第五話
「ズルい」
簡潔に言い切った彼女の指先が動く。コントローラーを奪っていくのかと思ったが、その手のひらはひらりと舞って僕の腕へ止まった。きゅっと握られた握力に、心臓を素手で握り潰される。
「あなたばっかりズルい」
はっきりと繰り返す彼女の独占欲に、心音がドキドキと脈拍を崩した。
僕がそんな状態だとまるで気がついていないのか。彼女は前のめりになるように僕の腕へと近付く。背丈のわりに豊満な胸が腕にぶつかって、形を変えていた。意識しようとすればいくらでも意識できてしまうそれを、遠ざけようと努力する。
しかし、それは無駄な努力であるとでも言うかのように、彼女は遠慮なく僕の腕に縋りついてきた。その牽制は、蓮月さんの視線に対抗しているようだ。
「アンさんは昨日たっぷり遊んでもらったんでしょ? 私の番でもいいんじゃない?」
「……昨日は昨日で今日は今日」
その理屈は通るのかどうか怪しい。だが、蓮月さんの主張が正しいとも言い難かった。僕は敵対する二人に困惑を隠しきれない。
「ちょっと待ってよ」
間に挟まれている僕が声を上げれば、二人が視線をこっちに寄越す。
バチバチされているのも困るが、一心に鋭い視線に貫かれるのもなかなか厳しい。だが、彼女にむっとした表情が現れているところを初めて見たことには、どこかで感心していた。
「蓮月さんの言う通り、僕がアンに操作方法を教えるから、三人でやろう。どちらかを仲間はずれにするってことはありませんよ」
中間を取ろうとすると、当初蓮月さんが告げた内容に同意することになる。彼女はどこか不服そうな目で僕を見た。言葉がない分の迫力があって、渋面になる。
「ちゃんと教えるから、大丈夫だよ。昨日は見てるだけだったし、やってみたいんでしょ?」
こくんと頷く彼女の態度はなおも不満が拭えていない。それでも、首肯は首肯だ。僕はほっとして、今度こそコントローラーを彼女に渡す。
渋い空気をどう入れ替えたらいいものか。思考を巡らせながらゲームを再開させようとしたところで、電子音が邪魔をする。助かった、と思えたのは一瞬のことで、今日は構うと約束したことを思い直して、僕は戸惑ってしまった。電話の主が妹であることは確実なのだ。
「出ないの?」
ごく自然に蓮月さんに指摘され、僕は引きつりそうになる頬を動かして電話に出た。
スマホが置かれてあった場所の関係で、二人の間から少し離れることになる。同じ室内ではあるものの、そうして逃れられたことには多少肩の力が抜けた。
しかし、人一人分を残して並んでいる二人の姿に胃がキリキリし始める。逃れたところで何ひとつ事態が好転することはないのだと見せつけられている気分だ。
すぐに戻らなければという焦燥感が芽生えるが、物事はそう簡単には進まない。
『お兄ちゃん、今日は大丈夫だよね』
開口一番の夏海の跳ねた声に、喉が引きつる。
『約束だったでしょ?』
僕の返事を聞くよりも先に、続けざまに言い募ってくる。僕は約束を果たせそうにないことに、言葉が引っ込んでしまった。電話越しに夏海が不穏な気配を滲ませる。
「ごめん、夏海」
『嫌だよ! ズルいよ』
「ズルいって……」
僕が約束を破る理由を、夏海は予想できているのだろう。昨日と同じような状況であると決めつけて、先程蓮月さんと彼女からももたらされた文句を突きつけられた。なまじ間違っていないがだけに、どうしたものかと頭を悩ませる。
モテ期かもしれない、とふざけている場合ではなかった。
何しろ、耳元で騒ぐ夏海の声に紛れて、蓮月さんと彼女が何やら話しているのが聞こえるのだ。夏海の文句が近過ぎて、そのうえ彼女の声は淡々としているものだから、何を話しているのか明確に捉えることはできない。
