第四話
僕らの交際は、やっぱり順調である。手ひどいことではあるが。
もっと、さまざまな影響があると思っていた。僕がずっと、アンとのことを秘めて生きていけるかどうかは怪しいものだ、と。けれど、現実は予期せぬ方向に裏切られる。超然とした交際は、いつか破滅するのではと危惧を抱かせるほどだった。
僕には負い目があるものだから、破滅を考えるのも当然だろう。しかし、そうはならずに、またぞろ一ヶ月が経とうとしていた。
それは、アンとの一夜があり得る日へと近付いているということだ。それは待ち遠しくあるような、ないような。自分のことなのに、どこか判然としない。
アンが僕に懐いているのも、この一ヶ月少しも変わらなかった。その身が生物として違ったとしても、頬にキスをしてくれるアンは愛おしい。それも変わらなかった。
しかし、アンが人間となって僕の前に現れるかは定かではない。約束はないのだ。そして、アンは蓮月さんのことを気にしている様子を見せていた。ともすると、勝手に身を引くという思考は消えない。
そして、何故だかそうした憂いばかりを察してしまう榎田さんに捕まってしまった。大学は夏休みに入っていたが、諸々の理由で登校しているものは多い。
榎田さんは話していた通りに郷土研究会に入ったようで、その日僕が図書館のために向かった構内で遭遇した。
「久しぶりじゃん」
「榎田さん、焼けたね」
「健康的でしょ?」
ノースリーブから覗く肌を堂々と晒して、ウインクを寄越す。言葉通り、健康的に夏を満喫中らしい。
「旅行は順調なんだね」
「そっちは、まだ忘れられずにいるの?」
「……突然だなぁ」
図星である僕は、苦笑いをするしかなかった。榎田さんには、それで十二分に伝わったのだろう。呆れた顔で肩を竦められた。
「ままならないね」
「そうでもないよ。僕も夏休みを謳歌しているしね」
蓮月さんとデートを繰り返したし、お盆より少し前には夏海に会いに実家に帰っている。ただの帰省だったはずだが、あれはまさに夏海のためのものだった。離れていた時間を埋めるかのように、僕にまとわりついて離れなかったのだ。
おかげで、蓮月さんとの連絡も夏海に知られてしまうことになった。僕と蓮月さんが付き合っていると分かると、夏海はぶんむくれてしまって、それはもう大変だった。
機嫌を取るのに、あちこちに遊びに行かされたものだ。デートと称していたのは、蓮月さんへの対抗心だろう。まったく厄介な妹なのだけれど、妹であるがゆえに強くもでられない。
僕の妹はずっとそうなのだ。アンが覚えているくらい、夏海の性質は変わっていない。そう思うと、微笑ましさのようなもののほうが上回って、放置する気にはならなかった。
こういう些細なところで思い返すのは、アンのことだ。これもまた、昔から変わったわけではない。ただ、そこに意味が付随したというだけの話だ。その意味が他の何よりも重要であるのだけれど。けれど、それはもう僕に馴染んでしまっている。今更切り離せるわけもない。
蓮月さんとの折り合いは、当たり前のようについていた。
「意外」
「榎田さんは僕のことをローテーションなやつだと思ってない?」
「そういうわけじゃないけど、江口くんが物思いに耽ってるところばっかり見せるからじゃない?」
「見せてるつもりはないんだけど」
「だったら、やっぱりローテーションなんじゃない?」
本気ではないのかもしれないが、断言されても困る。
そりゃ、大はしゃぎするタイプじゃない。榎田さんのサークルの性質を考えれば、そこに混ざれば僕は無個性にも等しいだろう。
「ていうか、今もそんな感じだと思ったんだけど?」
「忘れられてないって?」
「そうそう」
一度外れた道に戻ってきてしまった。意図したわけではないけれど、そのまま流せてしまえば言うことはなかったと言うのに。榎田さんの手腕だとすれば、僕はきっと敵わない。
「それでいいんだよ」
開き直るように伝えると、榎田さんは小さく目を見開いた。
「進歩したの?」
「進歩というのかは分からないけど、忘れないでいようと思ってるよ」
「前向きなんだよね?」
「それは先々になってみないと分からないかもしれない」
「曖昧だなぁ」
榎田さんは一瞬見せた驚きを消して、苦い顔をする。僕自身、そう思う。
これは破れかぶれだ。先のことなんて、ひとつも分からない。刹那に想いを寄せているだけだった。
アンとのことは、そういうものだ。けれど、忘れるつもりはない。忘れられるはずもない。榎田さんへ告げたことは、何ひとつも嘘はなかった。それほど、曖昧で不透明で、幻影のようなものなのだ。
「しょうがないよ」
「それを繰り返すのは前から変わらないんだね」
「意味は変わった」
それだけは言える。榎田さんもそれは分かっているのだろう。これで終わりとばかりに話を畳んだ。
「それじゃあ、深く憂うことなく残りの夏休みも謳歌してね」
「榎田さんも楽しんで」
別れを口にすれば、榎田さんは名残惜しさなんてちらとも見せない。
蓮月さんと後ろ髪を引かれ合う別ればかりをしていると、さっぱりとした態度が心地良く思える。決して、蓮月さんとの別れが嫌いなわけではないけれど。繰り返していると、我に返る瞬間というのはある。僕らの交際も、そろそろ地に足をつける時期がきたのかもしれない。
