第二話

「碧くん、今日は掃除?」


 本当はバイトが掃除を任されることは滅多にない。けれど、海岬水族館はうちのおじさんが館長を務めている。僕は小さいころからの常連で、館長贔屓でお手伝いをさせてもらっていた。

 と言っても、体験でもやらせてもらえるような餌やり程度のものだったけれど。けれど、その縁が今にまで繋がって、バイトとなってからは掃除を任せてもらえるようになった。

 水槽の清掃には潜水の資格がいるので関われないが、イルカやアシカ、ペンギンのプールサイドを掃除するくらいはできる。おじさんは僕が動物に慣れていることを知っているから、任せてもらえていた。

 動物たちとは兄弟のように育ったと言っても過言ではない。ペンギンも僕に懐いていて、足元にやってきてくれることもある。

 それでも、毎日掃除に入っているわけではない。シフトの関係で人が少ないときの緊急要員のような立ち位置だ。基本的には、他のバイトと同じように接客をしている。

 灘凪蓮月なだなぎはづきさんは、僕の教育係をやってくれている先輩だ。

 大学に入ってから二年で、蓮月さんはうちの名物看板娘になっている。美人で愛想が良くて、子どもと目線を合わせている姿は親しみやすい。家族連れも多い施設でのその雰囲気は、とても重宝されている。従業員からの信頼も厚く、僕も頼りにしていた。


「はい。今日は裏になります」

「了解。足元には気をつけてね」

「はい」


 接客するときと掃除するときとでは、制服が違う。目視で分かることだが、確認作業は毎回必ず行われる。こうした目端の利き方にも、信頼を置いていた。

 蓮月さんはそれだけ言うと、にっこりと笑って接客の仕事に戻っていく。僕もすぐに掃除道具を手にして、スタッフ専用通路を通って移動を開始した。

 多くの場合は、お客さんから見えない場所で作業するが、イルカのプールはショーの合間が掃除の時間になる。ちょうどその時間であることを確認して、バックヤードの従業員に挨拶をしながら、イルカのプールに入った。

 トレーナーがイルカの調子を見ているのを横目に、僕は掃除道具を準備して作業を開始する。手慣れた作業だ。けれど、プールサイドのようなものだから、滑らないように注意する必要があるし、動物たちの居場所を掃除するのには神経を使う。手慣れていても油断するわけにはいかない。

 細心の注意を払いながら、手早く、そして正確に掃除をしていく。トレーナーと言葉を交わすこともあるが、あちらも仕事中だ。餌やりなどが優先される。

 ちょうどよくプールの淵に近付いた僕に、きゅいきゅいというような鳴き声がかかった。僕に向かって鳴いたわけではないだろうけれど、つい目をそちらに向けてしまう。

 鳴いているのは餌をもらっている子ではなくて、もう一匹のハンドウイルカだった。


「アン」


 僕はバイト以前より常連だ。親族特典として、普通に通うよりもより身近なところで動物と触れ合ってきた。全員を、と言えるほど自信過剰ではないけれど、見分けることができる子も多い。

 特に、アンは別格だ。

 僕はアンが生まれる日に立ち会っている。完全に偶然だった。いつも通りに水族館に遊びに来たら、バックヤードが騒がしくしていて、アンが生まれるときだったのだ。

 現場に立ち入ることが許されたわけじゃない。けれど、アンが生まれたときから、僕はアンを知っている。だから、思い入れがあるし、ついつい構ってしまいがちになった。と言っても、顔を合わせたり、一方的に声をかけたりしているだけだけれど。

 けれど、アンはそれだけで僕のことを理解しているらしい。賢い子だ。イルカは人懐こいと言うが、きちんと僕を認識しているようだった。確証はないけれど、僕はそう思っている。


「今日はいい天気だね。後一回、ショー頑張って」


 声をかけると、アンはきゅいきゅいと鳴いた。通じているとは思っていない。それでも、こうしてコミュニケーションを取る。動物と接するというのは、そんなものだ。

 そうして、従業員とは別にアンとも挨拶をして、無事に掃除を終えた。プールサイド以外にも、掃除すべき箇所はある。そこを回って更衣室に戻ると、ちょうど就業時間だった。

 僕のバイト時間はそう長くない。大学の終わりから、水族館が閉館してからの作業。その時間だけなので、日によっては二時間ほどだなんてこともある。とびきり時給がいいわけでもないが、僕はこの水族館が好きだ。だから、掃除の肉体労働もきつくはない。

 ……これは強がりかもしれないけれど、ただそうして強がれる程度には、僕は好きでこのバイトに励んでいた。それこそ、サークル活動なんてちっとも考えない。一人暮らしの事情がなくたって、きっとバイトに重点を置いただろう。


