銀の月夜に碧と白

めぐむ

第一章

第一話

 鳴り響いたチャイムに、はっと意識が叩かれた。

 午後一の講義は、眠気に負けてうとうととしていたらしい。その自覚もないままに目覚めて、夢と現実のあわいに講義が終わる。すぐに講義から解放された学生の喧騒が広がって、ようやく思考が覚醒した。

 黒板に残った文字だけでは、講義内容の推測が難しい。どうやら、かなりの時間をうとうとしていたようだ。

 しまった、と頭を掻きながら、やむなくノートを閉じる。諦め半分で落ち込んでいると、すとんと頭の上に何かが落ちてきた。目線を上げると、入れ違いになるかのように何かが離れていって、隣へと回ってくる。

 現れたのは、榎田小雪さん。

 大学生になってすぐに開催された飲み会へ顔を出した際に、連絡先を交換した女の子だ。そのときは、やけに気合いが入ったオシャレをしていた。今は素朴な女子大生になっている。擬態しているわけではないのだろうが、学内と学外で印象の違う榎田さんは、飲み会以来何かと俺に声をかけてきてくれた。

 今もまた、ひょっこりと現れて笑みを浮かべている。いつも飄然と現れるものだから、驚きは隠せない。


「寝てたでしょ?」

「ちょっと、うとうとしてたかな」

「思いっきり頭下がってたけど?」

「本当に?」


 自分でもどれくらい意識が飛んでいたのか分からない。覚醒したことを思えば、榎田さんの指摘もジョークということもなさそうだった。

 苦笑いで確認すると、榎田さんは呆れたような目を寄越す。


「本当に。ノート取れてないんじゃない?」


 腕を組んで、ことりと首を傾げる。キャラメル色のゆるふわに巻かれたセミロングの髪が揺れた。組んだ腕の一方に、シンプルな大学ノートが握られている。


「……貸してもらえますか?」

「しょうがないなぁ」


 いかにも、な誘導であったが、その申し出が助かることは間違いない。素直に貸し出しを申し入れると、榎田さんはにこりと笑ってノートを差し出してくれた。大学に入って新調したのだろうノートは、まだ新品同様だ。


「ありがとう、榎田さん」


 ありがたく手を伸ばした僕の前から、ふいっと差し出されたノートが退けられる。釣られるように手を出してしまった哀れな状態で、榎田さんを見つめた。


「交換条件がいるんじゃない?」


 したり顔で言ってくる姿はまま傲慢に見えるが、言っていることはまともだ。僕は苦笑を浮かべて、首を傾げた。


「どうしたらいい?」

「え~わたしに決めさせていいの? 本当に?」


 弾んだ声は、ひどくはしゃいでいる。その音は、いっそ嫌な予感がするほどだ。とんでもないことを申しつけられそうな気がした。


「どうしようかなぁ」


 思考を巡らせていることをわざとらしく口にする。その煽りといったらない。僕は腕を引いて、頬を引きつらせた。そんな僕の怯えを見たところで、榎田さんは態度を緩める。


「冗談だよ。でも、今度ちょっとくらい何かしてよ」

「昼一食とかでいい?」

「一緒にしてくれるならね」

「それって何かいいことある?」

「お金だけ渡してOKなんて味気ないでしょ」

「それはそうだけど……」


 榎田さんが同期の中でも注目を浴びていることは知っていた。引け目がどうのなんて言う気はないけれど、やっぱり釣り合いなんてものを考えてしまう。

 榎田さんが気にしないのならば構わない。だが、これで面倒なやっかみを受けてしまうかもしれないと巡らせるくらいには思うところがあった。

 しかし、この場では榎田さんの論が優勢だ。何も間違ったことを言っていない。僕に反駁の余地はなく、言葉を濁すことしかできなかった。そして、その曖昧さは肯定として処理されてしまったようだ。ノートを差し出してくれるのだから、僕はそれを受け取るしかなかった。


「ありがとう。今度ね」

「約束だからね」

「榎田さんの講義、どうなってるんだっけ?」

「結構埋まってるけど……江口くんは?」

「僕もそうだよ」

「サークル入ってるんだっけ?」


 お昼の一食とは関係がなくなっているが、雑談とはそういうものだろう。


「入ってないよ。榎田さんは?」

「郷土研究会が旅行サークルみたいなことやってるらしくって興味があるんだよね」

「不純だなぁ」

「テニスサークルで相手漁りたいって言うよりマシじゃない?」

「それは偏見でしょ」

「あれってどっから生まれたものなの?」

「さぁ?」


 互いに首を傾げ合う。謎の偏見なのか、どこを起点としているのかも確かでない。印象論だ。そんな無関心でいいものかと思いつつ、取るに足らないことだとも思う。

 物事は表現の仕方でいくらだってその大小を変えられる。僕らにとってはそんな些細な印象よりも、友達と滞りなく会話をするほうが重要だ。


「うちのテニスサークルも例に漏れないって話だけどね」

「事実なの?」

「鶏が先か卵が先か、って感じじゃない?」

「そう言うもんかな」

「ていうか、情報集めてないの? サークル入るつもりない?」

「バイトしてるから」

「一人暮らしなんだっけ?」

「うん。榎田さんは実家だっけ?」

「そう。だから、サークルに入る余裕もある、って言うとあれだけど、家賃とか生活費とかないから、江口くんよりは余裕があるからね。どうせならサークル活動したいじゃん? 大学生になったんだし」

「それで、旅行優先?」

「それはいいでしょ」


 せっかくと言いながらも、遊ぶつもり満々な榎田さんは、勉学だけに留まるつもりはないようだ。

 僕のような人間は、日常を大幅に外れたりしない。サークルに入るにしても、旅行なんて慌ただしいものをチョイスしないだろう。僕と榎田さんは考え方が違うようだった。


「サークルで行けるのは楽じゃない? わたしだって、自分で一から手配するって思うと面倒だもん」


 能動的だか何だか分からないことを言う榎田さんには苦笑ものだ。自由気ままな気風らしい。


「江口くんだって面倒ごとは嫌でしょ?」

「まぁ、それはね。でも、自分がしたいことについてくるのはあんまり気にしないかな」

「うー、正論」


 榎田さんは顔のパーツをぎゅっと中央に集めてぼやく。


「とにかく、わたしは講義結構入ってるし、お昼いつも大学にいるから食堂で見かけたらよろしくね。連絡もするけど」

「念を押さなくても約束は守るよ。ノートありがとう。助かる」

「どういたしまして。それじゃあね、わたし次もあるから」

「うん。頑張って」

「そっちもバイト頑張って。居眠りしちゃダメだよ!」


 面倒くさがりな榎田さんでも、板書はきちんとしているらしい。去っていった彼女を見送ってぱらぱらと捲ると、意外に几帳面な文字が並んでいた。

 飲み会で知り合った友人だ。出会いのひとつとして緩やかにフェードアウトするかもしれないと思っていた。だが、今となっては頼りになる友人になりつつある。

 僕は感謝を捧げながら、榎田さんのノートをリュックの中にいくらか丁寧にしまった。

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