第二話

 一時の興奮に身を任せて息を整えた僕らは、館内のベンチに腰を下ろした。僕らの間は、手のひらの指と指で重なっている。言葉はない。ただ、そうして夜の水族館に身を委ねていた。

 人が来ないのは、何か不思議な力でも作用しているのか。それとも、もう引き上げてしまったのか。夜勤している人もいるはずだが、僕らの邪魔をするものはいなかった。

 僕らは時々、意味もなく指先を叩き合う。言葉を乗せているのか。ただの気まぐれな指遊びなのか。そんなことはどうでもよかった。ただ、今だけ。一夜の夢のように、繋がっていることを確かめられれば、他のどんな手段であろうと構わなかった。

 アンとの時間を共有している。そのことが真実、重要であったのだ。僕はそれだけで胸を満たしていた。

 蓮月さんのことを忘れ去っていたわけじゃない。だが、アンとこうして触れ合えるのは、今しかなかった。この機を逃せば、一ヶ月後になる。

 同じ時間、アンを探し続けていた。その時間が途方もなく長い時間だと、僕はもう知っている。そして、それが大袈裟に過ぎないことも。

 一ヶ月なんて、何もなければあっという間だ。そこに思い煩うという現象がついて初めて、時間経過の感覚がおかしくなる。だからこそ、僕は今のアンと少しでも深く繋がっていたかった。

 だが、僕らにできるのはこの程度だろう。それ以上の深い交わりは、生物的に問題があるかもしれない。僕はそのせいで、アンが損なわれるようなことは望まなかった。それよりは、自分の願いを叶えることの重要度は低下する。

 アンがアンであることを根底において、僕らは手を繋いでいた。絡み合う指先が愛おしくてたまらない。

 今だけは、蓮月さんの姿が遠のく。蓮月さんとだって、手を繋いでいるしキスもしている。やることはやっているけれど、そんなことよりも、ずっと深く繋がっているような気持ちになった。

 どういう錯覚なのだろう。しかし、錯覚でも気持ちが良すぎて逃げられない。アンが同じように思っているかどうかは分からないけれど、それでも構わなかった。とにかく、この時間が続けばいいという願いだけが燦然と輝いている。


「碧」


 停滞したような時間に揺蕩うような空気を壊さない呼びかけは、僕の中にじんわりと溶け込んでくる。


「何だ?」


 せっかくの時間を崩さないように。けれど、言葉を交わすのは素晴らしい提案で、僕もそれに乗る。


「妹さん? は元気?」


 彼女に妹の存在など伝えてはいない。電話の相手がそうだとは教えていなかった。だから、やっぱり彼女がアンでなければ分からないのだ。夏海は昔、僕と一緒にここに来ていたのだから、アンなら夏海のことを知っている。


「夏海?」

「多分、そう」

「元気だよ。構ってほしがって、困ったところもあるけどね」

「昔もそうだった」

「そうだったか?」

「わたしのそばに来たがった碧をよく引き止めたりしていた」


 そうして振り返ってみれば、確かにその通りだった。

 夏海が甘えん坊なのは昔からだ。むしろ、年頃になって多少はおとなしくなったほうだろう。おとなしくなってもなお、散々振り回されているのだから、たまったものではないのだけれど。


「なつみ、いい響きだね」

「夏の海って書くんだ」

「書く……漢字とかいうやつ?」

「文字は読めない?」

「うん。文字だってのは分かるけど、読めない」

「そうか。夏の海の意味は分かる?」

「きれいだね。キラキラしてそう」

「夏生まれなんだよ。だから、夏海。いい名前だよな」

「碧もきれい」


 名前について、いちいち言及されることは少ない。少なくとも、僕は初めて言われる。

 瞬きながらアンを見ると、アンもこちらを見ていた。じっとこちらを観察する癖は、元に戻ったようだ。少しの躊躇もない。その平常が現れていることに癒やされる。


「そうかな?」

「青いのはいい。海の色」

「僕の碧は緑だよ」

「あおいのに??」


 きょとんと首を傾げるあどけなさに目を細めた。疑問を口にする幼さは、可愛さに変換されて胸に迫る。僕はあまりにもチョロいのではないだろうか。


「エメラルドグリーンって分かる?」

「海の色の言い方?」


 それが本当に海の色だと分かっているわけではなさそうな、戸惑い混じりの回答だった。それもそうだ。水族館の海水は、確かに海のものではあるけれど、アンは本当の海を知らない。水槽に囲まれた海の中で生きている。


「そうだね。青みがかった緑って感じかな?」

「……この色と違う?」


 アンは首を傾げながら、前面にある水槽を見上げた。

 月夜に照らされたイルカの水槽は、青色に輝いている。エメラルドグリーンとはまた違う黄味がかった夜の海。僕だって、色の違いが鮮明に分かるわけではないけれど、これがイメージと違うことは分かる。

 しかし、だからといって、どう説明すればアンに伝えられるのかは分からない。色の説明なんて、今までしたことがなかった。僕らは普段、色味が通じることを前提として会話していることに気がつく。

