第三章

第一話

「大丈夫?」


 榎田さんが心配するのも当然だろう。ほぼ徹夜で講義に出てきたのだから、その眠気は尋常ではない。僕は言葉を濁すかのように、微苦笑で収めた。榎田さんは呆れた顔をする。


「徹夜でもしたの?」

「まぁ、ちょっと」


 認めると、眠気は深まるものだ。くわりと欠伸が語尾に混ざって、僕は口元を覆った。榎田さんは、ますます呆れたような顔をする。


「居眠りしてたのついこの間でしょ? 徹夜なんかする余裕があるなんて、江口くんはすごいなぁ」


 少しもすごいと思っていない声音に、打ちのめされるしかない。徹夜してしまったのは間違いないのだから、言いようもなかった。


「ちょっと事情があったんだよ」


 詳しく言うわけにはいかない。僕の名誉のためには、黙っているのが一番だ。少女を自宅に泊めたというのは、胸を張れるわけもない。アンという名前しか知らない子なのだ。

 僕の説明に、榎田さんは呆れた顔から事情を加味したような怪訝な顔色になった。


「何? 彼女とか?」

「違うよ」


 言下になってしまったのは、どうしたって焦りが巡ってしまったからだ。

 少女を泊める。その世間体の悪さは明らかにされたくなかった。そして、彼女が彼女であると誤解されることにも、気持ちが上滑りする。

 白いワンピースに身を包んだ華奢な身体に、艶やかな銀灰色の髪。僕の隣にいてくれて、ゲームを楽しんでいた。

 あの姿が幻ではなかったと証明する方法がない。僕の眠気だけがその証拠になるだろう。あまりにも主観的過ぎて、幻の可能性を否定しきれない。現実にそんな夢幻があるわけがなかった。そう分かっていても、その疑念を消すことができない。

 榎田さんに突かれて、あからさまな反応を隠せないほどには頭にはびこっている。彼女の姿が脳内に焼きついて離れていかなかった。


「……即答するなんて、怪しいなぁ」

「本当にそんなんじゃないんだよ」


 塗りたくるだけ怪しい。その懸念も自覚もあったが、口が動くのを止められなかった。榎田さんは、言葉通りに訝しげな顔になる。


「そんなに否定することないんじゃない? 彼女が可哀想じゃん」

「だから違うって」

「え~、怪し~江口くんってモテるでしょ?」

「なんでそうなったの」


 モテるなんて評価がどこから出てきたのかさっぱり不明で渋面になった。眠気も吹っ飛ぶ。榎田さんはさも当然のような顔で僕を見ている。本当にどこから捻り出してきた発想なのだろうか。


「背も高いし、清潔感もあるし、結構目立ってるし」

「その目立ってる、は別にカッコイイとかじゃないでしょ」


 百八十センチを超える長身は、まま目立つ。僕は細身で高いものだから、目につくものらしい。それがモテとイコールで繋がるとは言い難かった。

 それだと言うのに、榎田さんの考えは揺らがないらしい。


「そんなことないよ。飲み会でも、江口くん人気だったんだから」

「それは偶然じゃない?」


 そんな気配があっただなんて知らなかった。そして、だからといってそれに食いついてテンションを上げることもない。枯れているわけではなくて、実感がないのだ。人伝に聞く好意の有無ほど当てにならないものはない。

 僕にできるのは苦笑でいなすことだけだった。


「謙遜だなぁ。彼女に遠慮してるの?」

「だから、彼女じゃないって?」

「じゃあ、ワンナイト?」

「そんなわけないだろ!」


 思わず言葉が乱れる。

 彼女と一晩を過ごしたことは間違いではないが、疚しいことは決してない。だからこそ、あれは現実だったと思っている側面もある。僕の妄想であれば、もう少し自分に都合の良い幻を見そうなものだ。

 ……ワンナイト的なことが自分の理想かどうかは定かではないけれど。だが、僕だって男だし、ゲームだけの健全な夜だけを望んでいるわけではないことも確かだ。


「ますます怪しいからね」

「……坩堝じゃないか」


 榎田さんは、僕が何を言っても聞く耳を持つ気がないようだった。どこまで本気か分からないのは困る。昨日も彼女に振り回されていたが、今もまた榎田さんに振り回されていた。これは僕の落ち度なのだろうか。


「ふふっ、だってからかい甲斐があるんだもん」


 榎田さんは一気に表情を緩めて、いつものからかい調子に戻った。やっぱり僕はからかいの運命にあるらしい。どこからがからかいで、どこまでが本気だったのかさっぱり分からないので、安心はできないけれど。


「勘弁してくれよ」

「だって、こんなにも眠そうにしてるから。徹夜する理由って他にないでしょ?」


 やっぱり、半分本気じゃないか。


「他にいくらだってあるでしょ。僕にだって、たまには羽目を外す夜があるよ」

「なるほど。それで……」


 消えた語尾がワンナイトであっただろうことは予想がついた。意見を翻すつもりがない。仮に僕がモテると判断しているとして、手が早いと思われている理由が分からなかった。そんな根性を見せつけたつもりはない。


「榎田さんは僕を何だと思っているの?」

「それなりに経験豊富そうな男子?」

「なんでそうなった?」

「だって、慣れてるでしょ? 私がこうして距離を詰めても、さりげなく離されるし、それが逆にリアリティがあるっていうかさ」

「慣れてるなんてことないよ。榎田さんの勘違いだ」

「ふ~ん? じゃあ、そういうことにしといてあげる。それより、講義は大丈夫なの?」

「ああ……うん。なんとか」

「もしノートが必要なら、今度はデートが交換条件だからね」

「今日は大丈夫」


 引き出された交換条件は苦笑で流す。榎田さんはそれが不満なのか、頬を膨らませて僕を睨んだ。本気ではない……と信じたい。


「なら、いいけどさぁ。本当に彼女はいないわけ?」


 思考を剥がしてくれていなかった。僕は苦笑する以外の表情ができない。頬が引きつっていないことを祈るだけだ。


「いないって」

「……まぁ、まだ怪しいけど、信じてあげるよ。他の講義で寝ないようにね」

「それは信じてるっていうのかな」

「信じてないなら追及をやめない。じゃあね」

「今後も追及しないでくれると助かるよ。じゃあ」


 大学一年では必修の講義が被ることも多いが、すべてが同じではない。榎田さんとはここで講義が別れる。

 さくっと離れていってくれることはありがたいが、今後もまた追及をされるのはたまったもんじゃなかった。榎田さんに話せることは何もないのだ。それどころか、彼女と再び邂逅することができるのかさえ不明だった。

 大体、彼女は大丈夫なのだろうか。あれほど無防備で無警戒。彼女がいなくなったのは早朝のことだと思うが、それにしても心配は拭えない。

 去っていく榎田さんの後ろ姿を見ながら、彼女はどうやって僕の元を去っていったのだろうかと、また彼女のことを考えていた。

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