「お疲れ~」

「お疲れ様です」


 閉館時間まで残るバイトは、帰る時間も同じだ。あえてずらさない限りは、一緒に外へ出ることへなる。蓮月さんと挨拶を交わしながら、駅までの道を一緒に辿った。僕と蓮月さんの家は、一駅分違うだけの距離感にある。一緒に帰るのも珍しくはない。


「今日もまたアンと話してたんだって?」


 僕の動物相手の独り言は、みんな知っていることだ。

 そして、僕じゃなくったって飼育員やトレーナーたちは、会話しようとしてる。特異ではないはずなのだが、バイトは接客が多いものだから、動物との接触は少ない。バイトの中では、僕は異質だった。


「アンとは長い付き合いですから」

「仲良しだよねぇ。私はすぐさま見分けられないからなぁ」

「接客が主で関わること少ないですから、すぐには難しいですよ」


 柄や模様。そうしたところで見分けがつく。だが、一言で言ってしまえばイルカだ。僕だって、群れている猿の中から一匹を見分けられる気はしない。即座に判断するなんて、尚のこと不可能だ。

 僕がアンを見分けられるのは、一重に過ごしてきた時間のおかげだろう。もしくは、誕生から知っているという自負だ。

 そんな僕でも、毎日触れ合っている飼育員やトレーナーには負ける。ましてや、蓮月さんは接客が主で、イルカプールに気付くことも少ない。二年くらいでは、すぐさま見分けることなんてそう簡単にはいかないものだ。

 僕だって、アン以外は自信たっぷりとはいかない。


「アン、可愛い?」

「イルカは可愛いでしょう?」

「どこで見分けてるわけ?」

「アンは目のそばの色がちょっと濃いんですよ。あと、他の子に比べると小さいです」

「泳いでて大きさなんてよく分かるよねぇ」

「アンが近付いてきてくれるってのもありますよ。人懐こいですね」

「私じゃ寄ってきてくれないもん」

「蓮月さんが一緒にいる時間が少ないからでしょ?」

「ショーのときは、キスしてあげてるじゃない? 私にも懐いてくれてもいいと思う」

「芸と普段は別ものですよ、多分」


 その辺りをイルカがどう受け止めているのかは、分かるわけもなかった。そもそも動物に芸を教えるのがどうかという倫理観もあるし、それも分かる。

 ただ、アンは水族館育ちだ。自然環境を知らないし、アンに関してだけは今更どう何を言ってももう遅いと僕は思っている。アンにとっては、この環境が自然な形であるだろう。自然世界で生きていけるとは思えない。

 だから、その辺りの慎重な議論は、アンを主軸にした場合には棚上げにしている。


「アンだけ特別だよね、碧くん」

「まぁ、それは生まれたときから知ってますからね。思い入れもありますよ」

「贔屓はいけないんだぞ」


 膨れてからかってくる蓮月さんは、もう成人しているとは思えなかった。

 立派で頼り甲斐のある先輩だけれど、仕事中でなければ屈託のない女の子だ。こんなふうに、僕を茶化すことも多い。手玉に取ろうとしてくるところは、お姉さんっぽいところなのかもしれない。


「しょうがないじゃないですか。蓮月さんの言うようにアンは特別なんですから」

「私だって、碧くんのお世話をたっぷり焼いてると思うんだけど?」


 僕がバイトを始めてから、二ヶ月半ほどしか経っていない。まだまだ蓮月さんのお世話になっているばかりだ。そう言われると、反論できることはない。


「蓮月さんだってとても頼りにしているし、特別に仲良くしてますよ」


 連日一緒に帰っていれば、他の従業員やバイト仲間よりもずっと仲良くなる。嘘偽りなく、蓮月さんは僕にとって仲の良い存在だ。それは、バイトに限定しなくともそうだろう。

 大学入学と同時にこちらに越してきた僕に、昔なじみはいない。同じようにこっちに進学してきた人はいるらしいが、その人たちとは高校時代にも関係がなかった。だから、こちらに親しい友人はいない。

 その点、蓮月さんとはこっちに越してきてバイトを始めてから、毎日同じ時間を過ごしているも同じだ。榎田さんとも話す機会は多いけれど、蓮月さんとのほうが時間は長かった。


