1F保健室にて、感染。8月23日

 

 ――ピピピッ、ピピピッ……。

 

 体温計が鳴った。

「免疫活性剤はもう必要ないわね」

 そう言って、想河おもいがわはサクラにつけていた吸入器を外す。今度は彼女の腕に針を挿入し、水色の輸液を点滴し始めた。これは抑制剤。一時的に高めていた“キュウタァの力”を正常値に戻すための薬だ。

 桜高に運ばれてきたサクラは、高熱を出してうなされていた。

 想河の分析によると、原因は体内に侵入した『螺旋状の飛翔体』なのだという。奴は体内で増殖し、それぞれウイルスのように振る舞っていた。サクラと複合型スパコン“ほまれ”との接続が切れたのも、螺旋のせいらしい。

 火照った頬、荒い呼吸、汗に濡れて肌に張りついた栗色の髪。

 クリニックでの処置を終え、ストレッチャーで保健室に運ばれてもなお、彼女はまだ目を覚ましていない。

 眠るサクラが苦しそうにうめいた。彼女のひたいから枕元へ、冷やタオルがぽとりと落ちる。

 交換してからそう経っていないのに、拾い上げたタオルはもう生ぬるくなっていた。ぬるくなったタオルを冷水で洗い、ぎゅっと絞る。

「きっと大丈夫ですよね」神代かみしろは冷やタオルをサクラに載せながら想河に尋ねる。

「ええ。体内の螺旋たちは、免疫細胞によってほとんど破壊されているわ。あとは熱が引くのを待つのみ。だから、ほぼ安定したと言って間違いないわね。精神値も正常範囲内だし、もう心配しなくても大丈夫よ」

「そう、ですか……」

 サクラが目を覚ますまで油断はできないが、これでひとまずは安心だ。

「今日は大変な一日だったわね」

 疲労の色がにじむ声で想河が言った。

 数時間前、サクラの回収と並行して、桜楯おうじゅん連合軍による『木馬型キュウタァ』への足止め作戦が開始された。指揮所の宮守みやもりから連絡を受けた富嶽ふがく中将が、幕僚本部に要請したそうだ。陸上部隊は海岸線を固め、航空部隊はほことなり、海上部隊はたてとなって戦ったらしい。

 その他のことは知らされていない。壊滅した部隊の数も、消滅した人間の総数も。

 本音を言えば、知りたくもないし、そんなの考えたくもない。

 アラート発令から11時間にも及んだ戦いは、つい先ほど、22時を過ぎた頃に終わった。連合軍の勝利、正確に言えばほぼ相打あいうちという形での終結だ。

 木馬型キュウタァは崩壊し、世界に溶けたという。しかし、そのコア、シールド型だったものに包まれた深紅の母レッドマザー――スフィア型キュウタァは、未だにリアス海沖の第二次防衛海域内で沈黙している。

「休憩にしましょう」

 想河はタンブラーを傾け、紙コップにコーヒーを注ぐ。

「少尉クンも飲む?」

「いえ、結構です」

 ベッドわきのイスに座った神代は、首を横に振る。

 この瞬間もサクラは戦っているのだ。冷めたコーヒーもそうだが、今は何も口にしたくなかった。

 想河はタンブラーを置き、近くのイスに腰掛ける。

 しばしの休息時間。ほどなくして、保健室は夜の静寂に包まれた。部屋に響くのは扇風機の送風音や虫の声、蛙の合唱のみ。網戸にした窓からは、やさしい夜風が吹き込んできてカーテンをふわりとなびかせる。

 風に乗って夏の匂いがした。少し切なくなる匂い。桜高での日々を思い起こさせる匂い。夏の香りに満ちた保健室で、神代はサクラとのこれまでを思い出す。

 サクラと初めて会ったのは、軍病院から退院する日のことだった。カビ臭い図書室で、踏み台から落っこちた彼女を抱きかかえたとき、その美しい瞳に見惚みとれたことを今でも覚えている。

 ほんの数か月前のことが、どうしてだか遠い昔のようだ。あれから色々あった。楽しいことも、つらいことも、本当にたくさんあった。

 サクラはいつまで戦わねばならないのだろうか。自分は彼女の役に少しでも立てているのだろうか。そんなのいくら考えても分からない。少なくとも、自分では役に立てているとは思えていない。

