とある人工池にて、キュウタァ。11月10日
先週から体調を崩していたサクラが、本格的に風邪を引いた。原因は多分、急激な気温の低下だろう。
11月に入り今日で10日が経つ。先月とはうって変わって、最近は肌寒く感じる日が多くなった。今日だって空には雲ひとつないものの、道路の落ち葉を転がす風は冷たい。
これでいくらか楽になってくれればいいのだが。今はただ、サクラの待つアパートへ先を急ぐばかりだ。
歩いていた通りを右に折れ、車1台が辛うじて通れるほどの細い道に入る。民家がひしめく住宅街を道なりに進んでいくと、年季の入った建物が見えてきた。
薄汚れた壁に『ユメミ荘』とある。全6室しかない2階建ての小さなアパートで、緑色の屋根は日に焼けてくすみ、各扉の郵便受けはガムテープで塞がれている。鉄製の手すりやネジはすっかり錆びて、一見するとまるで廃墟のようだ。この街まで乗ってきたバイクを外階段の下に停めているのだが、真新しい防雨カバーが場違いに目立っている。
耳をすますと聞こえてくるザァザァという音は、ユメミ荘の裏を流れる川のせせらぎ。寝室を兼ねたサクラの部屋の窓からなら、見下ろすかたちで見ることができる。
神代はカンカンと足音の鳴る階段を上って2階へと向かう。サクラと住んでいるのは、フロアの一番奥にある、元から空室だった部屋だ。ユメミ荘の中で最も清潔で、そのうえ日当たりも良い。
ポケットに入れていた針金を使い、ピッキングの要領で玄関の鍵を開ける。外開きの扉を開けると、次の瞬間、タタミの匂いにふわりと全身を包まれた。少しかび臭い、どこか懐かしさを感じる匂い。ほんのりと木材の酸っぱさも混じっている。
台所の窓から差し込む日の光のおかげで、室内はほんのりと暖かい。神代は入ってすぐの、タタミの茶の間とフローリングの台所が一緒になった場所から、サクラが寝ている部屋へ足を向ける。
茶の間の奥、ふすまの向こうにあるのが寝室だ。彼女を起こさないよう小さな声でただいまと言いながら、そっとふすまを開ける。
「えっ……」
思わず声が出た。
嫌な衝撃が全身を駆け抜け、頭がかぁっと熱くなる。
部屋はもぬけの殻だった。サクラの姿はどこにもない。彼女が寝ているはずの布団はきれいに畳まれている。
これは一体どういうことだ。まさか、この1時間の間に誰か――軍の部隊が来たのだろうか。いや、玄関の鍵は閉まっていたし、もし来たのなら布団が畳まれているはずがない。そもそも国土の約8割を占める放棄区域に逃げ込んだ時点で、見つけることなど不可能なはず……。
視線が手掛かりを探して部屋をさまよう。
目に留まったのは、揺れる白いレースのカーテンだった。正面の窓辺で、薄い布が波のように寄せては返しを繰り返しながら、きらきらと陽光に輝いている。
ぐしゃり。ビニール袋が手から滑り落ちた。飛び出たペットボトルがゴロゴロと床を転がっていく。
神代はサクラの部屋に踏み入り、窓枠に両手をついて外を見る。
窓からは大きな川とその手前の河川敷が見える。色の抜けた芝生や水中を泳ぐ小魚の群れ、川底の石までくっきりと。そこに肝心のサクラはいない。窓から身を乗り出してみるも、見えるのは遠くまで続く河川敷と対岸の街だけだ。
不意に、川のせせらぎが意識の中で強調された。せせらぎは音量を上げ、焦る気持ちに追い打ちをかけながら頭の中をザァザァザァと流れていく。
鍵は閉まっていた。
布団は畳まれ、窓だけが開いている。
そして、河川敷にも、見える限り遠くにも、サクラの姿はない。
「まさか……、」
だとすると、考えられるのはただひとつ。
神代の脳裏に、“翼を生やしたサクラ”が浮かぶ。
そのとき、突如として、空気を叩く特徴的な羽音が遠くから響いてきた。
……ラバラバラ……バラララララ……バラバラバラババババババババババババッ!
