第二章
第一話
まるでイルカのような少女と再び出会ったのは、翌日のことだ。
前日、僕は家に帰ってからも、彼女の姿が脳内から離れなかった。夏海からの電話中も、どこか上の空だっただろう。
どうしてそこまで気になるのか。イルカのようだから、と答えは簡単に出たが、それはそれで頭を抱えた。
ただの一目惚れならば、驚きこそすれそういうこともあるだろうと納得できる。だが、それがイルカのようだから、というのは如何ともしがたい。蓮月さんや夏海にアンのことを引き合いに出されたことが、じわじわとボディブローのように効いている。
自分ですら、まさか自分の好みにそんな傾向があったとは思ってもみなかった。いや、過去二回いた彼女たちに、そんな傾向はなかったはずだ。
それだと言うのに、あの少女の姿が一向に頭の中から消えていかない。見ていた時間は、数十秒にも満たなかったはずだ。にもかかわらず、鮮烈過ぎた。
翌日の大学でも、榎田さんにまた眠っていたのかとからかわれたほどだ。それほど、ぼうっとしていた時間があったのだろう。まったく自覚がなかった。そこまで腑抜けるとは、我ながら予想しえない。
そんな状態だった僕は、アンに出会っても、また少女に思いを馳せていた。本当に洒落にならない。何がそれほど印象に残ったのか。その理由付けはできるけれど、どうしたって腑に落ちなくて、疑問がずっと心にはびこっている。
業務中に蓮月さんから叱責を受けるようなことはなかったが、注意力が散漫な自覚はさすがに持っていた。だから、注意を払って業務に集中していたが、その気合いっぷりを蓮月さんに見咎められた。不調には違いないので気まずい。
それをからかわれただけで済んだのは、僕が頑として口を割らなかったからだろう。
友人だと、親しい間柄だと、アンを贔屓していると。そういう蓮月さんが、僕を好意的に見てくれているのは分かっている。そんな人に、好みの相手に出会ってしまったと伝えるのはこっぱずかしい。それだけを心の杖にして、僕はどうにか蓮月さんの追及を逃れた。
ほっと肩の力を抜いて、一人きりの帰途につく。そうして、彼女の姿を目にしたのだ。
昨晩の天気が嘘のような土砂降りの中、彼女は昨日と同じように座り込んでそこにいた。彼女がいる場所には、一応屋根となるひさし部分がある。座っていても、しかと濡れることはないだろう。
けれど、土砂降りだ。アスファルトを叩く雨粒は、彼女の足元へと飛び散っている。気持ち悪くはないのだろうか。そう思うこちらなど意に介さず、彼女は端然と座り込んでいる。そして、僕の姿に気がついて、こちらを見上げてきた。
昨日は、その姿にすごすごと撤退してしまっている。けれど、今日はどうしても気になって離れがたかった。それは、一日中意識から外れることがなかった存在だから、ということもあっただろう。
だが、土砂降りの中に一人取り残されている少女なのだ。このまま放置しておいて大丈夫なのか、とごく自然な心配が浮上した。
昨日は寝るころになってようやく湧き上がった疑問が、今日はきちんとその場で機能している。
どうしてこんなところに取り残されているのか。大丈夫なのか。昨日は安全であったかもしれないが、この土砂降りの中に放置するのは気が引ける。
昨日の状態でも、今日一日中気を取られたのだ。こんな状態の彼女を無視して帰宅すれば、僕は使い物にならなくのではないか。そう思うと、とてもスルーする度胸はなかった。ならば、声をかける度胸を絞り出したほうが、まだマシだ。
「あの、大丈夫ですか?」
マシだと思っていたはずだが、まともな声かけではなかった。ナンパのほうがよっぽど形になっているのではないのか。それほどまでに拙い態度になった僕を、彼女はじっとこちらを見上げていた。
だんまりを決め込まれて、困惑する。もちろん、僕の声かけが拙劣だったので、困惑しているのは彼女も同じだろうけれど。
「……昨日もここにいたよね?」
「うん」
簡単な問いなら答えてくれるのか。それとも、我に返ったのか。その辺は分からない。けれど、反応を示してくれたことは収穫だった。
「どうしたの? こんな時間に。誰かを待っているの?」
質問を複数投げたからだろうか。結局はひとつではあるが、彼女は不思議そうに僕の顔を見上げている。
「一人?」
「うん」
困った僕がどうにか簡明な質問に変えると、彼女はこくんと顎を引く。
話をするのは苦手なのだろうか。けれど、人見知りにしてはじっと僕のことを見る。アンバランスさを感じて、判断はしかねた。
「……帰らないの?」
告げると、彼女は困ったように首を傾げる。意図は掴めない。
帰らないのか。帰れないのか。まさか、帰る場所がないなんて、手に負えないことがあるわけじゃあるまいな。
至った考えに、僅かな後悔が滲む。イルカのよう、なんて軽率な気持ちで声をかけるべきじゃなかったのかもしれない。無視できなかったのだから仕方ないとはいえ、もう少し複雑な事情があることを考慮すべきだった。
いや、と思考を振り落とす。
もっと簡単な理由も考えられた。それは、至極単純なことだ。
「傘ないの?」
「うん」
これなら、帰れないという文脈であってもおかしくもないし、困っているのもおかしくはない。
よかった、と思ったのは一時的だ。複雑でなかったことには安堵したが、傘のない子を放ってもおけない。何より、この土砂降りはそうやみそうにもないのだ。対応しなければ問題があるだろう。
当然、今更見捨てるような度胸はなかった。
「……誰か迎えに来るの?」
緩く首が左右に振られる。一層、放っておくわけにもいかず、僕は傘越しに天を見上げた。