「――ねえ、少尉クン」

 声がして、神代は意識を現実に戻す。

 見ると、紙コップを持った両手をひざの上に置いて、想河は保健室の白い天井を仰いでいた。

「出撃したSシリーズ、何機帰ってこれたと思う?」

「さあ。どれくらいですかね」

「消滅、4。行方不明、5。帰投できたのはたったの3機よ」

「3機、ですか……」

 それは出撃したSシリーズのうち、3分の2がとされたということ。

 なんとか進軍を止めることはできたが、そのぶん失ったものも多い。勝利の代償は、いつだって大きいのだ。

「12機のうち9機を失って、残った3機もみんな傷ついていて。今日の戦いは、本当に悲惨なものだったわ」

「悲惨じゃない戦争なんてありませんよ」

 言葉を吐いてから、しまった、と神代は思う。

 ただ見ていることしかできなかった自分が、そんなことを言える立場ではない。

「……そうね」想河は哀しそうに笑うと、紙コップの中身を一気にあおった。

 出撃したSシリーズは、サクラの免疫情報から作られた『対螺旋抗原プログラムワクチンソフト』により抗体を付加ふかされていたと聞く。医官である想河とオペレーター三人娘のひとり、桐ヶ谷きりがやミクルが、複合型スパコン“ほまれ”を用いて開発したらしい。彼女たちがたった5時間で開発したソフトがなければ、戦績はもっと酷いものになっていただろう。

 それに比べて自分は何ができたというのだ。指揮所でただモニターを見つめ、クリニックで処置の手伝いをしていただけだ。

 戦地にも行けず、戦闘機にも乗れず、サクラを護りたいと思っていながら最初の一歩を踏み出すことすらできない。

 無力感にさいなまれ、神代は拳を握りしめてうつむく。

「偉そうなこと言って、すみません……」

「いいのよ。あなたの言ってること、間違っていないもの」

「だけど……、」

 握った拳が思わず震える。


 ――何が悲惨じゃない戦争はない、だ。


 ――見ていることしかできない傍観者が、偉そうな口を叩くな。


 ――お前は何もできないじゃないか。


 ――戦うことも、サクラを苦しみから救うことも、何ひとつとして。


 もう一人の自分が、自分自身を責めている。

 自己差別。自己批判。自己嫌悪。

 内部からの糾弾の声に、神代は下唇を噛む。

「人間の最大の弱点のひとつは、どんな状況にでもいつかは慣れてしまうことね。」

 ゆったりとした想河の声が、神代の頭の中の喧騒けんそうを静める。

「それまでにつちかってきた感覚や感情、倫理観が、その状況下での時間の経過と共に麻痺してしまう。本人はそれに気がつかない。例え気づいたとしても、次の瞬間には忘れている。もしくは、気づいたとしても何もできない。私もそう。桜高ここにいると尚更なおさらね。」

 諭すように想河は語る。

「環境によって変えられてしまったものは、環境自体を変えることでしか変えられないの。

 何年も前から桜高ここにいる私は――私たちは、とっくの昔にこの状況に慣れてしまっている。自ら感情を押し殺し、感覚を麻痺させてしまっているのよ。だけど、あなたは違うでしょう、少尉クン。」

 ひと呼吸おいて、

「あなた、自分は何もできていない、そう思っているんでしょう?」

 その言葉に、うつむいていた神代は目を見開く。

 ゆっくりと顔を上げ、想河を見る。

「どうして、それを……」

「言っとくけどね、それは自惚うぬぼれよ」

「えっ」

「人にはそれぞれ役割があるの。できること、できないことがあって当たり前。できないことを悲観するよりも、できることを誇りなさい。他人と自分を比べるのもいいけれど、それは大概にしといた方が身のためよ。

 私たちには無理だけど、あなたにはできる。いえ、あなたにしかできないことがあるじゃない。吉野よしのサクラに寄り添ってあげられるのは、あなただけなのよ」

「俺、だけ……」

「そう。だから、くよくよしてないで上を向きなさい」

 イスから立ち上がり、片手を白衣のポケットに入れて、

「私が言うことじゃないけど、言えたことじゃないけれど、あえて言うわ」


 吉野室長せんせいの娘を、“卒業の日”まで頼んだわよ、神代先生。


 自分の無力さは、最初から分かっていたことじゃないか。気がついて、神代は力を入れていた拳を緩める。

 それでもなお、今までやってきた。何ができるか考え、行動してきた。

 下を向いている暇はない。立ち止まっている時間はない。自分はこれからも、サクラのためにできることを精いっぱいやるだけなのだ。

 見失いかけていた覚悟と決意を思い出し、神代は真っすぐな眼差しで想河を見据える。そして、「はい」とただ一言だけ答えた。

 想河はやさしく微笑み、

「それじゃ、私はクリニックに戻るわね。点滴が終わったら電話コールして」

 タンブラーを持って保健室から去っていった。

 ひとり残った神代は、生ぬるくなった冷やタオルを水で洗う。ふいにカーテンがバサバサと音を立て、冷たくて気持ちのいい夜風が吹き抜けた。

 水色の輸液がまた一滴、ぽたりと液だまりに落ちた。

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