼ね合いのみだ。土日祝日に関しては気にしていない。水族館のかき入れ時であるから、出勤できるのならば出勤する。その分、疲労も大きいけれど、充足感というものだ。

 何より、水族館が賑わっている状態を見るのが好きだった。昔と立ち位置は変わってしまったけれど、僕の水族館通いは変わっていない。そんなふうに通い倒して、自宅へ戻ってくる。毎日同じことの繰り返しだ。大学生にしては刺激がない……のかもしれない。これはあくまで僕の想像でしかないけれど。

 それこそ、榎田さんのようにサークルへの参加を考えたり、いそいそと動くもののような気がしている。それに比べれば、大学とバイト先と自宅を行き来し続けている僕の日常は、至極平凡であるのだろう。

 だが、僕はそれに満足していた。僕にとっては、水族館は高揚する施設であるし、サークルに入って騒ぐのと変わりはないほどの価値がある。個人が尊重しているものが違うのだから、単純比較できるものではないだろうけれど。

 少なくとも、僕の価値基準では、水族館の面白さは他に及ばなかった。たとえ、仕事に向かっているとしても、その好意や面白味が減少するわけではない。僕にとっては、これ以上ない好環境だ。そんなものだから、毎日が充実している。

 それがゆえに、自炊のレベルの低さにはテンションが下がった。いや、どうしようもない。これは自分でどうにかするしかないものだし、一朝一夕に上達するものではないと分かってもいる。だが、どうにも自分のセンスが怪しいことに気付き始めていた。

 もう少しいい食環境があれば言うことないのになぁ、と思いながら野菜炒めを摘まむ。焦げているわけではない。けれど、しなしなで水気が多く、べちゃっとしている。美味しくないわけじゃないけれど、塩こしょうの味付けでなんとか形になっているだけのような気もする。不味くもないし、及第点だ。

 ただ、そろそろこんなものじゃないのが食べたくもなるころだった。蓮月さんとご飯に行く約束をしたのは、ちょうどよかったかもしれない。どんなところに連れて行ってくれるのだろう。

 蓮月さんは四月生まれで、もう成人している。お酒も好きだと言っていたはずだ。居酒屋という選択肢も出てくるのだろうか。少しわくわくしてしまうのは、自分が行き慣れない場所だからだ。

 僕だって、そうした冒険心がないわけじゃない。蓮月さんとの約束が、今更になって胸を暖めた。一人暮らしに訪れる人の温もりは、存外心にくるらしい。蓮月さんがいてくれるのは、素直にありがたかった。

 まだ、友人という感じはしないけれど。けれど、親しい人であることは間違いない。ふっと心で矯めつ眇めつするほどには。

 そうして味気ない料理を飲み下していると、不意に音楽が鳴り響く。その発信源に目を向けると、液晶画面が光っていた。画面には夏海の文字が灯っている。

 一緒に表示された時計を見ると、二十時だった。妹からの電話は、いつも同じような時間にかかってくる。正確に時間を決めているわけではないのだろうけれど、大体二十時から二十一時の間だ。受験生の妹は、規則正しい生活をしているらしい。