傘を打つ雨音はかなり大粒で勢いが良い。僕だって、こんなところで時間を潰したくはないくらいの豪雨だ。足元が刻一刻と濡れていっている。それは彼女の足元も同じことだ。このままでは、何も進展しないことが確実だった。
「駅まで一緒に帰る?」
「駅まで?」
初めて向こう側から問いかけられて、妙な感銘を受ける。会話が成立したような気持ちになった。
「濡れずにいけるかは分からないけれど、それでもよければ」
返事はなかったが、彼女は立ち上がってくる。
ずっと座りっぱなしで、膝小僧に邪魔されていて見えていなかったけれど、立ち上がるとその胸元がふんわりと持ち上がっているのがよく見えた。身長のわりに、というのもどうかと思う。思うが、その豊満さはどうしたって目に飛び込んでくるもので、僕はそっと目を逸らした。
そうしながら、傘を彼女のほうへと傾ける。彼女がそっとこちらへ入り込んでくるのが、気配で分かった。
「行こうか」
「うん」
相槌がほとんどだが、返事があるだけありがたい。僕らはぎこちなく隣に並んで進む。
彼女に質問を投げても、きっと答えてもらえない。そんなことを考えていたわけではなかった。正直に言えば、そんなことに気を回す余裕もなかった。ただ、相合い傘の雰囲気に飲まれていただけだ。
後は、それ以上に、雨を凌ぐことで精いっぱいだった。僕の傘はそれほど広くない。そこに二人がうまく収まるのは、至難の業だ。相合い傘なんて初めてのことだけれど、これほど狭いものなのかと実感した。
「もう少し、こっちに寄れる?」
「……うん」
自分はいい、なんてかっこをつけたことは言えない。自分だって傘の中には入っていたい。けれど、彼女が出てしまうのも本意ではない。近付いてくる彼女をしっかりと収められるように、歩きが慎重になった。
いつもよりも時間をかけて、駅へと辿り着く。ホームに入り込むと、きちんと雨宿りできることにどっと力が抜けた。傘からしとしとと雨粒がしたたり落ちる。
見上げた空は暗雲立ちこめ、ごうごうと降り注ぐ雨に靄がかかっていた。よく降っている。最寄り駅から自宅までは十分程度ではあるが、また歩かねばならないのかと思うと、既に気が滅入った。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。僕らは互いに肩を濡らしている。どんなに寄り添っても、限界はあったようだ。僕はリュックの中から、タオルを取り出す。
「よかったら、拭いて」
隣に棒立ちしている彼女に差し出すと、彼女はそろそろとタオルを受け取った。肩を拭こうとする身動ぎが、随分のろい。言葉も少ないが、動きも最小限。無気力とは違うのだろうが、とにかく動きが鈍い。
「大丈夫?」
「へいき」
「……髪も濡れてるから、毛先も拭ったほうがいいよ」
僕の指示に従うように、彼女が髪の毛に触れる。タオルで包んでとんとんと叩くような仕草は、よく水分を吸いそうだった。
「これで大丈夫?」
「ああ。よかった」
「……あなたも、拭いたほうがいい」
言いながら、彼女はタオルを見下ろして、それから僕へと差し出してくる。
その手つきに躊躇いはなく、僕も素直にそれを受け取った。自分のタオルだ。彼女が使ったものといえども、返してもらって構わなかった。
僕はタオルを受け取ると、髪を雑に拭う。細かく拭ったところで、自宅へと帰るにはもう一度濡れるだろうから適当で構わない。電車に乗るのに困らないならば、それでよかった。
彼女の体裁も整えられたので、息を吐く。
「それじゃ」
僕はそれだけ言うと、彼女と離れようとした。ちょっとばかり素っ気ないかとも思ったが、僕らには元来何の関係もない。僕が気になって仕方がなかっただけだ。だから、彼女が僕にこだわる理由はない。ゆえに僕は簡単に離れた。
だと言うのに、彼女は僕の後ろをついてくる。
「えっと……」
改札を通る前に彼女へ振り返って、言葉を切り出そうとした。しかし、続かない。
どう聞けばいいものか。過去に元カノがいたことはあるが、こんなナンパじみた距離の詰め方をしたことがない。まったく知らない女性と会話を滑らかにする技術はなかった。
「君も電車に乗るの?」
「……分からない」
ふるりと首を左右に振られても、こっちだって分からない。
彼女が駅へ行くことへ疑問を抱く様子がなかったので、当たり前のようにここまで連れてきてしまった。道筋すら分かっていないとは思いもしない。
「どういうこと?」
「……」
彼女は今までと同じように答えを寄越さなかった。じっと僕を見る。
そんな態度を取られても困るだけだ。彼女も困っているのかもしれないが、何も言わない状態で意味不明な反応をされても、僕には察することができない。そんな万能性があるのなら、僕はもっとうまく生きているだろう。
「……行く場所がないの?」
「うん」
「どうしてついてきちゃったの……」
そこで即答されても、頭が痛いだけだ。僕は額を押さえて項垂れた。視界の片隅で、彼女が首を傾げている。
「あなたが来るかと言ったから」
君が移動をするものだと思ったから、とは言ったところでもっともらしい返事があるとは思えなかった。
彼女はそれだけ言うと、言葉を飲み込んでしまった僕の様子を見つめている。人のことをよく見る子だ。会話をする気がないのかと思えるほど要領を得ない対応に比べると、人の目を見ることは外さない。アンバランスさは最初っからブレずに存在している。そもそも印象がイルカからしても、奇妙な子ではあるのだ。
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