第五章

第一話

 そのまま彼女が向かったのは、館内のイルカの水槽の前だ。まるでそこに行くことが使命とばかりに、よそ見をせずに真っ直ぐに突き進む。

 僕は困惑しながらも、その導きに従って水槽に辿り着いた。そうして見上げてみるが、アンの姿が見当たらない。常に全員が泳ぎ回っていて観察できるわけではないから、そういうこともあるだろう。

 だが、最初に思ったことはアンがいないということだった。

 目を巡らせる僕を、彼女がじっと見つめていた。それに気がついて、改めて彼女の姿を視界の中心に置く。その姿は、一ヶ月前と変わりがない。無事でよかった。


「……元気だった?」

「うん。碧は?」


 彼女に他意はないだろう。ごく自然に切り返されて、僕は口ごもってしまった。ここのところは落ち着いていたが、今日また気ぜわしい心理状態に戻ったばかりだ。憂いなく頷くには、問題があり過ぎた。

 彼女はそれに気がついて、目を眇める。一ヶ月前よりも、感情が表に出やすくなったような気がした。だが、それが正確に見極められているのかどうかは自信がない。たった一ヶ月だが、ともにいた時間はずっと短いのだ。彼女の仕草に確信を持てる理由はなかった。


「元気じゃなかった?」

「心配してた」

「……わたし?」


 きょとんと首を傾げられる。銀灰色が独特の薄い照明の中で揺れ動いた。海の青色を反射して、鮮やかな色味が際立って見える。それともこれは、一ヶ月ぶりに彼女を見た僕の欲目だろうか。


「そうだよ。あの日、出て行っちゃったから」

「だって、あの子が強く言うから」


 彼女にしては珍しく、厳しい顔で蓮月さんを断じる。むっと不貞腐れたような顔は初めて見るもので、新鮮味を感じた。


「だからって、あんな時間に一人で外に出て行くのは危険でしょ? 大丈夫だったからいいけど、アンは可愛い女の子なんだから、気をつけないといけないよ」

「……大丈夫」


 どこから得られる確信なのか分からないが、彼女は明言してくる。自分の表情が険しく歪んだのが分かった。


「どうしてそう言い切れるの」


 注意したほうがいいという気持ちが低音になる。

 思った以上に低い声が出て、彼女は困ったように眉を下げた。寂しそうな顔に、胸が軋む。それから、彼女は迷うように目線を逸らした。それは、彼女にしては稀有な仕草で、こっちがまじまじと見つめてしまう。

 彼女はそのまま床を見下ろす。リノリウムの床を見つめる瞳は、愁いを含んでいるように見えた。注意がそこまで彼女を追い詰めている理由が分からない。僕は混乱しながら彼女の姿を見つめる。


「イルカ、だから」


 その響きはひどく心許なく、そして意味が分からなかった。

 僕は悄然と彼女を見つめ続ける。

 確かに、彼女はイルカのようだと思っていた。だが、それにしたってイルカだなんて意味が分からない。当惑している僕をよそに、彼女は完全に俯いてしまった。

 そのままふらふらと水槽へと近付いていく。水色と青の光の中に入り込んで、ゆらゆらと揺れる。僕に背を向けて、水槽の中に飛び込んでしまったような情景は、アンの灰色の体躯がそこにあるかのような錯覚に陥らせた。

 イルカ、と彼女がたった今発言したことが脳内の中心にでんと居座る。


「アン?」

「うん」


 彼女が頷いた。それだけが、すべてだった。

 常識なんてものをすべて取っ払って、何もかもを後に回して、僕は彼女がアンなのだとしがらみなく納得してしまう。

 頭の片隅では、そんなことあるわけがないと叫ぶ常識があった。けれど、そんなものは現象を前にして一体何の役に立つというのか。

 彼女が何かアンと同一である仕草を見せたわけではない。けれど、僕には分かる。彼女の非常識な疑問がすべて解けていく。

 そうして、彼女とアンの姿がひとつに重なり合った。


「そうか」

「うん」


 彼女は相槌を打ってばかりだ。下手に言い募ってこないことが、より真実味を増す。

 僕も多くの言葉を持たない。それは、混乱もあるし、言葉が見つからないこともある。僕はそっとアンのそばへと移動した。隣に並んで水槽を見上げていると、いつもアンとそうしているのと同じ癒やしを感じる。


「……アンはどうしてここにいるの?」

「満月の夜を挟んで三日間だけ、人間になれるの」

「ずっとそうだったの?」

「ううん。急にそうなった」

「それは……恐ろしくないの?」

「わたしたちの種族は年齢で、そうなるんだって、言ってた」

「そんなことがあるのか」

「普通は、なれるだけで、なろうとしない」

「アンはどうしてなってみたの? なってみたかった?」

「碧と話してみたかった」


 僕はぱちくりと目を瞬いて、アンを見下ろす。こちらを見上げてくるアンの泣きぼくろは、目元の灰色の色味が強い部分の現れなのかもしれない。


「僕?」

「うん」


 端的な理由に、端的な相槌。圧倒的に明白な経緯は、邪推する余地を残さない。僕のために、という感嘆で胸がいっぱいになった。

 そっと頭に触れて見ると、確かな温もりがある。幻ではなく、そしてイルカであるという。するっと撫でると、指の隙間を抜けていく髪の毛は、アンの肌に触れていると同じような感触があった。これは僕の色眼鏡であるのかもしれないけれど。