音は確実に大きさを増し、エンジンの排気音と回転翼のスクリュー音がまもなくして空全体を覆い尽くす。
久しぶりに聞いた、そして何度も聞いたことのある音。神代は目を凝らし、音源を探す。
風が強くなってきて、河川敷の木々が騒めき始めた。草が揺れ、川辺の鳥たちは飛び立ち、小魚の群れはどこかに隠れる。
ユメミ荘を振動させるほどの爆音が、神代の頭上を通過した。
「チヌルク……!」
サクラを戦場へと運ぶ合金製の鳥かご。大型輸送ヘリコプター“チヌルク”。
チヌルクは左へ大きく旋回すると、神代の正面をまるで挑発するかのように通過する。神代は逃げも隠れもせずに、目の前の機体をにらむ。
一瞬、搭乗者と目が合った。
あの不敵な笑みは間違いない。士官学校時代の先輩――
神代はぐっと奥歯を噛みしめ、あとを追おうと踵を返す。そして、気がつく。部屋の壁際、本が積まれた勉強机の真ん中に、小さな紙が置いてあることに。
『ごめんなさい。
あたしなら大丈夫です。だから、心配しないでください。
きっとすぐ戻ります。』
やはり、サクラはこの窓から飛んでいったのだ。どこかへ――宮守の向かう先へ。
今すぐチヌルクを、宮守セイヨウを追わねばならない。神代はポケットに手紙を突っ込み、玄関に走り込んで乱暴に靴を履く。バイクのキーをもぎ取ると、勢いよく扉を開けてユメミ荘を飛び出した。
チヌルクが降下したのは、何世紀も前に取り壊された城の跡地を整備してつくられた公園だった。
入り口近くの木陰にバイクを隠し、敷地に入る。どこにも人の姿はない。しかし、警戒を
石垣のみが現存する城内を、順路に沿って探索していく。いくつかの石碑や銅像の前を通り過ぎ、敷地の半分ほどを探し終えた頃、やっとチヌルクを見つけた。
チヌルクは城内で
池底に転がる朽ちかけたボートやゴミ。それらを呑み込むように広がる、藻とコケで構成された緑色の地面。地面の上では無数の彼岸花が群をなして咲いている。池底の真ん中――赤い花畑の中心に、チヌルクはいた。
神代は傾斜が緩い場所から底に
歩くたび足元でパキッ、ポキッと音がする。見ると、魚の骨が地面に埋もれていた。目を凝らせば魚以外にも、鳥の骨やカメの甲羅など様々な生き物の骸骨が藻とコケの下に埋もれている。骨の隣で彼岸花が咲き、池底は生と死が共存する空間となっていた。できるだけ骨を踏まぬようにして、歩みを進める。
チヌルク周辺では、複数の研究者らしき人間がせわしなく動いていた。
慌ただしい現場から少し離れた場所に、宮守の後ろ姿がある。宮守の前方では、防護服を着た集団がしゃがんで何やら作業をしている。
防護服たちのいる場所から、一直線に緑の地面がえぐれていた。それはまるで何かが不時着したような跡。周りでは、なぎ倒された彼岸花が
不時着
神代は宮守の背中に視線を遮られ、その “何か”を確認することができない。隠れている場所から移動すれば見えるだろうが、その代わりに見張りの兵にも見つかってしまう。
“何か”は、本当にサクラなのだろうか。そう思い込まされているだけなのではないだろうか。うかつに動けば、宮守のたくらみに
もどかしい時間がゆっくりと流れていく。
そして、ついに、宮守がそこから去る瞬間が訪れた。
最初に目に入ったのは、バーナーから噴出する炎のような翼だった。月の光に似た色を放つその翼は、段々と勢いを弱め、小さくなって消えていく。その翼の根元に、ひとりの少女が――サクラが倒れていた。
頭で考えるよりも先に身体が動いた。気づいたときにはもう走り出していた。
神代とサクラの距離がどんどん縮まっていく。見張りの兵士が神代に気づき、アサルトライフルを構えた。しかし、神代は止まらない。相手がトリガーを引くより早く、近接の間合いに入る。次の瞬間、銃身を掴んで払い、そのまま一気に制圧した。
神代は奪ったライフルを宮守に突きつける。
ほぼ同時に、その場にいた兵士全員の銃口が、一斉に神代へと向けられた。
「まあまあ、諸君。物騒なものは下ろしたまえ。」
いつものように笑いながら、兵士の後ろから宮守が歩み出てくる。
