とある庭園にて、秋桜。9月14日

 戦禍による人口減少により無人化し、放棄された区域――放棄区域で生活を始めてから、9月14日の今日で3週間が過ぎる。

 気温28度、天気は晴れ。車のデジタル時計によると時刻は12時18分。フロントガラスの向こうに広がる空では、純白の雲がゆっくり流れている。

 全開にした窓から入ってくる風は、山道を走っているせいかひんやりとしていて気持ちがいい。草花と木々の匂いが、風と共に車内を吹き抜けていく。

 ハンドルを握る神代かみしろの隣には、ひとりの少女が座っている。涼しそうなミントグリーンのワンピース。少しだけ大人っぽい茶色のグラディエーターサンダル。少女はもう、深緑色のセーラー服を着ていない。戦闘服を脱ぎ捨てて、少女は――サクラは、どこにでもいるような普通の女の子に戻っていた。

 風になびく横髪を耳のあたりで押さえながら、彼女は後ろに流れていく景色に目をやっている。ひざの上で大事そうに抱えているのは、とうで編まれたふた付きのバスケット。中に入っているのは、保存パンで作ったサンドウィッチやお茶入りの魔法瓶、デザートのリンゴなど、今朝つくったお弁当だ。

 車で少し遠くまで、お弁当を持ってピクニック。今はその目的地に向かっている最中なのだった。

 桜高を飛びだしてからというもの、本当に様々な場所へ行った。

 内部までもが緑に沈みつつある美術館。長い階段の先にある朽ちかけた神社。かすかにポップコーンの残り香が漂う映画館。終末戦争前で時が止まったデパート。ふちから少しずつ水があふれだす、満杯になったダム。田舎道のわきに広がる田んぼとトウモロコシ畑。丸太を倒しただけの橋が架かる、イワナの群れが泳ぐ小川……。

 住む場所を変え、車を変え、時にはバイクに乗ってみたり、線路の上を歩いてみたりしながら色々な場所を見てきた。そんな中で、次にサクラが行きたいと言ったのが、現在向かっている場所だ。実を言うと、いつか連れていきたいと思っていた場所でもある。

 道はやがて、山をぐるりと回り込むようにカーブした下り坂に差し掛かった。

 標高が低くなるたび、助手席側――山とは反対側の緑がまばらになっていく。伸びた木々の隙間からびたガードレールや標識が目立ち始め、次の瞬間、視界がぱっとひらけた。

 空の蒼よりも濃い青が、見渡す限りどこまでも続いている。清々しいほど真っすぐな線で仕切られた青。まるでカッターナイフと定規を使って、そこから下の空を切り取ったかのよう。青は絶え間なく動き続け、見る見るうちにその表情を変えていく。

 サクラは両手を窓枠にのせ、食い入るように外の景色を見ている。濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳。彼女の瞳に、目の前の景色はどう映っているのだろう。


 ――あたし、海に行きたい。センセーと一緒に、海を見てみたい。


 サクラの言葉を思い出しながら、神代はアクセルを踏み込む。

 目的地までは、あと少し。



 幼い頃、よく母に連れてきてもらった『リアス海水浴場』は、相変わらずそこにあった。

 泳いで行ける距離にある岩の小島や砂利浜に打ち上げられた海藻類。道路を挟んで砂利浜の正面にあるさびれた海の家。駐車場から見える海水浴場の景色は、昔と一切変わっていない。この場所は、第四次世界大戦のことも、終末戦争のことも、何もかも知らないようだった。

 エンジンを切って運転席の外に出る。山道を走っていたときには感じなかった暑さが、思い出したかのように襲ってきた。照りつける太陽が目を射してきて、神代は思わず手で光をさえぎる。

 空を仰いでみると、1羽の白い鳥が広大な蒼の中を優雅に滑空しているのが見えた。鳥以外には、鉛色の戦闘機も紅い敵の姿もない。終末戦争がおとぎ話に感じられるほど、見上げた空は平和そのものだった。