「身体に不調はないの?」

「分からない。三日だけだから、よく分からない」

「ああ、だから見つからなかったんだな」


 僕はもう勝手に辻褄を合わせていた。消息不明の理由が腑に落ちる。事実、そうであったのだろう。アンはこくんと頷いた。それから、はっとしたように僕を見上げる。


「探した?」

「探したよ」

「……あの人は?」

「一緒に探してくれた」

「……付き合ってるんでしょ?」

「なんで」


 驚いてぽろっと零してしまったのは、失態だっただろう。

 隠し通しておくのも問題があるが、だからといってすべてを話す必要があるかも微妙なものだ。アンと何らかの関係があるわけではないのだから。

 アンはすぐに答えなかったが、その瞳が水槽へと戻った。そういえば、と思い返す。僕が蓮月さんに答えたのは、ここだ。


「見てたのか」

「口が読めるから」

「みんなできるのか?」

「ううん。わたしは興味があったから」

「それで、知ってるんだな」

「うん」


 アンはそう頷いて、そのまま俯いてしまう。銀灰色の髪が垂れて、横顔が隠れた。ただでさえ読めない表情が、まったく読めなくなってしまう。

 ……どう考えているのだろうか。

 僕と蓮月さんとの接触に、アンは牽制じみたことをしていた。二人は口論していたほどだ。仲違いをして別れたのだから、快くはないだろう。

 その子と付き合い始めた。僕のことをどう思うだろうか。イルカとして、そうした思考回路は備わっているのだろうか。何ひとつ読めないことがじれったい。

 かといって、自らそんな自惚れた問いかけをできそうにはなかった。僕はそこまで蛮勇を持っていない。


「……好き?」


 しばしの沈黙を破って、アンがぽそりと零す。話すときには僕を見てくれていたいつもの態度が崩れた。


「……そうだね」


 違うと答えることはできない。しかし、どこかで負い目が湧き上がる。

 それは、蓮月さんに対するものではない。アンに嘘をついてしまったような心苦しさだ。そして、そうであることが蓮月さんへの裏切りに思えて、二重に僕を縛り付ける。

 どこにもいけないような気がした。


「いい子?」


 アンが何を聞きたいのかは分からない。水槽を見上げたままの横顔は、水面の波を反射して揺らめいていた。幻想的な輪郭は、儚く消え去っていきそうだ。

 思わず手を伸ばして、その頬に触れる。アンはぴくりと肩を揺らして、こちらを見た。艶々とした瞳が僕を引き寄せてやまない。じっと交じり合う視線が絡んで、雁字搦めになる。


「……あの子じゃないよ?」


 何を感じたのかは、分からない。第六感だろうか。しかし、アンの勘はあながち間違いではなかった。


「分かってるよ」


 そう答えた声が空々しい。アンにもそれは通じただろう。僕らの意思疎通は、思ったよりもスムーズだ。それが行間に頼ったものであっても、不手際は感じなかった。

 アンは困ったように眉を下げる。憂いを帯びた表情が、僕の心臓を揺さぶった。


「アン」


 頬に触れていた指先で、唇をなぞる。しっとりとした潤いが指先を温めた。その温もりは、アンの身体に触れたとき。頬にキスを受けるそのときの感触によく似ている。

 ……いや、似ているのではなく、そうなのだろう。

 僕はこの唇を知っているのだ。


「碧、あの人」


 僕はそれ以上の言葉を聞かずに、その唇を塞ぐ。

 勢い任せのそれは、ちゅっとリップ音を奏でた。一度重ねて離す。アンは潤んだ瞳で僕を見ていた。二度目は、どちらから重ねたのか定かではない。

 僕は手のひらを後頭部とうなじの間に回して、より深く唇を合わせた。背中にアンの手のひらが回ってきて、シャツを引く。もう一方の手でアンの腰を捕まえて、唇に吸い付いた。くちゅりと鳴った水音に導かれるように、唇を舐めて舌先を捻じ込む。


「きゅい」


 その狭間。アンの唇から漏れたイルカの鳴き声のような嬌声に、ぐずりと背骨を蕩けさせられる。

 歯列をなぞり、上顎を擦り上げ、舌先を捕まえて絡ませた。口内から頭蓋に響くアンの唾液の音が、更なる興奮を煽る。

 そのまま、アンを水槽のガラスに押し付けて、ぐちぐちと舌を食んだ。アンは抵抗せずに、それどころか僕の背中を掴む手のひらに力がこもる。僕はぐっと身体を寄せた。ガラスから盛れる水色の光が僕らを包み込む。

 足が絡まって、腰がぶつかるほどに貪り合った。

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