「やぁ、神代。元気そうで何よりだよ」
「あんた……、サクラに一体何をした」
「心外だな。ボクらは呼ばれたから来たまでさ」
「呼ばれた?」
誰に、と言いかけてやめる。この状況では、サクラ以外に考えられない。
「はっはっは。やっぱり気づいてなかったか」
「動くな。止まれ」
神代の銃など気にも留めず、宮守は地面に倒れたサクラに歩み寄る。
「そうカッカしないでさ、穏やかにいこうじゃないか」サクラのそばにしゃがみ込み、彼女の腕を服の上から無造作に掴む。
「何をするっ!」
「いいから見ていろ。
サクラが着るグレーのパーカーの
「抑制剤が切れてから、キュウタァに自我を呑まれるギリギリまで、本当によく耐えたと思うよ。」
神代は驚きのあまり息をのむ。
服の下にあった白い肌には、紅い幾何学模様が浮き出ていた。
「最終投与分と脳内にプールしてあった分、持って10週間。しかし、今日で11週と10時間36分だ。
多分だけど、日を追うごとに少しずつ、しかし確実に、自分の中のキュウタァを抑えるのが難しくなっていったんじゃないかな。
本音を言うとね、我々はもっと早くに限界が来ると予想していた。でも、吉野サクラは今日まで持ちこたえた。」
約1週間もの間、サクラはたった独りで戦っていたと言うのか。
護ると誓ったはずなのに、戦わなくていいようにすると決めたはずなのに。
何故、気づけなかった。一番近くに居たくせに、どうして。
「キミに気づかれないよう、最後まで頑張っていたんだね。大したものだ。」
身体を、意識を侵食されるのは恐かっただろう。独りで抱え込むのは相当辛かっただろう。
結局、戦闘機に乗っていようがいまいが、誰ひとり護ることなどできなかった。
事実を知り、神代の身体から力が抜ける。ライフルの銃口が完全に地面を向いた。
宮守の手がサクラから離れ、「急いで始めたまえ」翼が完全に消失したサクラは、チヌルクの中へ運ばれていく。
暗いドック内にサクラの姿が消え、再び宮守が口を開いた。
「そういえばさ、どうだった? キミたちが旅した世界は。7年前と比べて、すっかり変わっていただろう」
7年前。
第四次世界大戦が終わった年。
黒い雪が降った年。
「あの年、人類は禁断の炎を使ってしまった。その代償に黒い雪が降り、世界はゆるやかに終わりへと歩み始めた。そう、歩み始めたはずだった。」
7年前、黒い雪はあらゆる生物を次々に死に至らしめ、世界を覆いつくした。
人類は兵器技術を応用してこれを無害化。世界を壊してもなお、戦争を続行した。
気候変動による第四次世界大戦の勃発。死を運ぶ黒い雪と戦争の継続。たった数ヶ月で、世界は完全に荒廃したのだった。
「だが、どうだい。崩壊する運命にあった世界は、今やこうして元通りに修復されている。いや、それ以上に回復していただろう?」
神代が見てきた世界は、荒廃などしていなかった。
サクラとふたりで旅した世界は、生命に満ち満ちていた。
「……それが、どうしたってんですか」
世界の修復は、以前から始まっていたことだ。1年続いた冬が終わり、その後、6年も続く長い夏が来た。黒い雪は跡形もなく消え、夏の間に少しずつ世界は修復を始めていた。6年もの歳月が経過した今、修復が完了していてもおかしくはない。
いやいや、と宮守は肩をすくめて首を横に振る。
「たった6年でこうも世界が回復するなんて、フツーならあり得ない。いいかい、神代。この状況はね、あり得ないことなんだよ」
「何が言いたいんです」
「まだ気づかないのかい。こんなにヒントをあげてるのに。カン、鈍ったんじゃない?」
「回りくどいんですよ、あんたの話は。昔も今も」
「しょうがない、最後のヒントをあげよう。ボクは後輩思いの先輩だからね。
この世界では、もうひとつあり得ないことが起こっている。それは何だ」
「それは……、」
人類が人類以外と戦っていること。
生物かどうかもわからない未知の敵と“終末戦争”をしていること。
人間同士の戦争を終わらせ、新たに終末戦争を始めた敵――キュウタァ。
