第三話
翌朝。アンが戻ると言うまで、僕は彼女のそばにいた。離れることなど到底できず、その肌に触れて、存在を確かめる。アンも何も言わずに僕に寄り添って、最後に口付けを寄越した。
「好きよ、碧」
凛と響く声が別れの言葉だと分かって、胸が軋む。
「僕も好きだよ、アン」
そうして、僕らは道を違った。今月はもう三日を使っているらしい。
アンと会えるのは一ヶ月後だ。そして、会おうという約束を取り付けることもなかった。それは、分かっているからだ。僕とアンはどれだけ願っても交わらない。だからこそ、約束はしなかった。それでよいとしたのだ。
僕らは意志の確認すら行わずに、別れる。アンも同じように思っていてくれているのかも定かではない。それでもよかった。それくらいのほうが、よかったのだ。
眩しい朝日に目を眇めながら、朝露の中を歩く。眠気がじっとりとまとわりついてしょうがない。寂寥感が胸を締め付ける。それでも、どこか清々しい気持ちで朝日を浴びていた。
まるで生まれ変わったような爽快さだ。そんなものは、所詮まやかしでしかない。それは分かっていた。
僕は浮気帰りでしかないのだから。
すぐに罪悪感に押し潰されて、どうしようもなくなる。そうとしか思えなかったし、そうなるだろうと予測していた。
しかし、その日、僕はバイトに行って蓮月さんに会っても、平然とした態度を貫き通すことができてしまった。プールサイドでアンに手を伸ばして、頬にキスを受けても、そこに蓮月さんへの後ろめたさはない。
僕はついぞ根性を腐らせたのだろうか。そんなことを平然とできる性格だったとは、まるで気がついていなかった。
揉めることを好む人間はいないだろう。僕だって、ご多分に漏れない。それだと言うのに、今は意外なほど、アンと蓮月さんのことを割り切ってしまっている。
決して、僅かの後ろめたさもないわけではない。蓮月さんを裏切っている意識はきちんとある。
しかし、そこは明確な区切りがある。アンはイルカだ。そして、蓮月さんは人間で、僕は人間であれば蓮月さんを最も好ましく想っている。
だから、というのは言い訳だ。そんなことは分かりきっている。それでも、決定的な罪悪感に蝕まれて、蓮月さん相手に挙動不審になることはない。自分がこれほど図太いとは思いもしていなかった。
「碧くん。今日はどうする?」
「送りますよ」
ファミレスに行かなくたって、一緒に帰るのが定番になっている。そのルーティンから外れようとは思わなかった。
それは償いなわけでも、取り繕うためでもない。それが普段通りだから、という流れ的なものだ。どこか地に足の着いていない。自分の感覚が疑わしいような行動理念だった。
しかし、もうどこにも引き返せはしない。
蓮月さんにすべてを話すということを考えなかったのは、僕にとっては何の不思議もないことだった。自分勝手なことだろう。
けれど、一夜の過ちは、決して違えることなく、この先何があったとしても一夜の過ちでしかない。どれだけ言ったって、アンがこの条件からはみ出してくることはないのだ。蓮月さんに話す必要性が見当たらなかった。
大した言い分だ。苦笑が溢れかえる胸中は、しかし胸中に収められている。蓮月さんは僕の様子の変化に、ちらとも気がついていないようだった。
「今日も、アンと仲良くしてたね」
その指摘に零れる苦笑は、蓮月さんが思うよりもずっと深刻だ。けれど、僕がアンと仲良しなのはいつものことで、蓮月さんにとってはただの雑談であるようだった。
「掃除をするときは、いつものことですから」
「アンは本当に碧くんに懐いてるよね。どうしたら、あんなに懐いてくれるの? 前に言ったときから、私も水槽から何度も呼びかけてみたりしてるけど、離れていっちゃうよ。嫌われてるんじゃないかってくらい」
「気まぐれに動いているだけじゃないですか?」
アンの様子からすれば、恐らく近付かないようにしている気がする。特にここ一ヶ月に関しては、きっとそうだ。
だが、そんなことをわざわざ蓮月さんに伝えることはない。というよりも、たとえそう言ったとしても、ただの戯れ言としか受け取られないだろうだから、言ったところでしょうがないことだ。
「それにしたって、冷たいよ」
「蓮月さんは言うほどアンと関わりがないじゃないですか」
