第四話

 ここに連れてきたのは流れでしかない。もちろん、僕の意思であるから、まさかこんなことにと嘆くばかりでいるつもりはなかった。いや、思わない気持ちがないわけではない。

 だが、彼女は水族館のひさしで休んでいただけだ。それを勝手に帰りの手段がないのだと判断して駅まで送り届けてしまった。僕の行動の結果だ。だから、連れ込んでしまったことを誰かのせいにするつもりはない。

 この後のことにも、責任を持たねばならないだろう。雨はまだ降り続いている。彼女が帰ると言うのならば、傘を貸し出してしまえばそれで解決だ。

 だが、彼女の帰り場所がどこにあるのか。それがどうにも不詳だった。さすがに、ないなんてことがあれば、ここまで整った姿で脳天気に生きてはいられないだろう。これは僕の想像力の欠如であるかもしれないけれど。

 少なくとも、彼女は天涯孤独というような悲壮感を持ち合わせているわけではなかった。だから安心というわけではないけれど。仮にそんな複雑な事情があれば、こう清潔感のある状態で呑気にはしていられないだろう。もう少し危機感があってしかるべきだ。推測の域を出ないけれど、帰る場所がない可能性は潰す。

 それに、そんな大ごとだと、僕には手に負えない。

 次点であり得るのは、家出だ。自分の事情を話したがらず、帰る場所を濁す。最も安直に思いつく候補だろう。

 ……どうだろう、と彼女の様子を見つめた。

 彼女はひとつひとつのページを検分するかのように、夢中になって写真集を凝視している。その顔はとても真剣で驚くほどだ。

 憂いなんてものは感じられない。不安なことがあれば、もう少し落ち着きがないものではないか。

 そう思って別の原因を巡らせてみようと思ったけれど、僕の頭では限界だった。家出してきて、せいせいしている。などという感情方面の思索は進むが、それでは事情への対策へ繋がらない。

 どうしたものか。

 責任感はある。だが、ずっと付き合っていられるはずもない。できても、今晩一晩泊めるくらいのものだ。それ以上は、手出しができない。

 何より、人一人を抱え込むほどに自立できていない。僕には荷が重すぎるのだ。だから、どうするにしたってずっと家に置いて関わるというわけにはいかない。

 どうしたものか。

 彼女が無我夢中になっているのを不躾に眺めながら、思考を巡らす。その顔色は、どれだけ見ていても飽きない。黒々とした瞳が、好奇心にきらめいている。僕以外にここまで水族館の写真集に夢中になっている人をそう見たことがない。

 この世にはそんな人間いくらでもいるのだろうが、そうした人のプライベートな時間を知る機会は少なかった。だから、彼女の姿は物珍しくて、そして共感ができるものだ。目を逸らすことがもったいないような気がして、僕はずっと彼女を見ていた。

 静かな時間経過が心地良い。そうして身を沈めていた閑静な時間に、粗野な電子音が鳴り響く。

 びくんと肩を揺らした彼女が、怪訝そうに僕を見た。僕は慌てて鞄の中からスマホを取り出す。彼女はスマホが何かは分かっているようだったが、知らないものを見るかのような興味津々さで見つめていた。何をどうするものなのかは分かっていないのかもしれない。

 僕はいつもと違って、スピーカーにはせずにそのまま電話に出た。


「もしもし?」

『あれ? お兄ちゃん、いつもより何か慌ててる?』


 それほど急いだつもりはない。しかし、いつも相手をしている夏海には分かるようだ。苦笑いを零してしまった。


「そんなつもりじゃないよ。ただ、友人が来てるから」

『そうなの? どんな人?』

「物静かな友人だよ。でも、あんまり放っておくわけにはいかないから、今日はそんなに話せないよ」


 下手に人の存在を隠しても、手早く電話を切れるとは思えなかった。とはいえ、いつもそれほど長くは話さないけれど。


『え~ズルい~』

「仕方ないだろ?」

『あんまり遊んじゃダメなんだからね! お兄ちゃんは勉強するために大学に通っているんだから』


 口うるさい親よりもよっぽど厳しい物の言い方をする。これが本気で僕の行動を制御するためであれば、僕だって苛立ったりもした。しかし、これは夏海の僕に構ってほしい我が儘だと分かるから、苦笑に留める。

