第三話

「あなたがアンさん?」


 蓮月さんのシンプルな問いかけに、彼女は首を縦に振る。マイペースさは昨晩からひとつも変わらない。昨日はそれなりに会話をしてくれていた気がしたが、友好値が顔を合わせたころに戻ったような脱力感があった。

 とはいえ、話しかけているのは僕ではないので、そこに一縷の希望はあるけれど。けれど、彼女が何を考えているのか分からないのは、何ひとつ変わりがない。

 蓮月さんも反応が鈍いことに思うところがあるのだろう。顔色が曇った。無言の肯定の愛想が良くないのは間違いない。


「……碧くんに会いに来たってわけ?」


 彼女はきょとんと首を傾げる。

 彼女にしてみれば、ここ数日と同じ行動であるのだろう。僕にはそれが分かるし、僕に会おうとしたわけでもないことは分かっている。

 しかし、蓮月さんにしてみれば、空惚けられたと思うものらしい。蓮月さんはどうも、彼女を怪しい存在だと疑っているようだった。

 もしかすると、アンという名前を偽名か何かだと思い、僕を騙しているとでも思っているのかもしれない。その可能性はゼロではないだろう。警戒心を解くという意味では、あながち考え過ぎということもない。僕がアンという名前に親近感を抱くのは事実だから、僕を騙そうと思えば使ってみるのも手だ。

 だが、僕は彼女が昨晩どんな態度でいたのか知っている。彼女に騙すなんて悪辣な思想は備わっていない。そんなことができるなら、僕はあっさり押し込まれていただろう。

 それは榎田さんが疑ったかのようなワンナイトのような意味でも、僕は彼女を撥ね除けることができなかったと思う。だから、彼女にその気があれば、僕は手も足も出ずに騙されてしまっているはずだ。

 蓮月さんは彼女の性質を知っているわけじゃないし、実際に見たわけでもない。だから分かるわけもなくて、警戒心が深まるのも分かる。だが、僕としてはピリピリした空間はごめんだった。そこまで蓮月さんに庇われる理由もない。

 僕だって、男だ。自分で抱え込んだ問題を自分で処理するくらいの力は持っている。はたして、朝には去られてしまっていた状態を解決できていたというのかは謎だが。

 しかし、この場ですべてをスルーしくさるなんてことはないし、蓮月さんにイニシアチブを取られる必要はなかった。


「今日もまたそうしているの?」

「うん」

「帰りは大丈夫だった?」

「まだ雨で、濡れた」

「勝手に帰らなくてもよかったでしょ? 傘も貸したのに」


 彼女は困った顔になって、首を左右に振る。また、誤魔化したい事情に関わることであるのだろう。僕はそれを騙るための手段とは思っていなかったが、蓮月さんはそうではなかったらしい。確かに黙って流そうとするのは、これほど不鮮明な存在が貫けるものではないのかもしれない。


「何か碧くんに伝えられない事情があって逃げ出したの?」

「逃げ出してない」

「だったら、ここにいないですよ。蓮月さん」

「帰らなくちゃならなかった」

「やっぱり問題があったんじゃないのか?」

「ううん。夜だけ」

「夜だけ?」


 極限まで削られた単語では、中身が読めない。そんなことは彼女相手にならしょっちゅう起こりえるが、今ほど意味不明なものはない。明らかに答えが噛み合っていなかった。

 蓮月さんも、彼女が独特の感性の持ち主だと感じているのか。あからさまに怪訝な顔で彼女を観察している。その目には咎めるような色が含まれていて、好意的とはほど遠かった。


「どういう意味? そんなに秘密にすることなの?」


 蓮月さんは攻撃的で、僕は戸惑いを隠せない。

 彼女が不快な思いをするのではないか。その不安が膨らんで、ついつい彼女の反応に気を取られてしまう。

 彼女は蓮月さんの攻撃性を見ても、それほど動揺した様子はなかった。基本的に感情が表に表れない彼女からそれを気取ることができないだけかもしれないけれど。けれど、彼女は実際に冷静に首を縦に振った。秘密があると隠さないことは、僕にとっては心地良いものだ。

 しかし、蓮月さんは違ったらしく、僕の前にむんと胸を張って立ちはだかる。


「それで碧くんの気を惹いたの?」


 彼女は不思議そうに首を傾げた。そんな気はないどころか、意味が分からないのだろう。


「蓮月さん、彼女にそんなつもりはないですから」

「どうして碧くんが分かるわけ?」


 ぶんとこちらを振り仰いだ髪の毛がふわりと揺れる。蓮月さんは猫目をつり上げた。


「何もなかったからですよ」


 何をしたのかとは明かしていない。しかし、こんなところで争うのは無駄であるし、僕は手短に証明をはたした。


「……何があったのかは分からないもん」


 蓮月さんだって、それは悪足掻きだと分かっているのだろう。それを言い始めたら、何を言っても無駄になると。

 しかし、そう指摘することもまたできるというのは真実ではあった。僕の言は僕の言でしかない。そして、彼女がそのフォローをしてくれることはない。彼女には、そんなことをしなければという認識すらないだろう。というよりも、僕らの会話の意味を理解しているのかも不分明だ。