「あ、そういう言い方しちゃう? 私だってアンを見てるんだよ」
「見分けがついてないのに?」
「ひどいよ!」
僕の軽口に笑った蓮月さんが、二の腕の辺りを緩く叩いてきた。力の入っていないそれは、戯れだろう。本気に取ることもなく、僕も笑って流した。
なんてことのない日常のやり取りを、アンを介してやれていることに、どこかで安堵する。一応、その不安が胸にあったのだと、そのときになって自覚した。
「蓮月さんがそんなにアンに構いたがってたなんて知りませんでしたよ」
「アンのことばっかり気にしてるみたいだから」
「アンのこと?」
「……アンさんのこと?」
それは正体を知らずとも連想するものだ。同名である以上、分離することはないだ
ろう。
「どうして?」
「忘れられていないんでしょ?」
やはり、何かを感じ取ったのだろうか。そんな気配に、僕の心臓はざわざわとざわめく。
しかし、蓮月さんの表情は、どうしようもなく暗いというようには見えない。日常会話の延長線上で、取り上げただけのようだった。
……それはいずれ引きずり出されるものであったのかもしれないと、後になれば分かる。しかし、それにしてもタイミングの妙があり過ぎた。苦々しさに溺れるしかない。
「そうだとしても、どうしようもないじゃないですか」
会えるとしても、一夜であるのだから。どうしようもない。忘れられないとしても、アンと共に過ごしていく毎日は存在しない。どうしようもない。
それは僕の切実な気持ちだ。緩く目を伏せてしまったのは、その現実の悲愴が膨らんだからだった。
「だから、アンに構ってるのかと思ってた」
「それとこれとは別ですよ」
少なからず、今日以外でアンと親しくしていたことに深い意味はない。ただアンに癒やされていただけだ。今にしてみれば、彼女とアンの姿を重ねていたのだろう。
蓮月さんの観察眼は、バカにできないらしい。
「そう思っちゃうくらいには、私は気にしてるんだけど」
「……蓮月さんと一緒にいるじゃないですか」
空惚ける。自分にそんな狡猾なことができるとは想像もしなかった。それでも、やろうと思えば軽率にできてしまうものだ。それも、過不足なく。
「まぁ、そうなんだけどね~」
蓮月さんはどこか不服か不安か。そうしたものを滲ませながら、腕に縋りついてくる。僕はそれを受け入れて、蓮月さんの温もりに身を任せた。
自分から動かないことに、アンとの差を思い知らされる。人間とイルカ。その区別をしていることは明白だったが、ここまで差をつけているとは気がついていなかった。
それは、限られた時間が作用しているのだろう。アンとは、時間を惜しむほどに触れ合っていたかった。蓮月さんとは、切迫した時間の期限があるわけではない。その差が貪欲具合に影響を及ぼしているのだろう。
これはあくまでも、結果から導き出した運びでしかないけれど。概ね間違っていない気がした。
……蓮月さんと時間があると思っている自分の身勝手さは、この際脇に置こう。この先も関係を続けていくことは、僕にとって違和のないことらしい。随分と冷酷なことだ。
「何かありますか?」
「何もないよ。碧くんは今度の休み、何してる?」
何の脈絡もなく話題が飛び回る。確かに脈絡はないけれど、意図は読めた。
「何もありませんよ。デートしましょうか?」
僕の口から出たことに、意味があったのだろう。蓮月さんは、ぱっと表情を晴らした。それを見ると、こちらの心まで晴れ渡る。なんて都合の良いことか。
しかし、蓮月さんが喜ぶことが嬉しいことに嘘はないのだ。蓮月さんを喜ばせてやりたいことも嘘ではない。アンとは違う形であるのかもしれない。そこに差もあるだろう。それでも、人間での一番に気持ちを割くのは何の食い違いもなかった。
「どこに行く?」
更に言葉を重ねると、蓮月さんは僕とアンのことはすっかり脳内から抜け落ちたようだ。
その流れを狙ったわけではないが、結果的には狙ったようなものだろう。客観的に見れば、僕が嵌めたということにもなり得る。むしろ、そう見る人間のほうが多いことは確然だ。
僕はその自罰を胸に抱きながら、蓮月さんとデートの約束を取り付けた。
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