第四話

 一度、落ち着いたはずの心がぐちゃぐちゃに掻き回されているのは、間違いなく榎田さんのせいだ。いや、これは責任転嫁だろう。その根っこは自分の中に眠っていた。

 今でないにしろ、いずれ僕の前に詳らかにされたことかもしれない。きっと、表になっていただろう。だから、どんなに榎田さんのせいにしようとしたところで無駄な足掻きだ。僕はこの問題からは逃げきれない。

 蓮月さんへの感情に嘘はないと、きちんと想い続けているのも自己暗示なのではないかと不安になってくる。そんなことはないと言い募り過ぎるのも、またそれはそれで問題がある気がして、心が暴れまくった。

 感情の整理をどうつけたらいいのか分からない。竜巻が停滞し続けている。


「はぁ」


 零れ落ちるため息を、内に留めておく気力がなかった。ほろほろと何度でも零れ落ちる。情けないことこの上ないけれど、それを抑制する力がついてこない。

 僕はすっかり疲れ果てていた。バイトの肉体労働よりも、根こそぎ精力を奪われる。彼女のことは、ウィークポイントになってしまっていた。

 いつもなら、見上げればそれなりに癒やしを感じるはずのアンの姿が、今となってはより一層身を苦しめる。アンが優雅に泳いで、僕の目の前にやってきてくれた。いつもと同じように懐いてくれている態度に、目を細める。

 アンは僕の憂いなど知る由もなく、鼻先を僕へとぶつけるように水槽に寄ってきてくれていた。そっと水槽のガラスに手を触れて、距離に応える。


「アンはアンを知ってる?」


 そんなわけがないと思っていても、世迷い言が零れた。

 きゅいと鳴き声を出したかのように、アンのそばに気泡が浮かんだ。僕の事情を知るわけがないけれど、心配してくれているのかもしれない。

 イルカは感情に敏感であると言われている。それが人間に適用されるかはさておき、リラックス効果があるのは事実だ。感情の面に寄り添えない生物ではない。

 水族館生まれのアンには、そうした性質があってもおかしくはないだろう。僕の希望でしかないだろうけれど。それでも、アンがそうして寄り添ってくれることは、やはり多少は胸を慰めた。

 彼女がアンと同じように僕に懐いてたなんて幻想を抱いてはいない。けれど、僕の腕に縋ってくれたその感触が、ほのかに蘇る。もうそんなものはなくなったと思っていた。蓮月さんに上書きされたものだと。

 たった数分にも満たない接触を、いつまでも覚えているなんて何の冗談だろう。都合の良いように書き換えられているのではないかと自分が疑わしい。それでも、確かに感じた彼女の体温や、柔らかな膨らみの弾力感が、身体のどこかに刻印されていた。

 アンを見ていると、何故かその感触が蘇ってくる。これは完全に名前からの連想ゲームだろうけど。不思議な気持ちになるのが抑えきれずに、失笑が零れ落ちた。

 まったくもって、バカみたいな話だ。彼女をイルカのようだと感じていた影響もあるのだろう。

 思い返せば、ただの雰囲気でしかない。彼女がイルカのするような行動を取ったわけでもなんでもないのだ。それでも、あの銀灰色の髪と白いワンピースの姿は、イルカの体躯と重なって見える。僕の目がおかしいのかもしれない。

 けれど、そのせいで、アンを見ていると彼女の姿がよぎるのだ。僕は再度深いため息を零した。

 蓮月さんは今日、シフトに入っていない。それをよかったと思ってしまっている自分に幻滅する。蓮月さんへの手ひどい裏切りだ。実際に、彼女と新たに何かがあったわけではないと言うのに。

 最初っから、蓮月さんに応えてはならなかったのではないか。

 そんな根本の問題にまで心が波及していく。思った以上に深い位置に落ちた心を浮上させる方法が見当たらない。飽きるほどため息を吐きながら、アンと見つめ合う。


「じゃあな」


 それは彼女に言えればよかったはずの台詞だ。憂いもなく、さらりと柔らかく。けれど、そんなことはできないままに別れてしまった。

 一生の別れだ。

 その代わりをアンに向けていると思うと、じくじくと胸が痛む。下手をすると、蓮月さんのときよりも息苦しさを覚えて、またそれが自分を縛った。

 僕と彼女は出会うべきではなかったのではないか、と自分の行動を後悔しそうになる。だが、そんなことはないと否定する心の声は強く、おかげで僕はまたぞろ自縄自縛させられてしまうのだ。

