第四章

第一話

 あれから、半月以上が経過している。彼女とは、あれ以来顔を合わせられていない。

 あの夜も彼女は見つからなかったが、それ以降も彼女が僕の前に現れることはなかった。あれだけ好きだと言っていた水族館にも現れない。連絡先だって知らないし、他に彼女を知っている人もいない。僕が彼女を追いかけられる痕跡は、何ひとつ残っていなかった。

 銀灰色の髪は目立つし、見つけやすいポイントだろうが、そんな子を見たことがあるという人は見当たらなかった。

 ……まったくいなかったわけじゃない。あの夜、所々で銀髪の少女を見たという人はいたのだ。だが、どこに向かったのか。足取りまでは掴めずに、手がかりはなくなってしまった。

 蓮月さんも気にして探してくれて、僕と一緒に街中を歩いてくれたこともあるが、彼女が見つかることはなかった。

 そうこうしているうちに、あっという間に半月が経過している。

 残念ではあるが、僕はもうほとんど諦めていた。それはそうだろう。僕と彼女の関係には、何の名もつかない。一度見失ってしまえば、もう繋がる術はなかった。

 それに、彼女のことだけにかかずらっているわけにもいかない。大学の授業も試験が近付いているし、バイトだってある。夏海との約束を果たす必要もあった。

 上の空ではあったかもしれないが、夏海との約束は無事に果たすことができて胸を撫で下ろしている。夏海の機嫌もすっかり直って、上機嫌で通話を切った。

 そんな日々に飲まれて、僕は今日もバイトに明け暮れている。仕事終わりの清掃で、ひとけのない館内を歩く。ふらっと彼女が現れてはくれないものか、という気持ちが底のほうに漂うのが消えない。

 イルカの水槽の前。プールサイド。アンに会うと、特に思い至ってしまう。同名である以上、どうしても連想が行えてしまうのだ。

 彼女はどうしているだろうか、とアンを見ながら物思いに耽っている。無事だろうか。安否の確認すらできないことがもどかしい。せめて、そのくらいは知りたかった。

 だが、どんなに思い巡らせたところで、彼女に辿り着く術はない。思いつく限りのことはしたつもりだ。けれど、僕は彼女について何も知らない。

 アンという名前が本名かさえ定かではないのだ。他に知っていることは、海や水中に興味があって、水族館が好きなこと。それだけが分かったって、探すための手がかりにはならない。この辺りの水族館はここしかないし、他県の水族館に現れるかもしれないなんて考えても埒の明かないことだ。

 せめて、最後にちゃんと挨拶ができていたならば、心持ちは違っただろう。仲違いしたのが自分であったら、たとえそこで別離の言葉をかけられていたとしても、まだ諦めもついたのかもしれない。

 しかし、僕は彼女の最後に関わることができなかった。そのことが引っかかって消えない。

 水槽を泳ぐアンのように、健やかに過ごしているだろうか。僕の彼女の最後の記憶は、僕の腕に縋りついている顔だ。細やかな声が、耳に残っている。

 それが蓮月さんへの警戒だけであることは、惜しい。突然消えてしまったとしても、いなくなるということを本人の口から聞けていたならば気持ちの持ちようが違っただろう。

 そのことには、蓮月さんも思うところがあったらしい。彼女へ言いそびれたのだろう謝罪を受けた。実際、口にすることはなかったが、決定打を与えてしまったのは蓮月さんに違いない。その辺りを鑑みれば、僕よりも蓮月さんのほうにダメージがあってもいいくらいだった。

 僕があまりにも懸命になってしまっているから、蓮月さんの心境がぼやけているような気がするけれど。とにもかくにも、蓮月さんが僕に頭を下げたのは彼女がいなくなった翌日のことだった。


「ムキになってごめんなさい」


 と。

 僕への謝罪としては、少しズレているような気もした。けれど、だからといって、撥ね除ける理由にはならない。そうした態度を取られることが不自然というわけではないのだ。

 僕はそれを受け入れて、蓮月さんのことを責めることはやめている。もちろん、端からそんなつもりはなかった。

 蓮月さんが責めたことが決定打になったかもしれない。だが、飛び出していったのは彼女の意思だ。口論だって、どちらかが一方的に責め立てていたわけではない。蓮月さんが彼女をやり込めたわけではないのだ。

 ……これは、あくまでも直前の会話から読み取れることだけではある。もしかすると、僕が聞いてない間には、より手厳しい攻撃があったりしたのかもしれない。だが、それはどんなに言ったところでどうしようもないことだ。逃亡の道を選んだのは彼女であるのだから、姿を消した理由を蓮月さんに押し付けるつもりはなかった。

 そこには強がりも存在している。

 蓮月さんに対して、どうして? という気持ちがよぎることもあった。そんなに追い詰めなくてもよかっただろう、と。その気持ちを無視することはできないし、心の底にあることは認めている。

 だが、口にすることはしなかった。それほど、無礼になるつもりはない。それに、蓮月さんは僕の探索に付き合ってくれた。

 からっきし手がかりのない五里霧中のそれに、文句も言わずに付き合ってくれる。それが、蓮月さんが自分の罪悪感を退けるための行動だとしても、実践していることが何よりも重要だ。

