第二話

 大学ではそれで済んだ。僕は榎田さん以外とはせいぜい挨拶を交わす程度の交流しかない。

 決して、消極的なわけではなくて、どうしてもバイトに比重が傾いている。講義の後にどこかに遊びに行く、なんてことはほとんどない。

 学内ですれ違う程度であるから、挨拶を交わすだけでも十分な交流なのだ。そうした交流では、僕が徹夜で眠気に負けそうになっているとは気付かれない。

 そして、僕はバイトまでの短い時間で仮眠を取って、僅かな回復を試みた。それは個人的には十分な休息であったつもりだが、僕をよく知るものにしてみれば、細やかでしかなかったらしい。

 バイト先に着くや否や、蓮月さんに見つかってしまった。


「どうしたの? 心配事?」


 それは榎田さんよりも、より一層僕の心情を適確に突くものだ。

 ほぼ徹夜になってしまったことも、大変なことではある。だが、一日くらいなら、まだどうにかなるものだ。完全なる徹夜ならば、こんなものでは済まなかったかもしれない。しかし、僕は寝落ちてしまっていたし、数時間は眠っている。

 だから、僕が消沈して見えるのならば、それは彼女のことだ。今朝方いなくなってしまった彼女。それを心配する力のほうが、睡眠欲よりも高い。榎田さんの指摘よりも、蓮月さんの指摘のほうが真に迫っていた。


「ちょっと寝不足なだけですよ」

「ならいいけどさ。バイト、しっかりしなくちゃダメだぞ、碧くん」

「はい」


 真っ当な忠告には、生真面目に頷くしかない。僕は気合いを入れ直して、本日の業務に取りかかった。

 今日は接客だ。僕は館内を案内して移動しながら、イルカの水槽を横切る。その中を泳ぐアンを観察してしまうのは、彼女のせいだろう。そうでなくても、アンを贔屓しているのは事実だ。それがいつにも増して、目に留まってしまう。

 それだと言うのに、僕はアンに癒やされているわけではないのだ。まさかアンを見て気苦労が膨張していく日が来るとは思わなかった。

 アンと同じ名を持つ彼女は、はたしてどうしたのだろうか。無事であるといい。

 水族館によく来ると言っていたから、図らずもお客様のほうに目を巡らせて人探しをしてしまう。

 それでも、手綱は握っているつもりだった。職務怠慢なんてことはない。しかし、挙動は平常から外れていただろう。蓮月さんには誤魔化しが効かないほどには、平時ではなかったらしい。バイト時間が終わってスタッフルームに引っ込んだところで、蓮月さんに捕まってしまった。


「本当に、どうかしたの?」


 僕だって、どうかしている自覚はある。だが、こうまで確かめられてしまえば苦笑にもなろうというものだ。内容を仔細に伝えるつもりがないのだから、輪をかけてそうなってしまった。

 しかし、蓮月さんは僕を逃がしてはくれない。蓮月さんに僕を追い詰めている気は更々ないのだろう。純粋に僕を心配してくれているのは分かっている。

 だから、邪険に扱えなくて、しばらくの押し問答の末、僕は昨晩の事情を話してしまった。もちろん、彼女がイルカのようだったなどという僕の主観は省いている。

 彼女の事情がまるで分からなかったという点と一人きりであった点に注目してくれたようで、僕が少女を連れ込んだという部分に焦点を当てずに済ませてくれたのには感謝しかない。そこを責められていたら、僕は降参するしかなかっただろう。蓮月さんは、大変な目に遭ったねという態度でいてくれた。

 しかし、


「名前は?」


 という問いかけには虚脱しそうになる。

 僕はその問いが投げられるまで、彼女や少女、女の子という言い方でうやむやにしていた。しかし、これは逃れ続けられるものではない。さすがに名を聞いていないというのは無理筋だろう。


「アン」

「……アン?」


 蓮月さんは怪訝をふんだんに乗せた顔になった。


「……アンです」

「イルカのアンと同じ名前?」

「そうですね」

「だから、引き取っちゃったの?」

「引き取ったわけじゃないですよ」


 それだとまるで、今もまだ保護をし続けているようだ。彼女はもう、僕のところにはいない。心配ばかりを残して、去っていってしまった。


「でも、そうじゃなきゃ泊めてなかったんじゃないの?」

「それとこれとは別ですよ」


 ……別だと思いたい。

 確かに、僕が彼女を泊めようと決めたのは、彼女に名前を聞いてからのことだ。しかし、もうそのときには後に引けなくなっていた。彼女に声をかけた時点で、僕が彼女を泊めない道は封鎖されてしまったも同然だったのだ。

