とある展望台にて、予感。10月26日

 10月に入り、早くも26日が経過した。放棄区域での生活にも慣れ、新しく住み始めた家にはだいぶ生活感が出てきたように思う。

 神代かみしろは手入れを終え、組み直したピストルをテーブルに置いて大きく伸びをする。ほどよい疲労感、それに気温24度という若干の涼しさもあいまって、少しだけ眠たい。

 近くのソファーに目をやると、そこで本を読んでいたサクラは知らぬ間にいなくなっていた。きっと自室に移ったのだろう。この家の2階には、消毒液の匂いなどしない、彼女らしい部屋がある。今頃は好きなものに囲まれて、本の世界にどっぷり浸っているに違いない。

 まったりとした夏の昼下がり、神代はあくびをかみ殺しながら立ち上がる。脳が糖分を欲していた。

 台所の戸棚を開け、保存食と一緒に備蓄してあるお菓子の中からラムネを選び取る。包みから出したビー玉大の粒をひとつ口に放ると、清涼感のある香りが鼻を抜けた。カリッと砕けて、甘酸っぱさが全身に染み渡る。

 もうひとつ包みを開け、今度は舌の上で転がしてみる。表面からじんわりと溶け出し、氷のようになくなっていく。

 さらにもうひとつ、と、そのとき、階段から足音が聞こえてきた。ほどなくして、リビングにサクラが入ってくる。

「あっ、センセイ。」

 台所の神代を見つけたサクラが言った。

「終わってたんですね、M9のお手入れ」

「ああ。さっき終わったとこ」

「休憩中でしたか」

「ちょっと甘いものが食べたくてさ。ひとつ、どう?」

「もちろんいただきます」

「んじゃ、口あけて」

 あーん、と開いた口にラムネを落とし入れる。カリッと聞こえて、「ん~!」とサクラは美味しそうな声をあげた。その拍子によくかれたつややかな栗色の髪が揺れる。その毛先は肩の高さよりも少しだけ低い。思わず触りたくなるほど、サクラの髪はさらさらしていて美しい。

「あの、センセ。」

 改まった様子でサクラが言う。

「いまから図書館いきませんか」

「もしかしてだけど、借りてきたやつ、もう全部読んじゃったの?」

「はい。さっき読み終わったとこです」

 えへへ、と恥ずかしそうに笑って、

「いまからじゃダメ、ですか?」

「別にダメじゃない。分かった、行こう。ちょうど運動したいと思ってたとこだし」

 サクラの言う図書館とは、『ハクア図書館』のことだ。近所にある唯一の図書館で、定期的に二人で通っている。

 近所と言っても家から少し離れた山の中腹――急勾配を登った先に建っていて、往復するだけでもちょっとした運動になるのだ。

「それじゃ、ちょっとだけ待っててください。あたし、部屋で準備してきますから」

 くるりと踵を返し、サクラはリビングから出ていく。

 ひとり残った神代はテーブルに戻り、手入れを終えた拳銃を手に取る。

 あれから約2ヶ月。いつか世界が終わるのだとしても、ずっと先までこの日々が続いてほしい。そのためなら、もう躊躇ためらうことはしない。

 強く想いながら、ずっしりとした手の中の重さをホルスターに納めた。



 コンクリート造りの『ハクア図書館』は、日が当たらないせいもあってか、いつ来てもひんやりとしていて涼しい。

 冷気に混じって、カビ臭いようなホコリ臭いような、古本独特の匂いが漂っている。桜高の図書室と同じような匂い。だが、どこか微妙に違う匂い。無機質な一方で温かみも感じる、そんな空気だ。

 これまでに何ヶ所も図書館をめぐってきたが、サクラはダントツでここがお気に入りらしい。

「記入、おねがいします」

 貸出カウンターに本を置き、サクラはブックバンドをポケットにしまう。

 神代の目の前には、彼女が借りていた本が10冊ほど積まれていた。

「はいよ」

 カウンター越しに本を受け取り、保管していた貸出カードを引き出しから取り出す。このカードはサクラ自作で、すでに本のタイトルがびっしりと記載されている。

 彼女は小説のみならず、エッセイや実用書、図鑑など国内外問わず様々な本を読む。今回もジャンルの全く異なるものを借りていた。

 神代は記載されたタイトルと本のタイトルとを照合し、返却日欄に今日の日付を記入していく。

「ん?」

 途中まで書いたところでペンが止まる。

「あのさ、借りた日付しか書かれていないとこがあるんだけど、これって……?」

「あっ、そこはそれでいいんです。タイトルはあとで書きますから、返却日のとこだけ記入してもらえば」

「何借りたの?」

「たっ、ただの勉強の本です。べつになんでもないです」

 よく見ると、サクラは背中に手を回している。「ほんと、なんでもありませんから」口早に話すところがさらに怪しい。不審に感じるも、これ以上訊くのは野暮というもの。納得したフリをして図書の確認を再開する。