 どこにも逃げ場がない。アンに別れを告げて、その前から離れても、アンの姿が消えることがないように。彼女の姿が瞳の裏に焼きついて、薄れていくことがない。

 水族館を出るときに、彼女が座り込んでいたひさしの部分を何度も目で確認してしまうのは、すっかり癖になっていた。

 蓮月さんがいるときは、そんなことはない。罪悪感がセーブをかけていたのか。今日は殊更に意識しているからか。その判別はとてもできそうになくて困った。

 そこは今日だって空っぽで、彼女が突然現れるなんてこともない。吐息が零れ落ちたのは、もはや無意識だ。どれだけ吐き出したところで、何ひとつ気持ちが軽くなる気はしない。それでも、無意識なものはどうしようもなかった。

 杞憂が音になることが、更に自分の体力を奪っているような気もしたが、僕には手の施しようが分からない。すっかり疲弊して、のろのろと水族館の敷地内を移動する。他のバイトは既に帰ったようだし、従業員はまだ申し送りがあるはずだ。

 敷地内にひとけはなく、僕は誰にも邪魔されることなくしょげかえっていられた。それがいいことであるとは思っていないが、他の誰かに見咎められなかったことはいい。蓮月さんに伝わることもないだろう。そんな打算が浮かんで、意気消沈だ。

 そして、そんなふうに見つかることを忌避しているから、僕は妙に周囲の気配へ意識が向いていた。それがよいことだったのか。そうでないのか。恐らく、誰にも何とも言えないだろう。僕自身、いいことだと諸手を挙げて喜ぶことはできなかった。

 それでも、確かに嬉しくて感情が掻き乱されて気持ちが悪い。間違いなく、正常とはほど遠かった。

 僕が見つけた気配は、走り去って姿を消す寸前の少女のものだ。その長い髪が、宵闇の中でも銀色に翻る。それが誰か、なんて考えるまでもなく思い込んでいた。

 そして、思った瞬間に僕は走り出していて、彼女の姿を追う。水族館へと吸い込まれていく彼女は、ごく自然にスタッフ通用口に消えようとしていた。

 なんで、という疑問や、そこは客は通れないという常識的な考えは、走りながら取り零す。……考えるまでの時間すらもなかったかもしれない。僕は疑問も常識も何もかもを取り零して、一直線に彼女の元へと駆け出していた。


「アン……ッ」


 零れた声は、あまりに切羽詰まってひび割れている。

 彼女がはっとしたように足を緩めたのを目に留めて、僕はスピードを速めてその腕を取った。彼女の体温は、腕に残っていたものと同じで、胸がじんと痺れる。

 立ち止まった彼女が、僕のことをじっと見上げた。それは彼女の癖のようなもので、それに再び相まみえたことにほっとする。しかし、彼女の顔は見たこともないほどにビックリしていた。

 そりゃ、そうだろう。どんな事情であれ、他人にこんなふうに引き止められれば驚きもする。しかも、僕は引き止めるだけで精いっぱいで、口を開くこともできずにいるのだ。


「碧」


 数秒……下手をすると一分は経過していたかもしれない。それほどの時間を要して、ようよう口を開いたのはアンだった。

 僕は未だに口が開けずに、


「ああ」


 と頷いただけの声すらも枯れ果てている。

 ろくすっぽ反応を示さない僕に、彼女はぱちくりと目を瞬く。そのつぶらな瞳は黒曜石のように輝いていた。そうして、僕らはまた呆然と見つめ合う。

 あまりにも突然のことで、頭が真っ白になっていた。

 彼女が何を持って沈黙を保っているのかは分からない。だが、彼女にとってそれは特殊なことではなかったものだから、僕も彼女の沈黙にはひとつの疑問も抱かなかった。自分が真っ白になっているという現実があるだけだ。

 僕が動かないものだから、事態はちっとも動かない。それが保たれていたのは、どれほどの時間だろう。従業員たちの移動音を耳にして、僕はようやく我に返った。我には返ったが、それでいきなり動き出せるかと言われると話は別だ。

 硬直してしまった僕の手を、彼女のほうが握ってくる。今まで手首を掴んでいた僕の手が逆転されて、引き止めていたのとは逆に僕の手を強く引いた。その勢いに乗って、ととんとたたらを踏むように前へと進む。

 彼女はそれをいいことに、僕をどんどん引き連れて、水族館の中に入っていってしまった。


「アン……」

「こっち」


 従業員たちが移動しているということは、裏も閉館してしまうということだ。黙っているわけにはいかないと開こうとした口は、移動案内で封じられる。

 セキュリティはどうなっていただろうと考える意識はあったが、熟考する余裕はなくて、僕は彼女に手を引かれていくことしかできなかった。

 彼女は、迷うことなくどこかに進んでいる。この力強さはどこからくるのだろうかと。

 そんなけりのつかないことを考えながら、僕を引き連れていく銀灰色の髪をただ眩しく見つめていた。

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