 ふいに風が吹き、しょっぱい香りが鼻を突いた。古傷がうずいたような気がして、神代はメガネの上からそっと右目の傷跡を押さえる。

 真っ赤に染まった視界。迫る青海原。鳴り響く警報。思い出すのは撃墜時のこと。

 サクラと出会わなければ、リアス海水浴場へ来ることは二度となかっただろう。

 傷跡から手を離し、ふぅっと短く息を吐く。気を取り直し、駐車場の柵の前で海を眺めているサクラのもとへ。お待たせ、と声をかけると、両手でバスケットを持った彼女がこちらにふり返った。

「ソレ、俺が持つよ」

「いいんです。重くありませんから」

「そう言わずに、ほら」

「じゃあ、お願いします」

 バスケットを受け取ると、「ありがとうございます、センセー」と言ってサクラは笑った。今まで何度も見てきた笑顔に、それでも神代はどきりとしてしまう。この笑顔のためなら、何だってできる。

「あそこに崖が見えるだろう」神代は海岸の左方向を指さした。指の先には、海に突きだした大岩がある。

「ここからじゃ見えないが、実は下に穴が開いていて、向こうに行けるんだ。お昼はあっちで食べよう」

「反対側に何かあるんですか?」

「それは着いてからのお楽しみ」

 この場所が本当に変わっていないのだとしたら、今の時期、サクラに見せたいものが広がっているはずだ。

 駐車場から続く階段を使って砂利浜に下りる。ごろごろとした石が転がる一帯を抜け、いくらか歩きやすくなると、サクラはおもむろにグラディエーターサンダルを脱いだ。サンダルを指にかけ、彼女は渚を歩いていく。

 近くのいそで小さなカニを捕まえたり、貝殻を拾ってみたりしながらゆっくり崖に向かっていると、

「センセ」3歩ほど前を歩いていたサクラがくるりとふり返った。「いっしょに歩きましょ」

 ワンピースのすそがふわりと広がり、遅れて彼女の脚に巻きつく。

 神代は差しだされた手を取り、サクラの隣に並ぶ。指と指が自然に交差し、目が合うと彼女は可愛らしくはにかんだ。

 波と風と石のこすれる音を聞きながら、ふたりきりの砂利浜を一歩いっぽ踏みしめて歩く。サクラが隣にいるだけで、海はもう嫌な場所ではなくなっていた。

 弧を描く砂利浜は、しばらくするとコンクリートの堤防に突き当たった。堤防は陸から海に向かって伸びており、途中までは海に突きだした岩と並走している。サンダルを履いたサクラと堤防にのぼり、目的の場所に向かう。

「洞窟みたい……」

 崖下がけしたのトンネルの前に立ったサクラが零すように言った。

 このトンネルは、人工的なものなのかそうでないのか定かではない。ただサクラの言う通り、洞窟のように見えるのは確かだ。中からコウモリが飛び出してきたとしても、別に違和感はない。

「やっぱり、そうゆう感想になるよな。ごつごつしてるし、薄暗いし」

「それにちょっとだけ不気味……」

 そう言うと、サクラは一歩近づいて神代の腕をつかむ。

 慣れてしまえばなんてこともないトンネルだが、子どもの頃、初めて見たときは同じことを思った。この大きな穴が、ぽっかり空いた地獄の口のように見えて、とてもじゃないがひとりでは中に入れなかった。

「大丈夫だから、安心してついてきな」

 神代はやさしく声をかけ、歩きだす。

 久しぶりに入ったトンネルは、思ったよりも涼しかった。トンネルの中はゆるやかにカーブしており、入り口から徐々に暗くなっていき、中間地点で最も暗く、出口に近づくにつれ明るくなっていく。