しかし、とても友好的な会話を繰り広げているようには思えなかった。それは直前の会話を思い出してもそうであるし、見ている雰囲気が穏やかではない。蓮月さんの横顔は険しいのだ。それは分かりやすく危機感を募らせる。
ついついそちらへ意識が向いてしまっていると
『お兄ちゃん、聞いてるの!?』
と鼓膜を怒りが貫いた。
「ごめん」
『それは何に対する謝罪?』
「全体的に」
『やっぱり、話聞いてなかったんでしょ! そんなにお友達のことが気になるの? 可愛い妹の言い分を無視するくらい?』
「夏海と比べたりしてないよ」
『むーん』
それ以上の弁明を撥ね除けるかのように、不満の擬音で言葉が投げつけられた。きっと顔を赤くして怒っているだろうことが想像できる。
困った。こうなった夏海は、早々に許して解放してくれない。今はそんな場合ではないと言うのに。
と言っても、彼女と蓮月さんの会話に乱入して、場を収められるとも思えないのだけれど。けれど、目の前の諍いを無視することは難しい。それも、僕の占有をきっかけとしているのだ。ただの口喧嘩だと部外者でいることはできない。
だから、僕はできる限り、二人の会話に戻るべきだ。しかし、夏海を諌められるのも僕しかいない。肉体がひとつしかないことを嘆くことはままあることだが、今ほど切実なことはなかった。
「夏海、機嫌を直してよ。今度時間を取ってたくさん話すし、一緒にオンラインプレイでゲームしてもいいぞ」
『あからさまに機嫌を取ろうとして、今日のことをなかったことにしようなんて都合がいいんだからね! いつもは勉強をしなさいって言うくせに、こんなときだけゲームを取り上げるのもズルいよ』
普段は僕に懐いていて可愛い妹だ。だが、口が達者で我が儘なところがある。こうなった夏海は手に負えなくて、僕はほとほと参った。
目の前にいるときには、頭を撫でて慰めるなりすれば、聞く耳を持ってくれるチョロさがあったのだが、今はそういうわけにもいかない。こんな弊害が生まれるとは思っていなかった。
「今度、顔を見て通話しよう、夏海」
できるだけ、穏やかな声を出す。ヒートアップしてはならない。急いで畳もうとすれば、夏海の怒りを買うことは必定だ。きちんと相手をして収めなければ、余計に長引くだけだろう。内心ではとても焦っていたが、どうにか取り繕った。
『……むぅ。しょうがないなぁ』
……どっちにしろ、チョロかったことには安堵半分呆れ半分になる。これで折り合いの付け所が見つかったことには、安堵のほうがいくらか多い。
「ありがとう、夏海。今日は本当にごめんな」
『もういいよ。しょうがないもん。お兄ちゃんだって、友達付き合いあるもんね』
蓮月さんと彼女が大声で喧嘩していなくてよかったと、心底思った。
友達付き合いなのか判然としない混沌の状況が夏海に知れたら、どうなるか分かったもんじゃない。収めてくれた怒りが再燃するばかりではなく、軽々と温度を上げることだろう。そんなものは本当に僕の手に負えなくなってしまう。想像だけでぞっとした。
「ありがとう、夏海」
感謝を繰り返して、余計なことを口にしないように気を配る。夏海が気がつく可能性が少しでもなくなるように、あえて言葉を捲し立てるようなことはしなかった。
『ふん。今度の約束は破ったら許さないからね。お兄ちゃんの責務だよ』
「分かったよ。破ったら、何かプレゼントを贈るから」
『それは大袈裟で、媚びを売ってるみたいだから気をつけたほうがいいよ。お兄ちゃん』
「悪かったよ。分かった、気をつける。夏海のおかげで、兄ちゃんはしっかりできるよ」
便乗して夏海を持ち上げる。このやり方のほうがよっぽど姑息だが、今は四の五の言ってはいられない。
『分かったならよし! じゃあ、次の約束の日はメッセで送ってね。できるだけすぐだよ。友達と仲良くするのはいいけど、あたしのことも忘れちゃ嫌だからね』
