第二話

 寝不足が続いていたのは、無意識にでも彼女の面影を探してばかりいたからだっただろう。

 いるはずがないと分かっていても、水族館の敷地内でも、大学の敷地内でも、自分の部屋の周囲でも。どこかで気を張っていた。夜は自室にいても、どこかで彼女がやってくるかもしれないという気持ちを拭いきれなかったのだ。

 そんな夢物語のようなことが起こるとは到底思っていなかった。いなかったが、拭えないものは拭えない。だから、ずっと揺蕩うような緊張感が漂っていたのだろう。

 それが、蓮月さんと交際を始めたからって、すべてがなくなるわけじゃない。それを蓮月さんに知られることは避けたかったが、やはりなくなるわけじゃなかった。だが、蓮月さんと日々を過ごすことで、癒やされる時間が増える。おかげで、僕の寝不足はすっかり影を潜めて、健康な日々を取り戻した。

 僕と蓮月さんの交際は、順調に滑り出している。お互いにバイトに専念しつつ、僕らは時折デートをした。互いにシフトが分かっているものだから、予定をつけるのは簡単だ。

 そのぶん、夏海の電話をやり過ごす理由が必要になって、簡単じゃないことも増えたけれど。けれど、夏海だって恋人に文句を言うことはない。

 ……ただし、これには面と向かって、という注釈がつくだろう。過去の恋人に関しても、夏海は直接文句を言いはしなかった。だが、口にはせずとも、全力で祝っていることはないだろう。構われる時間が減るのだから。

 それが予測できるから、やり過ごそうという気持ちになる。正々堂々と伝えて、夏海の機嫌を曲げるのを避けたかった。同時に、曲げた機嫌を元に戻すのに尽力する時間や手段がないというのもある。気力もない。

 ゆえに、夏海にはバイトの時間が変わったと伝えてある。

 実際、いつだって蓮月さんと一緒にいるわけじゃないから、必ずしも夏海の電話に出られないわけじゃない。こちらから電話をかけると申し出ることで、夏海はすんなりと納得した。むしろ、兄ちゃんに構ってもらえていると喜んでいるようだった。

 多少の罪悪感はあったが、安寧を保つほうが上回る。そうして、僕の日常は落ち着きを取り戻してきたのだ。

 彼女のことは、一夜の……実際には二晩だが、一時の幻だったと思うようになった。もちろん、彼女が現実にいないなんて、夢のようなことは言わない。

 何より、二日目には蓮月さんが一緒に目撃している。一晩しかなければ、僕は自分を信じられなくなっていたのかもしれない。そちらに思考が偏って、一人で悶々とする羽目に陥らなかったことはよかったのだろう、きっと。

 蓮月さんと過ごすことで、思い出として胸に秘めることができるようになった。

 イルカのような彼女と出会った、と。

 そろそろ、一ヶ月が経つのだ。蓮月さんとの交際も二週間が経とうとしている。蓮月さんの可愛らしい一面も多く見るようになった。バイト先の先輩であったときだって、可愛さはあったのだ。蓮月さんは可憐な少女であるから、目を見張る瞬間だってあった。それが恋人ということになれば、また違った顔も見えてくる。

 そっと照れるような顔などは物珍しく、僕はそのたびに気ぜわしい気持ちになっていた。


「碧くん。ファミレス行くでしょ?」

「もちろん」


 バイト帰りにファミレスに寄るのは、定番のデートになっている。時間はそうないし、定番と言ってもまだ数回しかない。だが、バイトの後に移動することや値段を考えると、どうしても質素なデートにならざるを得なかった。

 僕はちょっと情けないと思っていたけれど、蓮月さんは気に入ってくれているらしい。やけに力んだデートを求められるよりは気楽だが、そう健気にされると頑張ってやりたくなるものだ。次の休みには、どこかに遊びに行く予定を企てている。


「碧くんは今日もアンとイチャイチャしてたね」


 そこに他意はない……はずだ。

 アン、と呼ぶことで、彼女の姿がよぎることからは逃れられない。だが、蓮月さんが言うのは、単純に僕がアンと会話を試みていたことを指している……はずだ。そうであると断じておく。


「イチャイチャなんてしてないよ」

「でも、アンにチューされて喜んでたじゃん」

「アンのチューは芸でしょ?」


 アンはそれを教えられているから、仕草をすれば芸としてチューしてくれる。それは僕だけではないし、トレーナーが芸を教えているのだから、そっちのほうが言うことをきく。僕だけが知るアンの姿ではなく、イチャイチャなんて心を通わせたものではない。


「だからこそ、碧くんが求めて初めて、でしょ?」

「……アンが可愛いから、つい」


 こうなると、僕は逃げられなかった。アンを贔屓しているのは事実で、その面においては立場が弱い。彼女の存在がないにしたって、僕はアンを取り沙汰されたら逃げられないのだ。


「相変わらず、アンには弱いんだから」

「しょうがないじゃん。ペットみたいなものだよ」

「水族館は碧くんのものなの?」


 クスクスと笑いながら零されて、僕は苦笑になる。大仰な物言いをしてしまったけれど、僕にとってのアンはそういうものなのだ。


「しょうがないなぁ、碧くんは」

「アンは別ものだからね」

「ふ~ん?」


 蓮月さんは、彼女相手に牽制をしていた。僕への独占欲があるのは知っている。それは相手がイルカであっても、変わりはしないようだ。何とも言えない心地で、胸の底がくすぐったくなる。