「ふふ~ん、いいことだね。碧くんは私と仲良くするといいよ」

「僕は仲良くしてれば頼りになりますけど、蓮月さんはいいことありますか?」

「友達は損得じゃないでしょ」

「友達なんですかね?」

「なんだと思ってるの?」

「バイトの先輩後輩かと」


 仲の良い存在だとは思っているが、友達だとは今このときまで一度だって思ったことはない。そんなことは恐れ多いほど、お世話になっているのだ。

 僕は水族館が好きだが、だからってすぐにバイトがこなせるようになるわけじゃない。水族館の状況については詳しいが、接客に関してはずぶの素人だ。

 卒業した高校は進学校で、家庭の事情がなければバイトが禁止だった。僕は実家に住んでいたし、両親健在のうえに共働きで、バイトが必要な家庭環境ではなかったのだ。

 もちろん、バイトできればずっと生活は楽になっただろうし、僕だって自由にできるものが多かっただろう。けれど、無理をせずに学業に専念する。それが進学校の方針だった。

 だから、初めてのバイトは大変だ。蓮月さんには迷惑をかけている。先輩後輩。大学生としても年齢的にも、蓮月さんは先輩だった。年齢を取り上げるとむくれるので、地雷を踏みに行くつもりはないが。


「そんなつれないこと言わないでよ~」

「つれないってことはないでしょう?」

「つれないよ! 私はもっとずっと碧くんを可愛がってるつもりだったのに」

「じゃあ、友人ってことでいいんですか?」

「連絡先も交換した仲でしょ?」

「バイトのグループを作ってるからって理由だったじゃないですか」

「でも個人で連絡してるじゃん。私と碧くんの仲でしょ?」

「そんなに親しかったですかね……?」


 親しいことを否定はしない。他の人と比べれば、蓮月さんとは親しい部類だろう。しかし、こうして引き立てられるほどとは言い難くもあった。あくまで僕の感覚だけれど、取り立てて名称のある関係を結んでいるかのようにからかわれるのは不本意だ。


「ひどいな、君は! じゃあ、蓮月さんと親しく遊びにでも行こうか」

「急ですよ」

「夕飯は?」

「自炊です。そんなに余裕あるわけじゃないんで」


 両親は仕送りをしてくれているし、周囲に漏らすほどバイト代だけで暮らしているわけでもなかった。だが、無駄遣いはしたくないし、もしものときに備えておきたい。僕はこれでも慎重派だ。だから、できるだけバイトで生活を回すようにしていた。

 はっきりと断ると、蓮月さんは苦笑いになる。


「それはしょうがないね。それじゃあ今度、私に余裕があるときにご飯に連れて行ってあげよう」


 蓮月さんも一人暮らしのはずだ。そう余裕はないと聞いているが、もう二年生だ。僕よりも一人暮らしの経験値があるだろうし、生活は順調である様子なので、現在の余裕のなさに突っ込むことはしなかった。


「それじゃあ、お世話になります」

「もうちょっと楽しい言い方はないのかなぁ?」


 どうやら、僕の返答は蓮月さんの親しくなりたい態度のお眼鏡に適わなかったようだ。不貞腐れたように零す口調が僕を責める。当然、本気ではないだろうけれど、だからって知らん振りはできそうにない。僕はそんなところで豪胆ではなかった。


「蓮月さんと夕飯一緒にできる日を楽しみにしてますよ」

「とってつけたようだなぁ」

「求めたんじゃないですか」

「だからって、バカ正直に答えるだけでどうするんだよ碧くん。もうちょっと工夫が欲しかったな、蓮月さんは」


 まったく面倒な人だ。蓮月さんは親切だし快活だし、褒めるところばかりが目立つ。

 けれど、こうして僕のことをからかう面においては、ちょっぴり面倒くさい人だった。これが親しみやすさに繋がっているのだから、決して嫌なところではないのだけれど。

 特に僕は、蓮月さんのような人と仲良くなったことがなかったものだから、翻弄されまくっている。これだって、蓮月さんの長所なのだろうけれど。僕はすっかりそれに飲み込まれてしまっていた。


「じゃあ……蓮月さんと二人きりでいられるの嬉しいですよ」

「うっ」


 求めたのは蓮月さんだ。けれど、それを実行に移すと狼狽するのも蓮月さんだった。やっぱり面倒だけれど、目を泳がせて狼狽する蓮月さんは可愛い。先輩に思うべき感情ではないのかもしれないけれど。

 けれど、蓮月さんはこういうところがお茶目で可愛らしくて好ましい人だ。


「楽しみにしてますから、誘ってくださいね? それじゃ、僕はここで。気をつけて帰ってください。おやすみなさい」

「もう少し、私の態度やら自分の台詞に思うところはないわけ!? そつのない子だなぁ、もう」

「蓮月さんが求めたんじゃないですか。僕は蓮月さんに応えただけですよ」

「それが、そつがないって言ってるんだよ……からかいがいがあるのかないのか分からないなぁ碧くんは。まぁ、ここでお別れなのは間違いなんだけどさ」

「電車、来ちゃいますよ」

「うん。それじゃ、また明日バイトでね」


 ひらりと手を振って、蓮月さんは利用路線へと去っていった。僕と蓮月さんは路線が違う。僕も手を上げて蓮月さんに答えると、自分のホームへと移動した。

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