 サクラは最初こそフナムシの逃げる音や生乾きの昆布を踏んで驚いていたが、明るくなってきた頃には、恐怖など忘れて岩肌の化石を物珍しそうに眺めていた。

 出口からの塩辛い風に混じって、ほんのり甘い香りが漂ってくる。その香りに神代は胸をなで下ろす。どうやらあの場所は、今も変わっていないらしい。

 一歩進むたびに光が強く、大きくなっていく。暗闇に差し込んだ陽光が、足元から徐々に身体を包み込んでいく。トンネルの先は、まぶしさでまだ見えない。

 外の明るさに目をくらませながら、神代はサクラと共に光の中へ踏みだした。

「――これを、キミに見せたかったんだ」

 赤や桃、白など様々な色をした無数のコスモスが、一面に咲き誇っている。そこは花の楽園。トンネルの先は海辺の庭園へと続いていたのだった。

「うわぁ……!」

 サクラは吸い寄せられるように前へ歩み出る。

「こんなところ、あたし初めて……」

 崖と海によって、外界から切り離された秘密の花園。オーシャンビューのコスモス畑。海に行きたいと聞いたときから、ここに連れてこようと決めていた。

「きれいですね。とってもきれい。ね、センセー」

「ああ、本当にきれいだ」

 少しだけ伸びた栗色の髪が、浜風になびく。透き通った白い肌が、太陽に照らされてまぶしい。この場所は、サクラのために存在していたのだ。色とりどりのコスモスたちは、サクラのために咲いているのだ。

 彼女以外にこの庭園が似合う人はいない、そう思える。

 手入れされず獣道けものみちのようになった散策路を回りながら、神代はコスモス畑の真ん中――イスとテーブルのある『東屋あずまや』まで、サクラをエスコートしていく。その間、サクラは時々立ち止まったりしゃがんだりしながら、興味津々に園内を見回っていた。

「ここは俺にとって大切な場所なんだ。だから、キミに見せたかった」

 コスモス畑の中を歩きながら神代は言う。

 風が吹いて、コスモスが一斉に揺れだした。

「もう二度と、ここに来ることはないと思ってた。キミとだから来れたんだ。キミに出会えて、本当によかった。」

 神代は道の途中で立ち止まり、サクラがふり返るのを待つ。

 濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳がこちらを向いた。風がぴたりと止み、少しの間をおいて神代は微笑む。「ありがとう、サクラ」

 きれいな瞳が、一瞬輝いて揺らいだ。「……ずるいよ、センセイ。」

「どうして、思ってるのと同じこと、センセイが先に言っちゃうんですか。ありがとうって言わなきゃならないのは、あたしなのに。

 出会えてよかったって、そんな、いきなり言われたら……。あたし……もう、わけわかんない」

 涙があふれる寸前、サクラは両手で顔を覆い、うつむいた。肩が不規則に上下し、そのたびにかれた栗色の髪がはらりと垂れる。

 彼女は息を詰まらせながら、

「ほんとうは、海に来るのが恐かったんです。きっと、怖いことたくさん思い出しちゃうから。いっぱい、いっぱい思い出して、海のことが嫌いになっちゃうだろうから。あたし、海を嫌いになりたくなかった」

 流れるものを懸命にぬぐい、サクラは顔をあげる。

「でも、センセーとの海は楽しくて。楽しかったあの頃のままで。

 センセーがいたから、海を、好きな場所を、好きなままでいられるんです」

 揺らぐ瞳をもう一度ぬぐって、彼女は真っすぐな瞳で神代を見る。次の瞬間、また風が吹き、今度は花の香りが一気に咲いた。

 満開のコスモスの中、サクラはまぶしく笑う。


「あたしのセンセイになってくれて、ありがとうございます。センセー」


 パリィっという、何かの映画で観た閃光電球のフラッシュ音がどこかで聞こえ、神代の心にサクラの笑顔が焼きつく。

 絶対に、今日のことを忘れたりはしない。例え世界が終わろうと、この命が消えようと、サクラとの記憶だけは自分の中にずっと残り続けるだろう。

「行きましょ、センセ」

 恥ずかしそうに笑うサクラの言葉で、神代は今が東屋に向かっている途中だったことを思い出す。

「あたし、お腹すいちゃいました」

 おどけるサクラと手を繋ぎ、道の続きを歩み始める。

 ふと空を見上げると、1羽だった白い鳥がいつの間にか2羽になっていた。白い鳥たちは翼をならべ、青い海の彼方へと飛んでいく。

 戦いなんてどこにもない、穏やかな時間だけが海辺の庭園には流れていた。

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