 まだ、慣れないこともあるし、困ったことでもあった。けれど、蓮月さんに……恋人に独占欲を抱いてもらえるのは、決して悪くない。


「蓮月さんだって、別ものでしょう?」

「アンとは違うもんね」

「恋人なんだから、当たり前じゃないですか」


 直截に告げれば、蓮月さんは頬を染める。僕をからかって主導権を握ることの多い蓮月さんだけれど、僕からの口撃には弱いらしい。攻守が入れ替わると、途端に可愛らしい態度に変わる。

 照れくさそうに笑う蓮月さんが眩しくて目を細めた。


「碧くんは思ったよりも、口がうまいよねぇ」

「何ですか。人をタラシみたいに言わないでくださいよ」

「だって、たらされてるなぁと思うもん」

「蓮月さんをたらさなきゃ、誰をたらすんですか」

「アンとか?」

「妬かないでよ」


 はっきりと口に出せば、蓮月さんは頬を染めたまま唇を尖らせる。キュートな横顔に、胸がいっぱいになった。

 隣を歩くその手を握りしめる。蓮月さんは小さく僕を見上げて、指先を絡めてきた。その指先を捕まえて、組み上げる。恋人繋ぎになった手のひらの熱が肌に広がった。


「ズルいよね、碧くんは」

「何ですか、いきなり」

「敬語が崩れるだけでもドキッとするんだもん。計算?」

「そんなつもりありませんよ。蓮月さんは、僕のことを探り過ぎじゃありませんか?」

「だって、悔しいじゃん」


 拗ねる目線が可愛い。一度その部分に嵌まってしまうと抜け出せなくなって、輪に輪をかけていく。

 蓮月さんはそんなことにも気がつかずに、可愛らしい姿を晒していた。それを横目にファミレスへと進む。

 そこからは、坩堝だった。蓮月さんと過ごす時間は、ふわふわと胸が満たしていく。アンのことに触れられなければ、気まずさもない。僕らは談話に花を咲かせて、時間を過ごした。何でもない会話が積み重なって、蓮月さんとの距離を縮めていく。和やかで幸福な時間だ。

 帰りは駅で別れる。蓮月さんの自宅まで送り届けてあげたかったが、それは蓮月さんが遠慮した。

 それまでと同じでいいのかという気持ちはある。僕としては蓮月さんの言葉を撥ね除けたってよかった。だが、交通費を考えれば、そう強情に突き進むわけにもいかない。蓮月さんの遠慮に頷いて、僕は駅までとしている。

 ただ、今までとは違って、ギリギリまでホームに一緒にいるようにしていた。改札前の待合室のベンチに座って、蓮月さんと会話を重ねる。

 バイト時間からカウントすれば、それなりの時間を一緒に過ごしていた。しかし、名残惜しいとばかりに、蓮月さんは数本電車を見送るのが、習慣になりつつある。バイトの時間が重なっていなかったり、休みのときもあったりするので、毎日ではない。ないが、それにしたって時間を惜しんでともにいようとする。

 実に付き合い始めの浮かれている期間だった。それを冷静に見つめる俯瞰視点はあったが、蓮月さんが求めるものを薙ぎ払う気は更々ない。

 それに、僕だって蓮月さんの可愛い部分を見つめ続けられるのは嬉しかった。だから、ベンチに隣同士に腰を下ろして手を繋いでいる時間は素晴らしい。

 バイト帰りのファミレスに寄り道した帰宅時間は、それなりに遅かった。僕らの利用駅は、日頃からそれほど大量の利用者がいるわけじゃない。だから、遅い時間帯にひとけはなかった。僕らは、他の場所にいるときよりも身を寄せて触れ合う。


「蓮月さん、そろそろ……」

「そうだね」


 あんまり遅くなると、駅から自宅までの徒歩が心配だ。ゆえに、僕が帰りを促すほうが早くて、蓮月さんもそれが分かっているので頷く。頷きながらも、動きは鈍い。


「気をつけて帰ってくださいね」

「毎回毎回、律儀だね碧くんは」

「蓮月さんは可愛いんだから、気をつけてくれないと困りますよ」

「……やっぱりタラシだと思うんだよね」

「僕は事実を言ってるだけです」

「そういうとこだよ」


 立ち上がって改札に近付きながら、蓮月さんが苦笑する。そんなふうに言われることだろうか、と僕も苦笑するしかなかった。言葉を惜しんでいいことはひとつもないはずだ。


「じゃあ、また明日ね」

「はい。おやすみなさい」

「おやすみ」


 ふわりと微笑む顔を捉えながら、さっと周囲に目を走らせる。ひとけはない。ちょうど柱の陰に入っている。そういう状況をしかと確認したうえで、僕は蓮月さんに近付いて顔を寄せた。音すら鳴らないような、微かに触れ合うようなキスに蓮月さんが頬を染める。これ以上は時間を引っ張れないと、僕はそんな蓮月さんの手を離した。


「キザ」


 まるで八つ当たりみたいな照れ隠しを零した蓮月さんが僕の腕を緩く叩いてから、改札へと入っていく。最後にこちらを振り返って、手を振った。それに応えて、後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

 そうして、僕らの一日が終わる。また時間が流れれば、そばにいる時間に変化は訪れるのかもしれない。けれど、今はこうして近付いていくことに無上の喜びを感じていた。

 穏やかな日々だ。

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