ただ、それを僕が言い出すのは問題しかないだろう。そんなことを考えているのが邪ではあるけれど、それでも僕は主導権を蓮月さんに渡していた。
自主性を手放すつもりもないが、僕らの力関係ははっきりしている。元来なら、平等であることが望ましいのかもしれない。だが、僕らはこれでバランスが取れている。
これは何も、僕が後ろ暗さを感じているから成立している関係ではない。それよりも前から。先輩と後輩であったことが起因している。だから、自分たちに違和感はない……はずだ。
少なくとも、僕は蓮月さんに身を任せていることに、何の違和感もなかった。そうあるべきであろうとさえ思っているが、こっちは後から生まれた感情だろう。
アンのことを割り切る弊害もまったくないわけでもない。やたらと分析めいたことを考えてしまうのは、割り切るために必要な段階なのだろう。自覚はないが、何ともなしに考えてしまうのは止められなかった。常に考えているわけではないのだから、問題はないはずだ。
そうして、またそれも割り切っていた。
満月の日を挟んだ三日間。僕はそれをきちんと把握していた。
約束が確かでないと思っていたし、アンがどうするつもりなのかも分からない。しかし、それでも確認をせずにはいられなかった。そんなものはカレンダーひとつで把握できるのだから、正式に調べたと言うかどうかでは定かではないが。
だが、そうして意識を傾けてしまったことには間違いない。そして、その日、蓮月さんと帰らずに最後の清掃まで残ったのは、やはり期待からだっただろう。
僕は任された仕事を終えて、イルカの水槽へと足を運んだ。プールサイドではなく館内から見上げるほうに向かったのは、アンと過ごした場所であったからだった。
こちらのほうが、分厚いガラスを隔てることになる。それでも、アンと過ごすのであれば、このベンチで待っていることが一番に思えた。
アンがどうするのかは、アンに任せる。プールサイドに出向いてしまえば、アンの逃げ場はなくなってしまうだろう。ここにいたって、待っていることには変わりない。それでも、僅かでも距離があるのは大切だ。儀式的なものでしかないかもしれないが、僕は無条件にそれを信じていた。
アンが現れることを願っていることは事実だ。自分の心は偽れない。しかし、現れなくとも、それはそれで仕方がないという諦めもある。
この暗中模索。中途半端で矛盾した感情は、一癖も二癖もあって、飼い慣らせているとは思えない。諦めなどと思い込みながらも、心の中はじたばたしていた。それでも、僕はただ黙ってその場に居続けるだけだ。
不思議と、アン以外が現れるとは露とも思わなかった。
それは、あの日と同じだ。朝まで誰にも邪魔されずに二人きりで過ごした一夜。あのときと同じだと、何故か無意識に思っていた。
楽観的な怠慢であるだろう。けれど、僕の思考はそこを深く掘り下げることはなく、アンを待つということだけに一極集中していた。
静かな夜だ。降り注ぐ月光がゆらゆらと水中に薄い金色をちりばめている。青い水面は光を反射させて、銀にも近い鈍い光を夜の帳に走らせていた。
その中を、アン以外のイルカたちが泳いでいる。灰色の体躯が、青と黄色と銀を混ぜ合わせた水中を掻いた。アンがいないことは、どんな暗がりでも分かる。
こちらの水槽から姿が見えないからと言って、必ずしも人間になっているとは言い難い。お客さんの目から離される区画も存在している。そこにいることもあるだろう。僕と会うつもりがなければ、むしろそちらに引っ込んでいるに違いない。
だから、現れるのならば、人間の姿となってこっちに来るはずだ。
妙に勘が冴え渡っている日というものがある。今日は紛れもなくそうだと確信を持っていた。それすらも、ただの勘でしかないけれど。けれど、そういう日はあるのだ。
僕は物思いに耽りながら、水槽のきらめきを見つめていた。アンの欠片を探すように。
蓮月さんのことは、遥か遠くに追いやって。ひどい男だ。自覚なんて、いつ何時だってしている。
それでも、僕はアンから離れることはできない。ずっとそうだった。僕は幼いころからアンのことを知っている。だから、間違っていない。そんなふうに思わずにはいられなかった。
蓮月さんが後からやってきたのだ、と。本当に性悪と罵倒されても、他にどれほど侮蔑的な言葉を投げられたとしても、僕は観念するしかない。その覚悟はできている。
だから、僕はここにいるのだ。来るとも知れぬ想い人を、恋人を裏切って待っている。
ふっと自嘲めいた苦笑が零れた。どこで足を踏み外したのだろう。本当に踏み外したのだろうか。僕は初めから、そちら側にいたのではないのだろうか。
イルカと混じり合うようで混じり合えない。その隙間のような場所に、僕は初めからずっといた。
水族館が好きで、海が好きで、水生生物が好きなのは昔からだ。その始点に何がいるのかは定かではないが、その道には常にアンがいた。僕にとって、それは自然なことだ。
何の不自由があるというのか。僕がアンを待つのも何もおかしくはない。僕はその摂理に従って、水槽を見上げてただただアンを待ちわびた。
月夜の晩は更けていく。とんと現れた銀灰色の糸と、白い布。
僕は当たり前のように、その姿へと微笑みかけた。
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