 これだから、妹に甘いと言われるのだろう。


「分かってるよ。今日は豪雨なんだ。事情があるだけだから、心配しなくていいよ」

『雨? 大丈夫?』


 近年の豪雨は洒落にならないことも多い。夏海も我が儘の姿勢を解いて、真面目な声を出した。こういうところがあるから、憎めないのだ。


「うん、大丈夫。でも、友人は大丈夫じゃないから、切るよ」

『う~、しょうがないなぁ。今日は特別だからね! 明日はいっぱい構ってもらうんだから』

「分かったよ。じゃあな」


 彼女が明日どうなるのか分からない。匿えるわけがないと分かってはいるが、明日すぐに対応策ができているかは現状怪しかった。

 だから、約束をする一方で、どこかで不安が渦巻く。しかし、態度には出さずに電話を切った。夏海には不確定で悪いが、やむを得ないだろう。僕の電話をじっと見つめている彼女を無視することは難しかった。

 こちらからすぐに切ったからか。念押しのような明日の約束が、すぐにメッセージで入ってくる。それにスタンプで返すと、僕は彼女に向き直った。彼女はスマホに興味のある目を向けている。


「持ってないの?」

「うん」


 電車に乗ったことがなかったことと言い、箱入り娘なのだろうか。だとすると家出だなんて大ごとであるのではなかろうか。

 ぞっと背筋が凍りそうになる。そもそも、事案になりかねないことなのだ。僕だって未成年であるから、まだマシかもしれない。ただ、年齢差は色々と問題があるはずだ。


「……君は家に連絡しなくても大丈夫なのか?」

「へいき」

「そう」


 断言されると、僕にはなす術がない。


「君は今日どうするの?」

「どう?」


 彼女は状況が分かっていないのか。きょとんと首を傾げる。

 やっぱり行く当てのない家出娘という線が強そうだ。彼女は僕が連れ込んだことをちょうどいいとでも思っているのだろうか。

 しかし、積極的に置いてもらおうと動く気配もない。いや、そんなことをしなくても、僕が追い出したりしないと見込まれているのかもしれないけれど。この場合、侮られているというのかもしれない。


「ずっと君を置いておくわけにはいかないよ?」

「……じゃあ、帰る?」


 そこで疑問形で告げられてしまっては、不安しかない。帰る場所がないくせに、リスクも取らずに出て行くつもり満々のようだ。

 額を押さえてため息を零した。

 僕は彼女を叩き出せない。こうして連れ込んでしまったのは、彼女がこんなにも危機感を持っていないからだ。こんな少女を夜中に一人で放り出すなど、人でなしの所業だ。連れ込むのも同じくらい事件性があるが、だからって自分を保守するためだけに放り出せるものではない。

 こうなってしまった以上、取れる手段はひとつしかなかった。


「今日はもう遅いし、雨も降ってるから……泊まっていくといい」

「ここに?」


 他にどこがあるのか。零れそうになったが、この質問はそう一般的な反応から離れていないと考え直す。

 男の部屋に泊まるよう告げられているのだ。確認してしかるべきだろう。今までの彼女の態度からすると、そうした普遍的な反応が出てくることのほうがずっと不自然で不思議を抱いてしまった。


「ああ……君は不安かもしれないけれど」

「不安? なんで?」


 危機感からの確認ではなかったのか。彼女の言動の理屈が読めない。


「男の部屋に泊まるのは警戒すべきじゃないか?」

「……あなたを?」


 首を傾げられて、苦笑が零れ落ちた。

 僕がそんなことをするようには見えないのだろう。もちろん、それは褒められるべき点だ。誰でも彼でも手を出すような野蛮な男と思われないことは誇らしい。


「一応、するべきだと思うよ」

「でも、優しい。あなた……」


 彼女は困ったように僕を示す。ここまで来て、僕はようやく名乗っていないことに気がついた。


「碧だ。江口、碧」

「碧は、優しいから、大丈夫」

「僕、そんなに優しくしたっけ?」


 身勝手に連れ回したようなものだ。親切であったかと言われると、自信が持てない。そもそも僕が声をかけなければ、彼女はあの場にいられたのだ。それが表面上いいことであるかどうかはさておき、彼女にとってみれば困ったことではなかっただろう。