 そうして蓮月さんと動き回って、一週間が経ったころ。蓮月さんはようやく、あの日のことを話してくれた。

 概ね、僕が聞いていたときと口論の内容は変わらなかったらしい。二人でズルいと互いのことを牽制し合った、と。自分に構われることを俎上に上げられているので、尻こそばゆさは否めない。それを今更聞かされる身にもなって欲しかったが、状況は聞きたかった。

 そして、蓮月さんは言う。どうして、牽制し合うことになったのか、と。大元の話を切り出した。僕はその前置きで、既に気持ちの覚悟をしていたかもしれない。ごくんと生唾を飲み込んだのは、そのせいだろう。


「碧くんを取られたみたいで寂しかったの」

「……僕は蓮月さんのものじゃありません」


 その反駁は、半ば義務のようなものだった。

 僕だって、言葉の意味を理解していなかったわけじゃない。蓮月さんも、そのことを分かっているようだった。僕の言いざまに切り返してくることはなく、大元の話を続ける。蓮月さんの声は、いつもよりも大きくて上擦っていた。


「でも、仲良くしていたのは私でしょ? もっと、そばにいたいと思ってた」


 それだけで、十分に意図は伝わる。事前にそれらしき言動もあった。それを知ってなお気がつけないほど、僕は鈍感じゃない。そして、蓮月さんもそれ以上誤魔化そうという動きもなかった。それどころか、一歩も引かない。いっそ決定事項であったかのように、次の言葉を紡ぐ。


「好きだよ」

「……うん」


 そのとき僕に答えられたのは、それだけだった。というよりも、蓮月さんがすぐに言葉を重ねたのだ。


「だから、ムキになっちゃったの。でも、返事とか、そういうのはいらないから」

「え、あ」

「今はまだ、そんな気分じゃないでしょ? 碧くんが整理できたときに話してくれればそれでいいから」


 へらっと笑い混じりに告げたそれが、強がりなことくらい分かる。

 けれど、蓮月さんの言うことは的を射ていた。そのときの僕に、返事をする余裕は微塵もなかったのだ。

 一週間という期間は、長いようで短い。彼女の存在をもう大丈夫だと諦めるには、まだ時間が足りなかった。なので、僕は蓮月さんの強がりに乗っかって、返事を先延ばしにしてもらっている。

 しかし、もう半月が経とうとしていた。そろそろ、僕も彼女のことに目処をつけるべきだろう。

 たったの二日。すれ違いを含めたって三日しかいなかった相手だ。彼女が無事であるかどうかだけでも、という気持ちも、徐々に薄れてくる。

 消え去ることはないが、それでも危機感というのは持続しない。もう出会えるかも分からない相手となれば、心配はしても浅くなっていってしまうものだ。

 無情だという気持ちもある。彼女の存在を確認したいと願う気持ちもある。けれど、実際問題として、彼女と再会できるチャンスはない。どんなに思考を巡らせても、寸毫の可能性も捉えられる気がしなかった。

 潮時だろう。僕はアンのいる水槽を見上げながら、心を決める。

 蓮月さんは急かしたりしてこない。だが、きっと煩悶の日々を過ごしているはずだ。僕だって、いくら彼女のことが忘れられないとしても、蓮月さんのことを後回しにし続けていることもできない。

 本当に、潮時だ。

 そして、その覚悟が絶妙なタイミングを作り出したのか。一人きりの館内に、近付いてくる足音がある。視認できた影は、蓮月さんだ。

 告白を受けて、彼女への観念するまでの一週間。催促するようなことは何も言わなかったが、日常会話は当たり前に交わしてきた。その塩梅を難なくこなしていた蓮月さんには、尊敬しかない。

 蓮月さんは僕が見上げている水槽へ目を向けると、微苦笑を浮かべた。きっと、また彼女のことを考えていると思っているのだろう。間違ってはいない。

 けれど、それだけではないのだ。


「蓮月さん」


 呼びかけは出し抜けだっただろう。それでも、切々とした響きになってしまったものは、蓮月さんに伝わったらしい。肩が震えて、僕を見る瞳に熱が走る。僕は小さく息を整えて、蓮月さんとの距離を詰めた。蓮月さんの顔色が、真摯になっていく。


「……付き合いましょうか」


 言葉をかなり排除した自覚はあった。しかし、時間を置いたものをどう切り出せばいいのか。そんな知識はない。それに、彼女のことで後回しにしていたことだ。ちょっぴり良心の呵責があった。


「いいの?」


 蓮月さんは言葉足らずなことを責めずに、真っ直ぐに僕を見上げてくる。再確認に頷くと、ぱっと表情が晴れ渡った。薄暗い青の空間で、陽の光のように輝いている。太陽みたいに眩しい。今まで見た中で一番美しくて、目に焼きつく。


「よろしくお願いします」


 そうして手を出すと、蓮月さんの指先が応えてくれた。しっとりとした白魚のような指先の温度が馴染む。

 それから、僕と蓮月さんは緩やかに交際を開始した。

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