第二話
「それじゃあ、これからどうするつもり?」
連れてきてしまったものだから、このまま放置ってわけにはいかない。
義理がないだとか、何を考えているのかだとか。問い詰めれば、いくらでも問い詰められるのかもしれない。けれど、そんな問いかけが彼女に通じるのかは果てしなく怪しかった。根気よく時間をかけたくもない。そうなると、率直に尋ねるのが最も手っ取り早かった。
しかし、それでも彼女の反応は鈍い。沈黙を耐え忍ぶことになってしまった。
「……あなたに、ついていく」
「それで、どうするんだ?」
「あなたが来るかと言った」
繰り返される主張には、頬が引きつる。
まったく進展がない。つまり、彼女は僕についてくると言うのだ。僕が彼女を誘い出して、部屋に連れ込もうとしているとばかりに。そんなつもりはなかった。ナンパなんてつもりは、毛ほどもない。結果としてそんなニュアンスを含む状況に陥ってはいるけれど、そんなつもりはなかった。
思わず、ため息が零れ落ちる。
「……電車に乗れる?」
中学生には見えるのだから、こんな質問は失礼かもしれない。だが、彼女の言動を見るに、何ができるのかが予想できなかった。
予期せぬことができそうでもあるが、自然なことができなさそうでもある。そして、その問いは必要なものだったのだと思い知らされた。
彼女は首を傾げてから、横に振ったのだ。まったく心当たりがない。電車なんて知りもしないとばかりの動作だ。
そんなわけないだろう。そう思いつつも、よっぽど田舎に住んでいて、電車に一人で乗ったことないという子がいないとも限らない。可能性で言えばゼロではないだろう。
彼女が中学生か高校生の間に見えるのも、僕の感覚でしかない。同じ中学生でも一年と三年じゃ違うだろうし、そういうこともあるだろうと飲み込んだ。
それに、彼女が首を左右に振ることは、予想できていた。そうであるかもしれない、と。そうでなければ、聞きもしなかっただろう。僕はきっと、彼女じゃなければそんな確かめ方をすることもしなかった。
「僕は電車で移動する。君はどうするの?」
お金があるのか。そうした問いであったことは、どうやら通じたらしい。電車の乗り方は分からないかもしれないが、お金が必要ということは分かるようだ。
まさか、こんな判断基準で思考を巡らすことになるとは思わなかった。低レベルというのは、失礼だろう。だが、いかんせん見た目に対する心配の質にギャップがあり過ぎた。彼女はしょぼんと肩を落として、深く息を吐き出す。
「……戻る」
それだけで、お金の有無が判明したも同然だ。
僕は目を細めて、彼女を見下ろした。彼女はすっかり俯いていたが、どうしようもないとばかりにすぐに雨の中へ飛び出していこうとする。その無謀さに泡を食って、彼女の腕を取った。
「待って」
「なぜ?」
「この雨の中、そのまま帰れないだろう? それに、戻ってどうするつもりなんだ?」
やはり、一気に質問をすると答えられないらしい。それとも、何も決まっていない。どうしようもないというのは既に伝えたという意思表示なのか。
彼女は腕を掴まれたまま、じっとりと僕を見上げてくる。睨めっこは数十秒続き、彼女が口を開く気配はない。
僕は肺の中の空気を入れ替えて、腹を決めた。こうなったら、仕方がない。ここまで連れてきてしまったこともある。
「電車代は出すから、ひとまず僕の家に来る?」
「……うん」
彼女は厳かに頷いた。
男が女性を部屋に誘う機微を理解しているのだろうか。未熟であるような態度ばかりを見せることを考えると、そんなものを理解しているとは到底思えない。
とにかく頷いたという事実だけを受け取って、僕は彼女を連れて電車へ向かった。不安しかないので、切符は買ってから渡す。後ろをついてくる彼女に乗り方をレクチャーして、電車に乗り込んだ。
時間は半端だ。ラッシュの時間は抜けているのが常だが、今日はいつもよりも人が多いようだった。僕らの電車が遅れている様子はないが、どこか別のところの余波がきているのかもしれない。ただでさえ慣れない満員に、彼女を連れて乗り込むのは苦労する。
彼女の腕を掴んで導くように、たったの三駅をやり過ごした。特に問題もなく進んだことは僥倖だろう。彼女が大ごとを起こすというよりも、彼女が惹きつけるものがいなかったことには安堵したほどだ。
それから、また相合い傘をして、僕の家へと向かった。部屋には余計なものは何もない。近所のコンビニに寄り道してお菓子と飲み物を補充した。
濡れ方はタオルでどうにかできる程度だ。びしょ濡れにならなかったことは、不幸中の幸いだった。
そうでなければ、彼女に下着の相談などをしなくてはならなかっただろう。購入経験がないわけでもないが、彼女とは出会ったばかりだ。さすがに初見で下着の話ができるほど、僕は図太くはない。
予期せぬ出費に少しばかりへこみながら、帰宅する。彼女は興味深そうに周囲を見渡しながら、僕の後ろをついて部屋へと入ってきた。
質素な自室にいる可憐な少女という図には、気が落ち着かない。放置もできずに、部屋に引っ張り込むことになってしまったが、この先のことは考えられていなかった。行き当たりばったりだ。
「どうぞ、座って」
他に座る場所もない。僕はひとつの座布団を彼女に勧めて、ビニール袋をテーブルの上に載せる。それから、脱衣所へ行ってバスタオルを持ってきた。
「よかったら、今度はもっとちゃんと拭いて」