「お金も出してくれたし、本も見せてくれた」


 なんてチョロいのだろう。お菓子に釣られないように言いつけておかなければ、ふらっとどこかに連れて行かれてしまいそうだ。


「それはただの惰性だよ」

「だせい?」


 彼女は何歳なのだろう。

 中高の境目では、語彙力はどれくらいのものだっただろうか。惰性に疑問を抱くようなほどだったか。僕はもうそんなことを覚えていなくて、苦笑するより他にない。


「流れってこと」


 明瞭に説明できるほど、僕だって語彙力が豊富なわけじゃなかった。だから、とてもざっくばらんな説明をする。彼女はなるほど、とばかりにひとつ小さく頷いた。


「でも、嫌なら流されない。違う?」


 断定の後に疑問が繋がる。妙な言葉遣いだ。彼女の会話には、そういうところがある。どこかにあるぎこちなさに、彼女の幼さが際立っていた。元より少女であるけれど、ますます幼さを感じる。ともすると、それは微笑ましさのような。


「そうだね。だからって、油断していいわけじゃないよ。世の中にはそういうふうに手のひらで転がして良いように扱おうとするやつもいるからね」

「碧はそうなの?」


 間髪入れぬ問いかけに、口を噤んでしまった。

 彼女の警戒心を煽りたいのは事実だ。必要なものであろう。だが、僕がそうした悪質な思考の元動いているとは勘違いされたくはない。閉口してしまった僕に、彼女は首を傾げたまま止まっている。変に追撃してこないことが、追撃になっていた。


「そんなことは考えていないよ」

「だったら、大丈夫」


 彼女の心の開き方には不安がよぎるが、ここで警戒心を膨らまされても困る。僕は曖昧に笑うことしかできなかった。


「……それ、海?」


 そんな流れをまるっと無視して指差されたのは、夏海との電話を終えてテーブルの上に伏せて置きっぱなしになっていたスマホだ。突拍子がなさすぎたけれど、海と示す理由はすぐに察した。

 僕のスマホカバーは、海を模した真っ青な一面に、貝やひとでのモチーフが描かれているものだ。


「ああ……気に入ってる」

「きれい」


 彼女はまたじっと見つめている。凝視する癖でもあるみたいだ。そっと差し出してみると、彼女はそろそろとスマホを手に取った。

 初めて手にするのだろう。危うい手つきが不安になるが、彼女が目を向けて興味を注いでいるのは裏側ばかりだった。まじまじと見るほど、特殊な技術が使われているわけではない。一般的なカバーだ。


「海のもの好きなの?」

「うん」


 海が好きだから、と言ってそのモチーフのものを好むかどうかは趣味の問題だろう。僕はそれに該当するが、彼女がそうだとも限らない。彼女もそうであると分かって、ふわっと心が浮上した。

 だったら、と彼女がカバーに夢中になっている間に、コレクションを取り出してくる。と言っても、そう多くはない。イルカのぬいぐるみキーホルダーや、ポストカード。細々としたガチャの景品などもある。

 本棚に飾っているそれを持ち出して、テーブルのビニール袋を下ろして並べた。ひとつひとつは高価でも貴重なものでもないし、統一感があるわけでもない。

 けれど、そこには擬似的な海のモチーフが並び、エメラルドグリーンを幻視するような海ができあがった。その状態に気付いた彼女が、スマホをもそこに並べる。一気に海らしさが増して、青みが広がった。

 彼女はそれに満足したのか。瞳をきらめかせてテーブルを眺めながら頬を緩めている。安上がり、と言うと失礼だが、その遊び方は随分アナログで、小さな子みたいだ。


「碧は海好き?」

「うん。そうだね」

「イルカが一番?」

「うーん、そうかな」


 正確に順番を決めてみたことはない。だが、イルカを上回る存在にすぐに思い至ることはなかった。実際、目の前に広がる海のものを見ていても、贔屓しているのが明らかだった。そこまで意識していなかったが、やっぱりアンの存在は大きい。


