第三話

「江口くん、ようやく落ち着いたよね」


 僕が蓮月さんと付き合い初めて二週間ほど経とうとしたころ、榎田さんから不意に零された。僕はぱちくりと榎田さんを見上げる。講義の後に声をかけてくるのは、榎田さんのいつもだった。僕の様子を見て声をかけてくれているようだ。


「二週間前? くらいまではなんかふわふわしてたでしょ?」

「……そうだね」


 否定はできなくて、微苦笑で頷く。それに、否定したところで、榎田さんには筒抜けだろう。僕の不審さはすぐにバレてしまうのだ。


「徹夜でイチャイチャしてた日からなんか変だったよね」

「だから、そうじゃなかったって否定したよな?」


 榎田さんの中では、あの日僕は女性と濃厚な一夜を過ごしたと確定しているらしい。どんなに言っても揺らがないものだから、ほとほと困っている。そんなところで不動の精神を発揮しないで欲しかった。


「でも、変だったのはそれくらいからだよね」

「……まぁ、そうかもしれないけどさ」

「もう心配事はなくなったの?」

「なくなったわけじゃないけど、諦めがついたって感じかな」

「ワンナイトからの失恋?」

「榎田さんの中で、僕はどんな経験をしてるの?」


 大層な恋愛をしている。まとめてしまえばそれで済むが、ひとつひとつを検分すると、何やらとんでもない奔放な恋をしているように聞こえた。

 榎田さんは、面白そうに笑う。


「そわそわして仕方がないくらい落ち着きのない恋愛に身をやつしているもんだと思ってる」

「すべての原因を恋に収束させないでよ」

「だって、そうなんじゃないの?」

「違うって言ってるでしょ。榎田さんは恋バナ好きなの?」

「大好きだよ」


 にっこりと微笑んで告げられる言葉は、別のタイミングで聞きたかった。好きなことは自由だし、榎田さんが楽しいのならばそれはそれでいい。だが、その大好きを僕に振りかざしてぶん殴りにくるのであれば話は別だ。


「僕には適用しないで」

「じゃあ、一体何があったの? 諦めるようなことって何? お金なんかは諦めるってわけにはいかないでしょ? 大丈夫?」


 次々に繰り出される疑問には面食らう。どうやら、本気で心配してくれているようだ。


「大丈夫。落ち着いて見えるんでしょ?」

「そりゃ、諦めて落ち着けるんならいいのかもしれないけど、それにしたって不安定な時間長かったじゃん」

「そうかな? 二週間くらい、誰だってあるでしょ」

「そうかもしれないけど、普通じゃなかったよ?」


 榎田さんの探りは至極真っ当だろう。こんなにも心を砕いてくれることは、ひどくありがたい。けれど、どうにも尻こそばゆくてならなかった。


「普通じゃないのに二週間で復活したなら上等じゃない? 本当に大丈夫だよ」

「じゃあ、彼女と仲良くしてるんだね?」

「おい」


 それは悪ふざけだと分かるから、僕も軽やかに突っ込むに留めた。きっと、元の装いに戻してくれたのだろう。


「違った?」

「いや、もうそれでいいよ」


 実はそう間違っていないので、僕は適当な相槌を打った。榎田さんもこんな粗雑な態度が真実だと気付きはしないだろう。

 まぁ、気付こうと気付くまいと構わない。その辺りの判断は、榎田さんに全任せする。榎田さんは確かに僕へ直接冗談をぶつけてはくるけれど、よそで噂を流したりしないので、任せてしまっても構わない。それくらいの信用はあった。


「よかったねぇ、江口くん。ところで、私へのおごりは忘れてないよね?」

「あれからノートは借りてないし、すぐにおごったじゃん」

「ふわふわしてたときに起こしてあげたでしょ」

「あれもカウントされるのかぁ……」

「食堂でいいよ」

「ちゃっかりしすぎじゃない?」

「しっかりしてるって言ってよ。相談してくれたっていいんだよ?」


 ぼかしてくれたと思っていたが、どうやらすべてを流しきってくれたわけじゃないらしい。ただ、気遣ってくれていることだ。ありがたいことだろう。


「じゃあ、昼食の間だけ」

「お、素直じゃん」


 僕のことを何だと思っているのか。苦笑が苦りきる。

 軽々と進んでいく榎田さんの後を追って、食堂に向かった。僕はきつねうどんで、榎田さんは唐揚げ定食を注文して、席へ向かう。込んでいる食堂の隙間を縫って、二人分の席をどうにか確保した。


