第三話

 悩んでいる僕をよそに、アンは本棚を眺めているようだった。それほど興味を引くようなものが入っていただろうか。その背表紙を見つめてみるも、どれが気を引いているのか眼差しからは判別できなかった。

 けれど、不意に気がつく。僕はのそのそと本棚に近付いて、一冊の分厚い海の生物写真集を取り出した。僕の行動を見ているのか。写真集を見ているのかは、やっぱり判然としない。しかし、視線が追いかけてきたのでそれでよしとして、僕はそれをテーブルの上に置いて広げた。


「写真集だよ」

「……イルカ」


 イルカのようだと思っていた彼女の口から、その存在が零される。奇遇っぷりを思わずにはいられない。

 僕はそれに導かれるようにページを捲って、イルカのページを開いた。彼女はそれを見ると、ぱちぱちと目を瞬いて夢中になっている。どうやらよっぽど気になるようで、指先がタオルから離れて、紙の上をつるつるとなぞっていた。


「ハンドウイルカ」

「この灰色は君の髪の色に似てるね」


 彼女は今までの鈍い反応が嘘のように、僕へと視線を向けてくる。……いや、確かに敏感であるとは言えなかったけれど、彼女は僕を見ることだけはいつでも一人前だった。


「これ?」

「うん、君の髪は銀灰色かもしれないけど」

「どう違う?」

「うーん? 君の髪のほうがキラキラしてるかな」

「……この子もキラキラしてる」


 彼女は自分の髪の調子など露ほど興味がないかのように写真集へ視線を落として、水中で撮られたイルカの写真をなぞる。


「水もきれい」


 青だけではない翠色の光が混ざり合って、陽の光をきらめかせ、イルカの体躯が水を揺らして、幻想的な瞬間が収められていた。

 彼女はそれを面白そうに眺めている。無表情であり続けていた彼女の頬に、緩い笑みが浮かんでいた。


「そういうの好き?」

「うん、好き」


 さっきまでとはまるで違う素早く迷いのない反応だ。挙げ句、僕のほうを見ることもない。かぶりついている姿は、年相応に幼くて可愛らしかった。

 喋らないのは同じだったが、沈黙も悪くはない気になってくる。彼女が楽しんでくれているのならば、と肩の力が抜けた。

 僕はそれを横目に、本棚やその辺りに積み上げている本の中から、比較的写真集めいた海の本を拾い上げていく。海洋大学に通っているから、そうした資料も多い。

 大学入学以前からも、僕はずっと海に興味があった。それは水族館からの派生だ。だから、大学の資料とは違う娯楽的な写真集も多い。それを取り出して、彼女がかぶりついているテーブルの隅に積み重ねる。

 咄嗟に抜き出してきたものは、そう冊数も多くない。けれど、写真集は分厚さがあるので、それなりの重量がテーブルに載った。その重みは彼女も気になったようで、顔を上げる。それから本の山を見ると、黒い瞳が艶を増した。


「いっぱい」


 どうやら気を引けたらしく、声が楽しそうに弾んでいる。


「綺麗でしょ?」

「うん……これ、水族館」


 彼女は目敏く一冊を見つけて、それを手に取る。上から三冊目に重ねられているその本を、ずるずると不格好に抜き取ろうとしていた。僕が上の本を退けてあげると、彼女はするりと本を抜き取って天に掲げる。


「素敵」


 ぱああと顔を晴れさせる彼女は、愛らしくて眩しい。海よりも水族館のほうに胸を弾ませているのも、何だか心が躍った。

 自分と同じような趣味を持っている子がよく見えるのは、常道だろう。


「うちの水族館にもよく来るの?」


 思えば、こんな簡単な共通の話題があった。とてもちょうどいい。

 そう思ったのに、彼女の反応はまたぞろ鈍くなってしまった。もしや、水族館で何か問題が起こったのだろうか。地雷なのか。

 困惑してしまった僕に、彼女はここに来て初めて動揺するかのように瞳を揺らした。それから、考えるようにぽつりと零す。


「いる」


 それは、よく行く、というニュアンスと何が違うのか。そのときの僕には、よく分からなかった。

 けれど、わざわざ言い直したからには、アンには意図があったのだろう。とはいえ、そんな小さな言葉尻を取り上げて話を滞らせるのは、本意ではなかった。というよりは、どこまで踏み込んでいいものか。アンとの距離を測りかねていた。

 だから、不用意に踏み込むのではなくて、会話を繋ぐことに主眼を置いて考える。水族館にいると言うけれど、こんな子がいれば、もっと噂になっているはずだ。

 他意はないが、常連には密かにあだ名をつけていたりするものだったりする。僕だって、甥っ子さんと呼ばれていた。まぁ、これは常連が反映されているのか。おじさんの親族目線が反映されているのかは謎だが、とにかく認識は共有されるものだった。

 銀灰色の髪の子なんて稀有だ。話題に上らないなんてあり得ない。仮に共有されていないとしても、僕だって海岬水族館の常連だった。そこからバイトに転じた僕が、知らないとは思えない。

 だから、いるという発言は不思議で仕方がなくて、僕はついつい考え込んでまじまじと彼女の姿を見つめてしまった。僕の視線に、彼女がゆるりと首を傾げる。徐々にではあるが、彼女は反応を示してくれるようになっている気がした。