 ものの数分で作業は終わり、神代は筆立てにペンを戻した。

「それじゃ、返すの手伝うよ」

 サクラに貸出カードを渡し、座っていたイスから立ち上がる。

 確認作業と並行して分別しておいた本の山をカウンターに並べ、

「こっちがここのフロア。んで、こっちは上のやつ。どっち返しに行きたい?」

 ふたつの山を順番に指さした。

 ハクア図書館は3階建てで、吹き抜けになった2階と3階が開架スペースになっている。本を返すために何度も階段を上り下りするより、分担したほうが楽だし速い。

 ちなみに、貸出カウンターは1階から階段を上ってすぐの2階にあり、位置的には建物の中心に位置している。

「じゃあ……3階のやつで」

「おっけ。返し終わったら、その後はいつも通りでいいね」

「いえ、ここに集合しましょう」

「本、借りなくていいの?」

「今日は、その……いいんです」

「……なら、そうしようか」

 珍しいこともあるもんだ。思いながら、神代は積み重ねた本を持ち上げる。

 サクラが隠す本のタイトルが気になりつつも、「またあとで」と返却へ向かう。


 ここは図書館というより、まるで繁華街のようだ。他に比べると小ぢんまりしているが、そのぶん書架がぎっちりと並んでいて、雑然とした路地裏を散策している気分になる。色とりどりの背表紙がつくりだす、薄暗くてノスタルジックな空間。サクラと同じく、今までで一番好きな図書館かもしれない。

 早めに本を戻し、少しだけぶらついてから集合場所に向かう。開架スペースから抜けると、サクラの姿が見えた。床の一点を見つめるようにして貸出カウンターに寄りかかっている。

「ごめん。待った?」

「いえ、あたしもさっき来たとこです」

 言いながら、サクラは神代の正面に立ち、

「センセ。今日はあとひとつだけ、付き合ってもらってもいいですか?」

「ん?」

「もうひとつだけ、行きたい場所があるんです」



「――まさか、こんな道があったなんてなぁ」

 神代はハクア図書館の裏手からのびる散策路を歩いていた。道はゆるやかな登り坂になっていて、図書館よりもさらに上の場所へ続いている。何度も通ってきた場所なのに、今まで存在に気がつかなかった。

「こんなの、いつ見つけたんだ?」

「つい最近です。この街のガイドブックに載ってて」

 さすがは乱読派、と神代は感心する。「てことは、この上に何かあるんだ」

「展望台があるみたいですよ。ちょっと変わったかたちの」

「変わったかたち?」

「シャンプーハット、みたいな?」

「なんだそりゃ」

「屋根がこう、ぴょんっ、ぴょんって」

 人差し指で宙にかたちを描いてくれるが、うまく想像できない。

「着いてみたらわかりますよ。まあ、あたしも今日初めて行くんですけどね」

 照れくさそうに笑いながらサクラは空を仰ぐ。見ると、家を出たときはまだ蒼かったはずの空が、今はぼんやりと白みがかっていた。ちょうど、彼女のブラウスと同じアイスグリーン色をしている。

「ちょっとだけ急ぎましょうか」

 そう言って、サクラは歩みを速める。カフェオレ色のフレアスカートにブラウンのショートブーツ。決して坂を登りやすいとは言えない格好の割に、彼女はずんずんと進んでいく。

 それからプチ登山を続けること約10分。雑木林を抜けた先に目的地はあった。

 入り口の石碑に『コハク山記念公園』と彫ってある。地面はコンクリートでタイル柄に整備されていて、その他には水飲み場と古びた屋外トイレ、石のベンチが設置してあった。遊具などは一切ない大人な公園だ。

「シャンプーハットって、これか!」

 公園の端――山肌からせり出すようにくだんの展望台が建っていた。

 半円状に並べられたいくつものアーチ。それらから外に向かって伸びる屋根。屋根の下には回廊のような展望デッキがあって、デッキの両端にはそれぞれ階段がついている。白のボディに屋根だけが水色で、その見た目はまさに宙に浮くシャンプーハットだ。

「ね、センセ。言ったとおりでしょ」

 えっへん、とサクラは得意げに胸を張る。

「こんなのが近くにあったなんて……」

「地元の人でもあまり知らない、隠れスポットだったみたいですからね」

「それは……まあ、納得だわ」

 ここに来る道中、案内板などはひとつも見かけなかった。散策路の入り口が図書館の裏ということもあって、隠れスポットになるのはしょうがないのかもしれない。

「でも、そこがいいですよね。ヒミツの場所って感じで」

 サクラの言葉に、神代は周囲を見回してみる。

 色づき始めた木々、どこからか聞こえてくる鳥の鳴き声、吹いてくる風は涼しくて心地がいい。無数のトンボが空を駆け、その空はやさしい表情で日暮れが近いことを告げている。いい場所だ、素直にそう思えた。