「ありがとう」
ぺこりと頭を下げてから、僕からタオルを受け取る。彼女の髪はかなり長く、床に銀灰色の毛先が散らばっていた。彼女はそれを丁寧に拭っていく。やはり不器用であるようだ。もどかしい手つきを横目に、こちらもタオルで髪を拭ってテーブルについた。
対面しても、彼女はまだタオルと戯れている。拭いた後でも、手触りを確かめているようだ。それほどいい洗剤を使っているわけでもないものを確かめられるのは、なんだか落ち着かない。
しかし、彼女は僕の不安など鼻で飛ばすかのように、ふかふかとタオルを触っていた。それで何かが落ち着くのであれば構わないが、こちらはちっとも落ち着かない。今更のように緊張感なんてものが湧き上がってくる。
僕はそれを誤魔化すように、買い出しのビニール袋からペットボトル飲料とスナック菓子を取り出した。
「好きにどうぞ」
そのために買ったのだから、勧める以外の道はない。
テーブルの上に並べ終わった僕を、彼女はじっと見つめる。手に取ろうという予兆が微塵もなかった。遠慮だろうか。何にしても、押し付けるわけにもいかないので、僕は彼女と黙って見つめ合う羽目になった。
女性と会話する機会は多い。接客をしているし、人の目を見ることにも躊躇はなかった。しかし、そんな僕をもってしても、彼女の視線のブレなさには参る。
左目の下に泣きぼくろがあるつぶらな黒目、それがじっとこちらに注がれてくるのだ。どうしたって、心の内がざわめいてしまう。
しかし、そうしてそわそわしていたってしょうがない。僕がどうにかしなければ、彼女からのリアクションはないだろう。それだけは確実だった。どうしたものか、と視線を巡らせながら、根本的なことに気がつく。
僕は彼女に呼びかけるための手段も持たない。
「あの、名前を聞いてもいいか?」
「……アン」
「アン?」
復唱するだけになってしまった僕に、彼女は真っ直ぐに頷いた。
まるでイルカのようだ、と思っていた彼女の名前がアン。それに運命のようなものを感じてしまうのも、やむを得ないだろう。
驚愕に濡れている僕など知らぬ存ぜぬで、彼女はタオルをさわさわと触り続けながら僕を見ていた。目を見開く僕に首を傾げる動作こそあれど、僕が何に驚いているなどを察することはなさそうだ。それを察せられればエスパーだし、僕も気まずいので構わないが。
「アンは、どうしてあそこにいたの?」
「居場所だから」
「居場所って……」
水族館だ。個人の居場所になることは限りなくない。バイトや従業員でないことは、見た目から分かりきっている。こんな子がいれば噂になるし、僕だって気がつかないわけがない。ましてや、イルカのようだと思える存在感なのだ。見落とすわけもないとわけもない驕りがあった。
「水族館が好きなの?」
居場所の意味を突き止めようとしたところで、彼女が明確な答えを寄越してくれるとは思えない。ならば、質問をしたって仕方がないだろう。しかし、黙ったままでいるのも据わりが悪い。簡易かつ事情に深入りしない程度の問いかけで、場を濁した。
「好き……?」
一瞬、同意したように聞こえた声は、微妙な語尾を残す。それはまるで、好きだという感情が分からないとでも言うかのような疑念に聞こえたのは、僕の気のせいだろう。もしくは、彼女に対する侮りかもしれない。
ここまであまりにも物を知らないものだから、そんな考えも浮かぼうというものだ。しかし、彼女のそれは吟味の時間であったらしい。
「うん、好き」
すぐに思考が辿り着いたかのように、はっきりとした肯定がやってきた。好悪が分かることと会話が成立したことに、ほっとする。これもまた、侮っている証拠だろう。僕は少し反省をして、もう少し深く突っ込んでみようと、気持ちを立て直した。
「他に好きなものはある?」
「水は好き」
「飲み物?」
「……泳ぎ」
「それじゃあ、海じゃないの?」
「海は知らない」
その言い回しは、思えば変ではあった。行ったことがない、というのが普通の受け答えのはずだ。
だが、それはあくまでも自分の常識でしかない。僕の感じ方だろうと、深く気に留めずに流した。というよりも、ここまでスムーズに会話が成立したことが初めてで、そちらに意識が取られていたのだ。
「行きたいとは思わないの?」
「プールがいい」
アンみたいなことを言うな、と思わなかったわけではなかった。
けれど、それが僕だけが抱く不思議な感想だということは分かっているから口には出さない。蓮月さんにも不思議な顔をされるだろう。
彼女だって、きっと妙な心地にさせられるはずだ。それどころか、自分がイルカに重ねられているなんて、不気味とさえ思われるかもしれない。
彼女は、それだけ答えると会話を畳んでしまう。会話しようという気がないのか。深く考えていないのか。鈍いのだろうということ以外は分からない。とにかく、彼女のほうから話題が提供されることがないことだけは確実だった。
彼女は沈黙でもまったく気にならないのだろう。部屋の中を見ながらタオルを弄って、おとなしくしていた。その堂々とした振る舞いは、僕に居心地の悪さを誘発させる。
何をしたらいいのかも分からないお見合い状態を拭い去れないものか。僕はどうにか会話の糸口を探すが、直ちに見つかるなら苦労はしない。
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