「じゃあ、蓮月さんは何をもってすれば納得してくれるんですか? 僕と彼女には何もありませんでした。ねぇ、アン」

「うん。ゲーム教えてもらっただけ」


 その響きの何と健全なことか。それでも、蓮月さんが安心できるものではないらしい。そりゃ、大学生にもなって一晩男女で同じ部屋にいたというのは、疑いを持つものだろう。僕だって、まったく想像しないということはあり得ない。

 だから、蓮月さんの懸念も理解はできる。


「一晩中?」

「一晩中です」


 それほどやることがあるか? という目が僕に突き刺さった。

 彼女相手では会話が進まないと、蓮月さんも感じ取っているのだろう。標的を僕に定めたようだった。どちらにしても、追及していることは変わりないので、定められようと定められまいと同じことだ。


「問題ありませんから、そんなに心配しないでくださいよ。蓮月さんが心配するようなことは何もありません」


 心配されているとしても、それほど気にされることだろうかという気持ちもある。僕がどうしようと僕の自由だ。蓮月さんが友人の行為に口を出すのは出過ぎた口だろう。心配してくれているにしたって、僕は僕の意思で行動に移す。


「……何もなかったから納得しろって言うの? 可愛い後輩が、女の子を連れ込んでたってのを?」

「なんでそこに拘泥してるんですか」

「だってズルいじゃん! 私だって、碧くんの家に遊びに行きたいし。ぽっと出の人に仲良くされると寂しいよ」


 蓮月さんは可愛い子だ。その子に寂しいと言われて、自分と仲良くしたいと訴えかけられる。それには、胸がぎゅっと引き寄せられるところがあった。


「……遊びに行くくらいなら付き合いますから、そんなにこだわらなくて大丈夫ですよ」

「じゃあ、家に連れてって」

「蓮月さんはもう少し警戒心を持つべきじゃないですか?」

「碧くんだもん」


 それは僕だから何もしないだろうということなのか。それとも、僕とならいいということなのか。言葉にして確かめることもできずに、言葉を引っ込める。

 そんな僕の心境をよそに、蓮月さんは攻勢をしかけてくる。


「付き合ってくれるって言うなら、今から連れてって」

「蓮月さん」

「だって、アンさんは昨日出会って昨日連れてってあげたんでしょ? ズルい」


 小さな子どもの我が儘のように言いざまには、ほとほと参る。

 途方に暮れた僕のそばに、おもむろに彼女が立ち上がって寄ってきた。突発的な行動に、僕も蓮月さんも驚きを隠せない。彼女はそうして身動ぎしておきながら、これといった自己主張をしなかった。

 僕と蓮月さんは困惑して顔を見合わせる。


「……あなたも来るってこと?」


 蓮月さんが渋々。本当に渋々、といった調子で口を開いた。蓮月さんの声の重さとは裏腹に、彼女が軽やかに頷く。


「どうしてそうなるの?」

「……あなたも行くなら、わたしが行ってもいい?」


 断言はしてこない。曖昧な言い方には苦笑が零れる。


「まだどっちもいいなんて言ってないんだけど……」

「昨日と一緒」


 そう攻めてきたのは彼女のほうで、僕は少し驚いた。昨日は僕が会話を引っ張っていて、彼女が自身から能動的になった瞬間なんてのはほとんどない。

 もちろん、海のものに食いついてくる好奇心はしっかりと存在していたが、それはそれだ。行動を自発的に決めるなんて意思があるとは知らなかった。……あまりにも低く見積もり過ぎているような気もしたが、実際昨日の彼女はそうだったのだから仕方がない。


「そうだけど……二人とも来るんですか?」

「アンさんを連れて行くって言うなら絶対ついていく。二人きりなんて許さないんだから」


 蓮月さんはムキになって主張する。こうなると、もう僕にはどうしようもない。蓮月さんには元々逆らえないところがあるが、そこに彼女まで加わって事態を動かされてしまったら、僕になす術はなかった。

 肺胞のひとつひとつから酸素が零れるような深い息が漏れる。


「分かりましたよ」


 僕に言えることはそれだけで、僕は蓮月さんと彼女を連れて、自宅への道を進んだ。

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