黒い雪が降った年、奴らは突如現れた。思い返せば、極寒の冬が終わったのはキュウタァが出現した年だ。黒い雪がこの世から消えたのも、世界の修復が始まったのも、キュウタァが現れてからだ。
「まさか……」
「はっはっは。そのまさかさ。
終末戦争初期、敵は主要な軍事施設を消滅させた。そして、戦闘を通して、世界に破壊をもたらす我々人類と残存する兵器を消し始めた。
人類の半数以上が消滅したことと、世界の修復が成されたこと。ボクはこのふたつが無関係だと考えるほど愚かじゃない。
人類からするとキュウタァは敵だ。だが、少なくともこの世界にとっては救世主なんだよ」
笑みを浮かべながら宮守は楽しそうに言う。
「しかしだよ、しかし。いくら救世主とは言え、我々にとっての敵であることに変わりはない。人類の存続を、生き残りをかけた戦争を、やめていい理由には決してならない」
「だから、サクラをまた戦わせるんですか」
「もちろん。これは吉野サクラ本人の意志でもあるからね。
吉野サクラは、自身がキュウタァと化すことを拒絶した。キミのもとを離れ、捕まると分かっていながらもボクらを呼んだ。どうしてかは、言わずとも分かるだろう」
「っ……」
強く噛んだ歯がギリリと鳴り、手のひらに爪が食い込む。
「吉野サクラはね、来たる決戦のために用意された兵器に過ぎない。勘違いしているようだけど、所詮はただの兵器。感情というバグがある不完全な兵器なんだよ。初めに
そろそろ目を覚ませよ、神代。キミは軍人、吉野サクラは決戦兵器だ。兵器は使われるためにある。我々の敵を倒すためにある。兵器に、消耗品に惚れるだけムダってもんだぜ」
神代の手からライフルが落ち、拳が固く握られる。
感情が一気に溢れだし、
「宮守、貴様ァァァァァアッ!」
次の瞬間には、宮守の頬を打ちぬいていた。
「――覚悟してたけど、やっぱり痛いね。」
ぷっ、と血の混じったツバを吐く宮守は、殴られたのにまだ笑っている。
「キミの拳はね、一生受けなくていいのなら受けたくはなかった。士官学校の格闘試合でもさ、キミとやるときは特に細心の注意を払っていたからね。だって、殴られたら絶対痛いもん」
「何言ってやがる」
「それはそうとさ、キミ。
一瞬にして宮守の雰囲気が変わった。
顔は相変わらずニヤけたまま、しかし、細い目に鋭い光が宿る。
ボクに近接格闘で勝ったこと、あったっけ?」
いきなり、空の蒼が見えた。「しまっ――!」気がつけば、顔の隣で彼岸花が咲いていた。
鼻と口の両方から土の匂いがする。顔を抑えつけられ、腕もひねり上げられ、まったく身動きが取れない。油断した。間合いに入り過ぎた。
「飛行士たるもの常に冷静でいなきゃ。士官学校で最初に習っただろう」
「んぐ……んぐぐ……!」
宮守は神代の背中に馬乗りになったまま続ける。
「戦場において冷静さを欠くことは、死ぬことと同義だ。良かったね、ここが戦場じゃなくて」
はっはっは、と宮守は得意げに笑う。
そこへ「失礼します、宮守准佐。」誰かが宮守に声をかけた。
「抑制剤投与率、最低限値を越えました。ですが、未だにキュウタァ優勢の状態が続いており、一刻も早い帰投が求められます」
「そうなの。りょーかい。そんじゃあ、ちゃっちゃと終わらせちゃいますかね」
こほん、と咳払いし、宮守は神代に宣言する。
「えー。只今からキミを拘束、これから気絶してもらう。安全保障のためだから、くれぐれも抵抗しないよーに。なぁに心配することはない。痛いのは一瞬だけさ。ま、キミ次第だがね。」
チヌルクの羽が回転を始め、池底に咲いた無数の彼岸花たちが揺れだした。
「置いていっても、どうせ追いかけて来るんだろう。だったら、一緒に連れて行ってやる。共に帰ろうじゃないか、始まりの地――
なあ、神代。ボクは後輩思いの先輩だろう?」
はっはっは、と宮守の笑い声が聞こえ、それを最後に神代の意識は途絶える。後部ハッチが閉まり、78日に及ぶ神代とサクラの逃避行は幕を下ろしたのだった。
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