 食事を止めることなく、スピーカーで電話に出る。


『お兄ちゃん?』


 毎度律儀に確認されるのには、毎度苦笑が零れる。郷愁を抱くこともないのは、この声を毎日聞いているからだ。


「ああ。今日はどうした?」

『冷たいよ、お兄ちゃん。家族なんだから毎日お話しするでしょ』


 中三にしては、お兄ちゃん子だと思う。反抗期がきそうなものだと身構えていたのが、嘘のように何もない。


「だからって、毎日かけてこなくたっていいだろう? 電話大変じゃないか? 勉強は平気なのか?」

『むぅ……』


 感情を擬音にする癖がある。これに気がついたのは、一人暮らしを始めてからだ。幼く思えるが、電話越しであると表情が分かりやすくて助かっていた。


『息抜きで電話してるんだから、お兄ちゃんまでそんなこと言わないでよ』

「兄ちゃんは夏海を心配してるんだろ?」

『もっと別の心配の仕方をしてよ!』

「無茶ぶりしないでくれよ」


 言いながら夕食を終えて、食器を片していく。スピーカーのままスマホを移動させておいて、洗い物もそのまま進めた。


『お兄ちゃん?』


 恐らく、がちゃがちゃと物音が筒抜けているのだろう。それに配慮するほど、僕は遠慮がちな兄ではない。家族との電話には、それくらいの緩さがあった。


『忙しかった?』

「そんなことないよ。夕飯の片付けだ」

『な~んだ。お風呂じゃないんだ』

「なんだよ。その残念そうな声は」

『そんなことないよぉ?』


 この妹は、少々おかしいところがある。よく分からないことで残念さを訴えかけてきたりするのだ。僕にはこの間合いがまるで読めず、心底困っている。

 否定はしているが、意図があるとしか思えなかった。かといって、それに突っ込んだところで、僕には対処ができそうにない。気にならないわけではないけれど、僕はそれを聞き流した。

 夏海は、ぶーぶー不貞腐れたような声を出しているが、片付けのせいで聞こえないふりをする。夏海だって、本気で責め立てるつもりはないのだろう。じゃれついているようなものだ。甘噛みされているのを受け流し、僕はさくさくと後片付けを終えて、ベッドの上に座り込む。

 簡素な部屋だ。家具は多くないし、値段もかけていない。だが、ベッドだけはきちんと選んだ。何かとソファ替わりに使っている。


『お兄ちゃん、聞いてるの?』

「ああ、ごめん。それで? なんだっけ? 勉強が進んでないって?」

『そんなこと一言も言ってないよ。他に心配なことはないの?』

「何を心配すればいいんだよ」

『一緒にいられないんだから、心配することいっぱいあるでしょ? お兄ちゃんは寂しくないの?』

「毎日話してて寂しいも何もないだろ」


 一人暮らしの心配は、この寂しがり屋の妹のおかげでなくなっていた。

 蓮月さんも僕を構ってくるし、榎田さんから連絡が来ることもある。そう思うと、僕の周りは意外に騒がしい。

 何より、幼少期からよくよく知っているアンと触れ合える。僕にとってそれはとても癒やしであったし、寂しさを拭ってくれる時間でもあった。

 バイトの終わりに、ちょっとだけアンに挨拶をしているのは、多分みんなにも知れ渡っている。そうしてリフレッシュしているものだから、寂しさはなかった。

 そのうえ、こうして夏海に様子を窺われている。この妹の電話は、寂しさからは最も遠いところにあった。


『お兄ちゃんにご褒美もらえないのは寂しいよ』


 このブラコンの妹は、どうにもスキンシップをご褒美と捉えている。

 兄妹間のスキンシップのご褒美。こうまとめると、どうもいかがわしい。考える人が考える人なら……それこそ、蓮月さんあたりなら、僕をからかう意味も含めて、意味深な捉え方をしそうなものだ。僕自身、検めると奇妙な会話であるような気がして苦い。


「ちゃんと褒めてあげてるだろう?」


 勉強について、電話越しではあるが、夏海の機嫌を取るのは僕の仕事だ。両親や友人、家庭教師の先生に褒められるよりも、僕に褒められるのが一番嬉しいらしい。

 だから、こうして一方的にかけられてくる電話の中でも褒めてあげている。夏海はそれでもまだ不満があるらしい。手間のかかる子だ。


『ちっとも足りないもん。お兄ちゃんはあたしの顔が見えないからって手を抜き過ぎだよ』

「そんなことないよ」


 苦笑して答えるが、その節がないとは言い切れなかった。

 実際に目の前にいれば、夏海は一切の手抜きを許さない。僅かでも面倒な顔を見せると、すぐに不貞腐れてしまう。そんなものだから、こうして電話越しになると、対顔するよりはずっと手を抜いていた。こういうところの勘の良さは、我が妹ながら折り紙つきだ。


『あるもん。お兄ちゃんはもっと妹を大事にしなくちゃいけないんだからね』

「十分、大事にしてるだろ?」

『まだまだだよ』

「これ以上なんてどうしようもないだろ」

『むぅ。なんで一人暮らしなんて始めちゃったの? 出て行くことなかったでしょ?』

「今更言うなよ。それに、夏海だって僕を応援してくれたじゃないか」

『それはそうだけど! でも、やっぱり寂しいんだもん。お兄ちゃんがいないと、あたしを構ってくれる人がいないよ?』

「甘えたいからって我が儘を言わないでくれ」

『お兄ちゃん成分が足りないんだもん。なのに、お兄ちゃんはアンちゃんと仲良くしてるんでしょ?』


 ここでアンの名前が出てくるのは、こちらの生活について教えろとねだられて、アンのことを話してしまったからだ。

 僕ほどではないにしろ、夏海も水族館に一緒に遊びに行っていった。だから、アンがどんなイルカなのかは知っている。知っているが、僕ほど詳しくもないし、一般客と大差はなかった。