「わたしも」

「イルカがいれば何でも好き?」

「何でも?」


 何を確かめられているのか。彼女に思い当たる節はないらしい。僕はスマホを操作して、イルカが出てくるスマホゲームを立ち上げた。海辺の生物を飼育できる育成ゲームだ。


「こういうのは?」


 このゲームそのものは知らないだろう。スマホを持っていないと言うのだから。彼女はそれを見つめて、ぱちぱちと瞬きをした。


「動くのもいい」

「興味はある?」

「うん」


 触れたことがないだろうことは想像するまでもない。ここまでの世間知らずさから、ゲームなど遠い存在であることは予想できる。

 そして、彼女は特に動かないその画面だけにも夢中になっていた。僕が画面をタップしてやると、魚たちが動いて海藻が揺らぐ。たったそれだけのことに、彼女の瞳がキラキラと輝いた。僕の手柄でもないというのに、鼻が高くなる。


「どうするの?」


 興味が高まったらしい。今まで僕の発言に受け身であり続けた彼女から、自主的な言葉が出てくる。ようやくコミュニケーションが発展したようで、嬉しくなった。危機感がどうの、と言っていたわりに僕もなかなか単純だった。


「タップしてみて」


 僕は向かい側から彼女にスマホを見せて、手を伸ばしていた。そのまま操作するのは難しいので、彼女にスマホを渡してやり方を伝える。しかし、彼女はいまいち具合が分からないようだった。

 タップしていけば、流れに沿っていけばいいと分かりそうなものだが、それは普段から慣れ親しんでいるものの感覚だろう。

 困惑顔になる彼女側へと移動した。隣に並ぶ。彼女からは、柔らかな香りがした。どこか水っぽい冷ややかな気配がするのは、僕の気のせいだろう。


「ゲームはしない?」

「はじめて」


 今どき、こんな子も珍しい。もちろん、まったく触れずに過ごしている子もいるだろう。だが、僕の周囲にはいなくて、物珍しさは拭えなかった。

 僕は彼女の隣に座ったまま指南して、彼女にゲームに触れさせる。楽しそうな彼女を見ながら、夜は更けていった。

 スマホゲームだけではなく、自宅から持ってきたテレビゲームもつける。彼女は僕がやっているのを見ていることのほうが多かったけれど、それでも楽しかったようだ。笑い声を立てるようなこともなかったが、その瞳のきらめきは多弁だった。

 一晩、彼女をうちに置くしかなかった。

 その覚悟は、彼女と話しているうちにしていたのだ。彼女は明確にどうすると言わなかったが、もう置くしかないと僕には分かっていた。

 だから、そうしてゲームに興じられたことは幸いだっただろう。変に彼女を意識することもなく、緊張を抱く時間すらもない。おかげで、僕はバカなことを考えずに済んだ。そのままゲームをする、無邪気な一晩となった。

 とはいえ、一晩は完全な一晩中ではない。大学で講義を受けて、バイトで肉体労働をしている。僕は徹夜することができずに、いつの間にか寝落ちてしまっていた。

 ゲームをしながら寝落ちるなんて、ほとんど初めてのだらしなさには苦笑が浮かんだ。しかし、そんな苦味よりも切実な問題が僕には待っていた。

 翌朝、目覚めた僕のそばには誰もいない。

 そして、彼女がいた形跡などどこにも残っていなかった。まるで夢を見ていたかのように、何の残り香もない。せいぜい自分が羽目を外した程度の部屋の状況に、僕は混乱に陥った。

 一体何が起こったのか。ちっとも分からない。

 彼女の存在が嘘だったのではないか。幻だったのではないか。そう思ってしまうような状況で、僕は右往左往してしまっていた。

 けれど、いつまでもそうしているわけにもいかない。僕は動揺を胸に、どうしようもなく、一日を開始するしかなかった。

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