 どうしたものかと迷いに迷って、僕はポケットからスマホを取り出した。色味を検索して、アンの前に差し出す。

 一ヶ月前と同じように、目新しいものを目にする興味津々な顔色で、横から覗き込んできた。肩同士がぶつかって、柔らかな香りが鼻先をくすぐる。


「これがエメラルドグリーンだよ」

「写真集にあった」

「ああ……そうだったね。ああいう海の色だ」

「碧が好きな海の色?」

「そうかもしれない。でも、この水槽の青色も好きだよ。アンが泳いでいると、とっても気持ちよさそうだ」


 すいすいと水中を自由自在に泳ぐ。そりゃ、水生生物だと言ってしまえばそれまでだ。だが、それでもやはり、あの泳ぎは美しくて、どれくらいだってアンを見ていられる。飽きることはない。アンは僕のそばに寄ったまま、水槽を見上げた。


「気持ちいい……?」

「アンにとっては普通のことかな」

「碧が陸をすいすい歩くのと一緒」

「なるほど」


 確かにそれは、気持ちいいだとかそういうことを考えるものではないかもしれない。日常行為だ。


「でも、碧のところまで泳ぐのは好き」


 そういうアンがじゃれるように肩口に頭を寄せてくる。それはイルカの姿で手のひらに身を寄せてくるのと同じことだろう。それが人型で行われると、途端に生々しさが増した。こちらからもその頭に頬ずりをする。


「僕のところに来てくれるアンは、いつもよりずっと可愛いよ」

「碧は撫でるのも上手」


 そんなふうに言われると調子に乗ってしまうのも仕方がない。僕は繋いでいた手を離して、アンの腰に腕を回した。腰骨に指を引っかけるように撫でると、ぴくりと震えたアンがこちらを見上げる。


「いやらしい触り方」


 イルカにもその判断力はあるのか、と苦笑いが零れた。僕は素知らぬ顔で、こちらを見上げたアンの顔と額を合わせる。


「問題があるか?」

「あるでしょ?」

「言うなよ」


 そろりと囁いてしまった自分の非道さに、苦味が広がる。

 蓮月さんのことを思い出させないで欲しい、とひどい言い分が胸中に浮かんでしまった。

 アンもそれを察しているのだろう。それ以上、何も言い募ることはなく、ぐりぐりと額を押し付けてきた。意図を掴むことはできないが、愛おしい仕草である。


「言って欲しくないなら、やり方があるでしょ?」

「口が達者になったな?」

「学んでいるから」

「賢いな、アンは」

「碧のことなら、もっと知りたい」


 ねだるように言われて、目を細めた。


「何が知りたい?」

「何でも」

「それは大変だな」


 僕らには時間がない。アンと会話を交わせるのは朝までなのだ。今日だけでないにしたって、語りきれるものではない。そうでなくたって、人と人とが分かり合うには時間がかかる。僕らは更に、人間とイルカだ。語り合うにしたって、どれほどを伝えればいいのかまるで見当もつかない。


「難しい?」

「どれだけ伝えればいいのか分からないよ」

「じゃあ、教えて?」


 額を合わせたまま、瞳がこちらを見上げてくる。完璧な上目遣いだ。伝えると教えるの違いは何か。それは考えるまでもなく結びついていた。

 本当であれば、こっちだって聞きたいことは山のようにある。だって、そうだろう。どうやって人間になっているのか。条件や禁忌。何もかもを詳らかにしたい。それだって、重要なことだ。

 けれど、それよりも、今はもっと刹那的な繋がりのほうが大事だった。先のことを思えば、もったいない時間の使い方をしていると自覚している。けれど、眼前に吊り下げられた甘味を退けられるものではない。


「問題があったんじゃなかったのか?」


 ここには、本当に誰もいなかった。気配もない。たった二人の空間だ。誰に憚る必要もないというのに、囁いた声は夜陰に消えてしまいそうなほどの小声だった。


「今だけ」


 それは間違えようのないことだ。僕もアンも、分かっている。

 満月の夜。その前後の三日間だけ。一ヶ月にそれだけしか会えない。そして、僕らは決して混じり合わない異種族だ。

 今だけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。ワンナイト、と嘯いていた榎田さんの言葉が蘇って、微苦笑が心に浮かんだ。

 ただ、それすらも、僕の自制を取り戻す一助にはならない。浮かんだ蓮月さんの顔だって、アンの表情に塗り潰されていく。

 卑劣だと、非道だと、倫理観が欠如していると、何を言われても仕方がない。そして、その誹りを受けると分かっていても、僕の手綱は放れていた。

 ……本当にどうしようもない。僕はアンには敵わない。アンを好きであることは、アンが生まれたそのときから揺らがないのだから。


「あおい」


 ほろりと零された音は蕩けていて、それに塗れた脳漿が溶ける。緩く顔を近付けただけで、唇が触れ合った。


「アン」


 自分の声が砂糖をまぶしたかのように甘ったるいのが反響で分かる。それでも、こっぱずかしさに我に返ることはなかった。

 再度、唇を啄めば、アンからの返しがある。それは、普段挨拶のようにキスしてくれるアンのものだ。そう思うと、喜色が胸を満たしてたまらなくなる。そこからはもう、雪崩のように転がった。

 一夜の夢だ。

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