 だから、僕がアンの話をしたことが、裏話のようで面白く感じたらしい。何度も裏側をねだられるので、そのたびにアンの話をすることになった。正確には、他の情報を引き出したかったらしい。けれど、僕の他は掃除をしているだけでしかない。夏海の喜びどころが分からなくて、アンの話ばかりになってしまった。

 僕が館員らしく触れ合う存在なんて、アンしかいない。

 夏海は昔から、僕の女友達にはよい感情を抱いていないようだった。極度のブラコンは、女友達に僕が取られるような気がして、好ましく思えないらしい。直接聞いたわけではないけれど、これくらいは分かる。

 自意識過剰である気がして落ち着かないのだけれど、この妹は僕を素晴らしき兄としているところがあった。際立ってキザでかっこいい行動を取った覚えはない。しかし、甘えん坊の夏海を構ってきた。だから、懐いてしまって手を焼いている。困ったことだ。

 アンにすら妹の感情を振りかざすのだから、それは筋金入りだ。僕には苦笑いでいなす以外の方法が思い浮かばなかった。


「夏海とだって、こうして毎日仲良くしてる」

『でも、アンちゃんとはスキンシップも取るんでしょ。アンちゃんばっかりズルいよ。あたしは我慢しているのに』


 頬を膨らませて拗ねている姿が想像できる。我慢できているかどうかは怪しい。

 こうして電話をかけてくるし、言葉でのご褒美を求めるのはいつものことだ。それほど自己主張を通しておいて、我慢も何もない。直接顔を合わせられないことが既にそうだと言われてしまってはどうしようもないが、それにしたって我慢とはよく言ったものだと思わずにはいられなかった。


「アンとはそんなに触れ合ってないよ。それはアンのストレスになるし、僕だって毎日プールサイドまで行けるわけじゃないからな」


 それでも、水槽からアンを見上げることはある。イルカのプールは、展示用水槽になっていた。僕は掃除以外でプールサイドには近付けないが、水槽を見上げることは多い。

 アンはガラスに鼻先を押し当てて近付いてきてくれる。僕がプールサイドでアンに気付くのと同じように、アンも僕に気がついてくれるらしい。それはなんだかとっても嬉しくて、そうして見上げるのが癖になってしまっていた。

 夏海の愚痴は続くと思っていたが、遠くから母さんの『夏海、お風呂入っちゃって~』の声が飛び込んでくる。

 助かった、と思ったのは正直なところだった。しかし、夏海は追撃の手を緩めない。


『アンちゃんばっかり贔屓してちゃダメなんだからね! じゃあ、またね』

「ああ。おやすみ」


 切り上げ方も、最後っ屁のような言いざまにも、苦笑しかなかった。

 挨拶を返すと、夏海はぷつんと通話を切る。兄ちゃんに構われることを第一にしているくせに、名残惜しさなどはないらしい。そんな引き止め方をされたって困るからそれで構わないけれど、苦々しさはあった。

 何とも微妙な気持ちにしてくれる妹だ。そのうえ、アンを贔屓していると言われたことには、ますます苦み走った。蓮月さんにも言われたことだ。

 僕はそんなにアンを構っているだろうか。まったくそんなつもりはなかった。毎日、バイトに行くのだから、そこで会っているだけに過ぎない。それは蓮月さんだって同じことだ。アンだけを特殊に取られている意味が分からない。

 僕とアンの繋がりは、飼育員やトレーナーと動物との関わりと一緒だ。一体、僕を何だと思っているのだろう。まるで人よりも動物とのほうが、距離が近いものだとでも思っているかのようだ。

 ……否定できない、と辿り着いたところで、僕は余計な考えを巡らすことをやめた。母さんが夏海を呼んでいた声を思い出す。僕もさっさと風呂に入って、ノートを書き写して休んでしまうことにした。

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