「もちろ……」
言い切る前に、だんと激しい物音を立てて彼女が立ち上がる。
僕は切り上げるために電話に集中してしまっていた。そもそも、会話を聞き取ることができていたわけじゃない。どういう成り行きでそうなったのか分からなかった。
立ち上がった彼女は、そのまますらりとした身動きで外へ出て行ってしまう。
「え!?」
思わず声が飛び出た。蓮月さんは厳しい顔と気まずい顔を撹拌させた顔で僕を見る。
「悪い。夏海。ちょっと急用ができたから切るよ。約束のことは、すぐに連絡するからね」
返事を聞く前に切ってしまったので、夏海が納得してくれたかどうかは定かではない。だが、今はそんな場合じゃなかった。
「蓮月さん、何があったんですか。彼女は?」
「知らないって出て行っちゃっただけ……」
「……探してきます」
夜の十時を回っている。大学生ならば、そこまで遅い時間ではないかもしれない。けれど、彼女の年齢感では補導されるだろう。何より、夜道を一人で歩くのは危険だ。今朝の行動も心配だったが、こんな時間はとっても不安になる。
「……私も行く」
「いや、蓮月さんは待っててください。戻ってくるとは思いませんけど……、蓮月さんもこんな時間に出回るのは危ないですから」
「でも、出て行ったのは私のせいでしょ? ちょっと言い過ぎたと思う。もちろん、アンさんもそれなりに言ってきてたから、イーブンだと私は思ってるけどね」
「……すみません」
「なんで碧くんが謝るの。アンさんの代わりってのはやめてよ、寂しくなるから」
「すみません。とにかく、僕は彼女を探してきます」
「じゃあ、私は出るよ」
「いや……」
「帰るから。もしアンさんを見つけたら戻ってくるんでしょ? きっと気まずいと思うし、私がいないほうが連れ込みやすいじゃん」
「そういう言い方をしないでくださいよ」
「そうじゃなくて、アンさんが嫌がるでしょってこと。早く行こう」
「はい」
蓮月さんを追い返すつもりはてんでなかったが、解かれる内容は理解ができた。
「探すついでになりますけど、駅まで送ります」
「……うん」
微妙な間に疑問を抱きながらも、構わず玄関へと向かう。
彼女がどれほどの速度で進んでいるのかは分からない。今までの動きから見れば、それほど素早い印象はなかった。しかし、立ち上がる勢いと去っていった心理を考えれば、走っていてもおかしくはない。蓮月さんとの会話の時間も惜しかったかもしれないと後悔しながら、玄関を飛び出した。
追いかけることが主になっていることは、蓮月さんに申し訳ないとは思う。だが、彼女とは連絡手段すらない。ここにいて、連絡先も知っている蓮月さんよりも、彼女への心配のほうがずっと上回っていた。
そのまますぐに駅に到着して、蓮月さんを見送った。存分に気をつけるように、と言いつけて別れる。
何があったのかは、道中でも聞かなかった。というよりは、そのときの僕に話を聞く余裕などなかったのだ。僕は僕の家を中心に、辺りを走り回って彼女を探した。
そのまま帰っていることも考えられたが、彼女はお金を持っていない。思えば、彼女は今朝もどうやって帰ったのか。その疑問を抱きながら、徒歩の範囲を探っていく。ほとんど日付が変わるまで、僕は一切の妥協なく走り回った。
慌ててポケットに突っ込んできたスマホが何度か鳴っていたが、スルーする。彼女からでないことは明白であるから、取り合うつもりはなかった。蓮月さんよりも、夏海のほうからの連絡が多かったのは想像の範疇だ。僕はそれを翌朝に返信している。
彼女が見つかることはなく、僕は二日続けて寝不足で翌朝を迎えることになった。
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