 向かい合って座ると、榎田さんは


「それで?」


 と枕も何もなく切り出した。


「知り合った子と連絡が取れなくなったんだよね」


 詳細を話すと、それこそ恋バナになりかねない。榎田さんを喜ばせて大変な事態にはしたくないので、ざっくりとした報告になった。相談としては不足しかないだろう。


「それ、諦めて大丈夫なの?」

「連絡先も分からないし、どうしようもないんだよ」

「共通の知り合いとかはいないの?」

「共通の知り合いも何も知らないんだ」

「手がかりゼロなの?」

「あったら掴んでる」


 それくらいまともに探したつもりだ。僕は時間が許す限り、彼女の情報を仕入れようと試みた。蓮月さんが遠慮するくらいには一心不乱だっただろう。


「そんなに真剣に探してたんだ? それでも見つからないって何? どんな子なの?」

「銀灰色の髪の女の子。中三か高一か……そのくらいの」

「……手を出したわけじゃないよね?」

「そこから離れてくれ」


 今回の榎田さんの杞憂は、本気混じりだ。確かに、要素だけを切り取られると、不安になるのも分かる。僕も真面目に返事をした。


「そっか。でも、銀灰色って目立つよね? 目撃談少しもなかったわけ?」

「別れた時間が遅かったってのもある」

「そんな時間まで年下の女の子を連れ回すのは大学生として褒められないと思うけど?」

「……すまん。事情があったんだよ」


 この辺りを仔細にすると、蓮月さんの話をしなければならない。それはまた面倒な手続きが増えそうで、僕はその辺りの事情をぼやかした。


「それにしても、交通機関を使えば目撃談ももっとあるもんじゃない?」

「多分、使わなかったんじゃないかと思う」


 ここは予測ではなく確定だ。彼女はお金を持っていなかった。けれど、所持金のない少女を連れ回したというのは、更に謝罪をする案件になってしまう。逃げ道を選んでしまったのも仕方がないだろう。


「それで手がかりゼロで心配してたってこと?」

「要約すれば。けど、心配し続けててもどうにもならないから、あれは一時の邂逅だったんだろうって割り切ることにした」


 榎田さんはもぐもぐと唐揚げを咀嚼しながら、僕の声を聞いていた。ここまでと違って、何かを吟味するような態度に疑問を抱く。

 しかし、僕が話せるのはこのくらいだ。後は榎田さんの返事を待つしかないので、おとなしくうどんを啜っていた。榎田さんはしばしその沈黙を味わうかのように食事を進める。

 そんな時間は、ほんの数分にも満たなかったはずだ。しかし、どこかで死刑宣告を受けるような深刻な心持ちにさせられた。自分が何を恐れているのかも分からない。それは、第六感と呼ぶべきものだったのだろう。


「本当に割り切れてる?」


 心臓の底の底。自分でも考えてなかったような部分を、ざらりと触られたような気がした。僕は思わず、麺を啜る手を止める。


「どうして?」


 なんとか切り返すことはできたが、じんわりとした衝動が身体中に広がっていた。


「あえて淡々としようとしていない?」


 底抜けに真っ直ぐに突かれた部分が痺れる。

 榎田さんと僕は、雑談を交わすことがあるが、それだけだ。お互いの心境を推察できるほどの深さはない。

 けれど、だからこそ目を向けている部分がある。万能ではないだろう。ときにそれは、勘でしかないのかもしれない。しかし、今その力は十分に発揮されていた。

 ずどんと胃が重くなる。


「いや。そりゃね、割り切ったって言って本当に割り切れる人もいるけど、江口くんはそんな感じしないし……無理やりって言うか、ああ、でも、諦めてるってそういうこと?」


 榎田さんは、この辺りの勘が優れているらしい。感度が高いのだろう。僕自身、気がついていなかったところを指摘されて、衝撃を受けた。


「……そうかもしれない」


 伴った自覚を認める声は、自分で思った以上に悄然と響く。榎田さんも、そこまで図星を突いたとは思わなかったのか。気まずそうな顔になった。


「それでいいの?」


 榎田さんは容赦がないらしい。

 胸の中がぐるりと引っ搔き回されるような気がした。その動乱が苦しい。蓮月さんへの罪悪感が滲む。よくない、と咄嗟に浮かび上がった反駁は本心でしかない。それが分かっているから、蓮月さんに後ろめたいのだ。

 僕にはもう、恋人がいる。いなくなってしまった彼女の幻影をずっと追っているわけにはいかない。

 そこまで考えて、合点がいった。割り切っている。諦めている。だって、そうしなければ、蓮月さんに申し訳が立たないから。

 自分の行動原理に気がついて、僕はぐっと喉を引き締めるように黙り込んでしまった。


「何かあるの? その子のことを忘れられるようなことが」


 忘れられるようなこと。

 榎田さんの言い方は、優しい。意図したものではないだろうが、優しいと感じた。僕の心情としては逆だ。忘れられるようなことがあるのではなく、忘れられるようにしようという心運びであるような気がした。

 こんなものは蓮月さんに対して不誠実極まりない。突きつけられた現実に、胸が痛む。だからといって、蓮月さんと過ごしてきた日々が嘘というわけではない。


「探すの手伝おうか?」

「いや、きっと無理だよ」

「……諦められていないのに?」

「それでも、無理なんだよ」


 仕方のないことなのだ。確かに、僕が諦められないのが本心かもしれない。蓮月さんで気を紛らわせているのかもしれない。それでも、どんなに言っても、仕方のないという事実だけは曲がらないのだ。

 彼女の元へと辿り着くまでの道筋など、ひとつも残っていない。どこにもない。諦めるしかないではないか。


「あんまり無理して平気で居続けようとしないでね」


 榎田さんの表情が、今までで一番心配そうになった。僕は今それほど、情けない顔をしているのだろうか。

 しかし、本当にどうすることもできない。平気な態度でいようといまいと、彼女に会える道はないのだ。一時のことにすべてを取られるわけにはいかない。だから、僕は曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

 さすがの榎田さんも、それ以上募ることはできなかったようだ。同じように曖昧な笑みを浮かべて流してくれた。そして、そのままの半端な雰囲気で昼食が終わる。榎田さんと別れて次の講義へ向かった。

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