「……アンって知ってる?」

「うん」


 これはひどくややこしい確認だろう。けれど、他の言い回しなど思いつきもしない。そして、僕の葛藤などまったく気にせずに、彼女はこくんと頷く。


「君はアンと似ているね」


 ぽろりと零れてしまったのは、彼女が即応してくれたからだ。口にした瞬間、しまったと悔悟する。

 だって、そうだろう。いくら何でも、初対面でイルカに似ているというのは、褒め言葉とは言い難い。僕がイルカを贔屓していると知って初めて、多少なりとも褒め言葉だろうと飲み込めるものだ。知っている蓮月さんでも、苦笑いをするだろう。

 彼女はぱちくりと目を瞬いて、僕を見つめた。彼女はよく人の目を見るので、視線のやり取りだけで意図を掴むことは難しい。とはいえ、腑に落ちないであろうことは僕自身納得できる。そう思ったのだ。

 しかし、彼女はにぱっと笑みを浮かべた。感情の流れが腑に落ちなくなってしまったのはこちらのほうだ。


「うれしい」


 ぱちくりと瞬くのもこちらの番になった。

 この世の全員に通じる褒め言葉もないだろうし、逆もしかりだ。どんな褒め言葉でも、通るときは通る。しかし、まさか僕のイルカ発言がたわいなく通ると思わず、いわんやそれを手放しで喜ばれるとは思わなかった。

 彼女は機嫌よく笑っている。


「イルカに似ているっていうのをそんなに喜んでくれるとは思わなかった」


 素直に零してしまうのは、彼女が着飾らないからだ。それに釣られるように、僕は疑問を口にしてしまっていた。

 彼女は不思議そうに首を傾げる。むしろ、喜ぶことが自然という認識のようだ。僕はイルカ贔屓について自分が異質だという自覚がある。彼女も同じであるとは、こちらこそ不思議な感覚だった。


「いいこと」


 彼女は端的に喜びの理由を零す。度外れて端的な答えは、意図が掴みづらい。だが、イルカに似ていることを好意的に受け止めていることだけは間違いなかった。

 そして、それは僕にとって珍しいことだ。こんなふうに、僕のイルカ好きに絡んだ言葉がすんなり通るなんて初めてのことで、心が浮き足立つ。


「アンは可愛いよね」

「……」


 彼女は音を出して同意はしなかったが、頷くように首を落として本へと戻った。そして、ぺらぺらとページを捲り、ひとつの写真で手を止める。それは、ハンドウイルカのもので、アンによく似た子だ。それを見つけると、彼女はそれをこちらへ向けてくる。


「かわいい?」

「アンのほうが可愛いよ」

「……特別?」


 このイルカはアンではない。だからこそ違って見えるのでは、と言われてしまえばそれまでだ。けれど、僕がアンを贔屓しているのは、誰もが知るところだ。僕は静かに頷いた。


「生まれたときから知ってるからね。思い入れがある子なんだ」

「その子に、似てる?」


 確認するように首を傾げて見上げられる。

 その銀灰色の髪の毛が、電灯に照らされて輝いた。それが、太陽に身を揺らめかすアンの姿と重なる。贔屓をしている子。それと重なる彼女の存在は、一瞬で特殊に昇華されていた。


「……似てる」

「うれしい」


 彼女はにこにこと笑う。

 この子は、僕がアンをどれほど贔屓しているのか。実際に知っているわけではない。それだと言うのに、ここまで喜んでくれる。そのうえ、僕に褒められて喜ぶほどには、友好的でいてくれるらしい。

 初めて会った子だ。うちに連れてくる暴挙に踏み出してしまっているが、それだってどうしようもない意気投合があってのことではない。

 そうした同意があるのであれば、彼女のテンションにも納得ができる。男女だ。そうした雰囲気になることもあるだろう。僕にだって、それくらいの理解はある。

 しかし、彼女との間にそんなことはない。いや、僕は彼女をきちんと女性として認識しているし、とても可愛い子だとも思っている。アンと似ているのだから、この贔屓は間違いない。

 だが、彼女が僕に好意的である理由はまるで分からない。そりゃ嫌われているなり警戒されているなりすれば、こんな事態には陥っていないだろうが。


「えっと……変?」


 僕が黙り込んでしまったからか。彼女は困ったように首を傾けた。


「変じゃないけど……アンは不思議だね」

「ふしぎ?」


 傾げている首の角度が更に深くなる。彼女は頷いたり傾けたり、ボディランゲージのほうが言葉よりも雄弁だ。いくらか応酬はできるようになってきたが、ほとんどが僕の言葉の復唱だった。


「他の人は僕のイルカみたい、をそう簡単に喜んでくれるものじゃないんだよ。褒め言葉とは取ってもらえない」

「どうして?」

「どうしてって……イルカは可愛いかもしれないけど、それはマスコット的な意味合いだとか……そういう感じだからじゃないかな?」

「それでも、褒めてる。違う?」


 ちっとも理解できないという顔だ。どうやら、彼女は僕と同じ感性の持ち主であるらしい。


「そうだね。イルカ、いいよね」

「うん」


 微笑んだ彼女は、またぞろ写真集へ意識を戻す。他のことへの興味はないみたいだ。

 僕の家にいるとか、これからどうするかとか、そんなことを考えるつもりはないらしい。こっちは少しずつ思考が広がって、先々のことが見えてきていた。

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