 なので、彼女の名前がアンであったことは、直接的には関係がない。それは結果論だ。


「じゃあ、困ってる子がいたら、誰でも彼でも手を出すの? 碧くんは」

「そういうわけじゃありませんけど……」


 彼女に声をかけてしまったのは、その姿を見たのが二度目だったからだ。

 イルカのようだから、という気持ちもあるにはある。だが、二度も水族館のひさしで時間を潰しており、かつ昨日は豪雨だった。たった二日のこととはいえ、その積み重ねがあってこその話だ。決して、誰でも彼でも、というわけではない。

 しかし、今そんなことを言っても、蓮月さんを説得できるとは思えなかった。濁した僕に、蓮月さんは案の定渋い顔をする。

 誰でも彼でも手を出すなんてのは、たとえ人助けでも歓迎されるものではないだろう。僕だって他の誰かがそんなことをしていると聞けば、渋くならざるを得ない。

 それは、誰でもいいのかという非難ではなく、そのような無秩序な手助けなど請け負って、被害を受ける可能性があるのではという危惧だ。そして、恐らく蓮月さんが抱いているのはその類いのものだろう。友人と呼んでくれるほどには僕を思ってくれているのだから、心配も想像できた。


「それじゃあ、私が困ってたら碧くんは助けてくれるの?」

「僕にできることであればですけど」

「泊めてくれる?」


 ぐいっと下から覗き込まれるように首を傾げられ、僕は思わず身を反らす。

 近いし、女性を泊めることはそう簡単な話ではない。それを提案されている。その心の距離感に、慄いていた。

 そうした僕の反応に、蓮月さんは唇を尖らせて不満を訴えかける。困惑して答えに窮する僕に、蓮月さんはわざとらしいため息を零した。悲嘆に暮れたような音に、じわりと責め立てられているような気持ちになる。


「やっぱり碧くんはアンが特別なんだね? 私が不安になってても答えてくれないのに」

「それとこれは別だって言ったじゃありませんか。泊めるのは僕にできる範囲を出てますよ」

「でも、アン……アンさん? 女の子は泊めたんでしょ?」

「それはそうですけど……あれは、もう事故って言うかそういうもので」

「私とは事故でも無理なの?」


 不貞腐れた顔に、喉を鳴らす。

 蓮月さんには世話になっていたし、大学生になってから一番深い付き合いのある人だ。友人と言われて満更でもないほどには親密で、預けられる可愛さには打ちのめされるしかない。


「……そうは言ってません」

「じゃあ、どうしてもってときは頼りにするね、碧くん」


 にっこり笑う蓮月さんを振り切ることはできない。僕はほんの少し濁しつつも、首肯するより他になかった。

 それに、恐らく蓮月さんは僕が頷くまで手を替え品を替え言質を取ろうとすることだろう。押し込まれるだけ押し込まれて頷いて逃げ場をなくしてしまうよりは、早めに降参したほうがダメージは少ない。

 そして、そんなことは滅多に起こらないだろうと希望的観測を含めた妥協的なものだった。まさか、そんなことが早々起こるはずもないと、僕はあぐらをかいていたのだ。蓮月さんもそれで満足したようだから、それで構わないだろうと。

 そうして、僕らはいつも通りに二人で水族館を出た。これで今日はおしまいだ。もう休める、と思ったのがよくなかったのか。同時に、一瞬でも彼女のことを忘れたのが運の尽きだったのか。蓮月さんと二人で出て行ったところで、僕はすぐに足を止めることになってしまった。

 昨日の曇天が嘘のように澄み渡った月夜の晩。そこに座っていたのは、銀灰色の髪を月光に輝かせている彼女だった。

 その姿は昨日から変わっておらず、どうやら無事だったらしい。頭の中では安堵ができていたが、実際には何の反応もできずに僕は硬直してしまった。

 彼女は、昨日と同じように無言で僕を見上げてくる。別段、意識することもない。いつも通りとばかりの態度だ。そんな彼女を見て固まる僕なんてのは、いかにも何かあると喧伝しているようなものだった。

 そして、蓮月さんはこういうことに関して勘が良いらしい。僕と彼女を見比べて、すぐにその関係性が結びついたようだ。彼女を視察するかのように見つめる。

 彼女はその視線を捉えるように見つめ返した。……いや、見つめ返そうと思ってそうしているのかよく分からない。昨日一晩一緒にいたとはいえ、僕は彼女の性質が分からないままでいる。

 僕が知っているのは、海が好きで、好きなことへの好奇心は旺盛だということくらいだ。だから、日常の仕草については、どういう意図で動いているのか見当がつかない。

 そうして見つめ合う二人の視線に、こちらが気まずい気持ちになる。どうしてこの二人は初見で睨めっこのような状態で揺らがずいられるのだろうか。肝が据わっているらしい。

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