エピローグ
榎田さんは尊敬できるサークルの先輩がいる研究室に進むらしい。三年にもなれば、そうした方向性も決まってくるようだ。
僕はこのまま院に進むつもりで、研究室を決めた。海洋について学ぶのは変わらない。
夏海は無事に高校へ入学して、高校生活を謳歌している。美術部に入ったようで、今はそれが楽しくて仕方がないらしい。兄離れができるようになったのは成果だろう。最初のころは、その落差に多少の寂しさを感じたりもした。しかし、慣れれば距離感は楽になったと言える。
その分、蓮月さんとの時間がなだらかに増えたのは、僥倖だ。蓮月さんは、就職活動が始まっている。忙しくしているので、直近では会う時間が減っていた。それでも、蓮月さんとの交際は大きな障壁もなく続いている。
蓮月さんがアンと僕のことをからかうのも、いつもの流れだ。それも、今年に入ってからは、頻度が減っている。それもこれも、就職活動が忙しい蓮月さんがバイトを休むことが増えたからだ。
もちろん、だからその分会っていないということではない。総合すれば、自由時間に会うことは増えたほうだろう。
何にせよ、僕と蓮月さんは極めて平和的なカップルとして、水族館の従業員たちにも知れ渡っていた。
「碧、今日は家に行ってもいい?」
「面接じゃなかった?」
二年も経てば、呼び方も口調も砕けてくるものだ。
「終わってから……ダメ?」
上目遣いで首を傾げられる。
就職活動にあたって、蓮月さんはほんの少し髪のウェーブを押さえていた。その整ったよそ行きの顔つきが、新味を感じさせて胸をくすぐる。二年の交際で慣れたものと思っていたが、それでも新鮮な気持ちになるのだから、僕の蓮月さんへの気持ちは目減りするどころか増幅しているくらいだった。
「いいですよ。待ってる」
「うん」
「先についたら、鍵使ってくださいね」
合い鍵を渡したのは数ヶ月前のことだ。今年に入って、バイトの後に一緒に帰ることが減ったので、その代わりという形で渡した。蓮月さんは法外に喜んでいて、そんなことならもっと早く渡せばよかったと思う。
それでも、鍵を使う回数はそう多くない。なので、僕は未だに使うことを進言してしまう。蓮月さんはそれを聞くと、心底嬉しそうに頬を蕩けさせた。どうにもむずがゆくて仕方がない。
「面接、頑張ってください」
「碧が応援してくれれば頑張れる」
蓮月さんがそういうときに求めているものを、僕はもう知っている。
いつかのように周囲に目を巡らせて、人目を確認した。自分の影をも利用して、蓮月さんの唇を薄く奪う。
「蓮月さんなら大丈夫ですから、いつも通りに」
すぐに離れずに、そっと耳元へ吹き込んだ。蓮月さんは時々、我に返ったように照れる。その様子を見て満足して、身を離した。
これが本当に蓮月さんの力になるのかは定かではない。けれど、蓮月さんが求めたのだから、僕は応えるだけだ。そうした力関係はたとえ何年経ったとしても変わらない。
そうして、僕は蓮月さんを見送って、自分もバイトへ向かった。今日は接客が主だ。蓮月さんの休みが増えて、相対的に僕が接客に入る時間も増えた。
清掃のほうが自分には向いていると思うが、水族館を楽しんでくれる人と触れ合えることは悪くない。そもそも、水族館が好きでなければ僕はこうはなっていないのだから、何にしたってベストポジションに変わりはなかった。
手慣れた仕事を終えて、スマホに入った蓮月さんの連絡を確認する。もう少しでつく、というメッセージはほんの数十分前に届いたばかりだ。こうなると、蓮月さんのほうが早く家につくだろう。ゆっくりしていて、と返信をして、僕は館内を歩いた。
閉館時間後まで残るときは、いつだってイルカの水槽の前へ行く。これはここ二年一度として欠かしたことのない動きだった。
蓮月さんも知っているが、これと言って不審には思っていないようだ。閉館後に館内の様子を見て回るのも、仕事のひとつだから。蓮月さんもそのひとつと思っているらしい。
加えて、蓮月さんは僕がアンを贔屓していることを知っている。だから、不審さを抱かれることはない。
そうして、僕はアンに会いに行く。彼女が僕に会いに来てくれるのも変わらない。それは、月に三回。月夜の晩も変わりがない。
水槽の前に立つと、アンはその場に優雅に泳いでやってくる。水槽越しに、鼻先をガラスに押し当てるアンの行動が愛おしい。そこに人間の姿で泳ぐアンを幻視する。
僕とアンがこうして顔を合わせているときに人が現れないのは、もはや揺るがない。この摩訶不思議な現象が何なのかは分からないままだ。けれど、それはアンが人間になれるのと同じことだった。
僕にとって大事なことは、アンがアンであるということだけだ。
さすがに、僕はガラスに口をつけるわけにはいかない。その代わり、手のひらを合わせて額を寄せる。ひんやりとしたガラスの温度の向こうに、この二年で刻まれたアンの体温が確かに存在している。
もう、アンが僕のことで何を考えているのか分からないということも少なくなった。同じように身体を寄せてくれる姿を見れば、そんなことは考えるまでもない。
僕らはそうして身を重ねる。交じり合わない二つの影は、この瞬間だけ。そして、月に三日間だけ僅かに重なる。
僕はそれを享受して、青色の世界に身を投じた。いつまでも続くことのない瞬間を、僕らは刹那的に重ねていく。
キラキラと揺らぐ水中のきらめきが、僕らに降り注いでいた。
銀の月夜に碧と白 めぐむ @megumu
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