 公園と展望台とをへだてる小さな階段を上り、小さな広場へ。広場中央の花壇をぐるりと迂回し、展望デッキにつながる階段へ向かう。

 階段はV字のように左右に分かれ、展望デッキの両端に繋がっている。Vの根元を前にして、サクラが言った。

「せっかくですし、両方からのぼってみましょう。あたし、右から行きますね」

 サクラの提案に従い、右と左に分かれてデッキに上る。

 半円状のデッキの真ん中――最も視界が開けた場所で合流すると、

「あら、センセー。きぐう、ですね」

 サクラは可愛らしくおどけてみせた。

「ここ、夕日がきれいに見えるらしいんです。間に合ってよかった」

 オレンジ色に変わりだした日の光が、彼女の顔を照らしている。

 だからか、と神代は合点がいった。だから、あの時間に図書館に行こうと誘ってきたのだ。

「すごいですよ、センセ。建物がこんなにいっぱい。向こうの山も、空も、ずっと遠くまで見える」

 欄干に腕を乗せ、サクラは目の前の景色にはしゃぐ。

 展望台下の森から顔を覗かせるように、暮れゆく街が広がっていた。

「あそこにあるの、俺たちの家じゃない?」

「えっ、どこですか」

「ほら、あの神社のそばの。他よりちっちゃくて四角いやつ」

「ん~っと……、」

 斜陽しゃよう黄昏たそがれて、きらりと輝いて見える街。トンボが一匹、また一匹と街を目指して飛んでいく。

「……あっ、ほんとだ! あたしたちの家、ちゃんとありますね!」

「うん。ちゃんとある」

 仮住まいに他ならないが、今はあそこが帰るべきふたりの家だ。

 母を亡くし、コックピットという唯一の居場所を無くし、生きる理由さえ失くした先で、愛おしい日々を見つけた。終末の悲壮感漂う街で、あの場所だけが温かい。

「センセーとここに来れて、本当によかった。」夕焼け色の街を眺めながら、サクラが呟く。「今日のこと、あたし絶対に忘れませんから」

「実は……、センセイに渡したいものがあるんです」そう言って、彼女はポケットから何かを取り出す。

 手渡されたソレは、蒼いリボンでラッピングされた黒い弾倉マガジンだった。

「これは……?」

「あの日、桜高を出た日、センセーの部屋から持ってきたものです」

 体育館が燃えた夜、パイプベッドにほうった空の弾倉マガジンを、サクラは物珍しそうにいじっていた。そのときの弾倉マガジンが、今こうして手渡されたものなのだろう。

「それは、あたしからセンセーへの気持ちです。今までたくさんしてもらいましたから。本当はもっと早くに渡すつもりだったんですけど、なかなか資料が見つからなくて。こんなに遅くなっちゃいました」

 軽かったはずの弾倉マガジンはずっしりと重く、見ると黄金色に光る弾丸が込められている。

「これで、あたしは、センセーのことをいつでも護れます。たとえどんなに離れていても、センセーのそばで、センセーのために戦えます。」

 茜さす日の中で、サクラはまっすぐ神代を見つめる。

 神代は、少女サクラがいつの間にか大人びていることに今さらながら気がつく。

「あたし、これからもセンセーのそばにいたい。あなたの隣を、どこまでも歩いていきたい。」


 ――ねえ、センセー。この気持ち、受け取ってくれますか?


 濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳。何故か今だけは、その色がとても悲しい。

 きっと夕焼けのせいだろう。サクラの瞳に映るオレンジの空が、雲が、街が、こんな気持ちにさせるのだ。そうでなきゃ、彼女がこんなにも悲しく見えるわけがない。

「ありがとう、サクラ。」

 すべてを夕日のせいにして、神代は胸のざわめきをふり払う。

「俺もサクラのそばにいたい。これからもずっと、キミと一緒に歩いていきたい。

 キミの隣を、俺はどこまでも歩く。どこまでだって歩いてみせる。だから、離れててもなんて、そんなこと言うなよ。そんなこと言わないで、いつまでも俺の隣にいてほしい」

 秋の匂いが吹き抜けて、サクラの髪がさらりと揺れる。

 横に流れた栗色の髪が、沈みゆく太陽の色に染まっていく。

 ただ一言だけ「はい」と答える彼女は、黄昏の世界で静かに笑っていた。

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