1F中央ホールにて、交差。8月24日
一般教室を改装した部屋は、幸いにも最後に見たときと何ひとつとして変わっていなかった。窓ガラスも割れていなければ、黒板についたチョークの粉もそのまま残っている。
今日まで続いていたものは、
桜高から出る準備をするため、神代はパイプベッドわきの事務机へと向かう。机の下に潜り込み、そこから『非常用バッグ』を引っ張り出す。この中にはウォーターバッグや銀色の保温シート、7日分のレーションと水、救急セット、予備の
机の上にボストンバッグを広げ、中身を移し替えていく。その途中、気がつけば弾のなくなっていた
事務机の一番下の引き出しを開け、そこから『2リットルの水』や『パック飯』、『カロリーバー』などをバッグに詰める。次の補給はいつになるか分からない。入るだけの量を持っていく。
衣服や消耗品など、その他諸々は、放棄されたエリアから調達すればいい。多くの国民が消滅し、今や領土の約8割が無人化しつつあるこの国。着替えなんかは余るほど手に入るだろう。泊まる場所も同じで、探せばいくらでもあるはず。言ってしまえば、十分な食料さえあればどこでも生きていけるのだ。
ボストンバッグのファスナーを閉める。
ここからの脱出には、前に洗車した軽装甲機動車“ラヴィ”を使おうと考えている。周りに何もない桜高。ここから出るにはそれしかない。問題は、桜高の人間――特に
ポケットの中のケータイを机に置き、代わりに拳銃を手に取る。一瞬だけ感情を消し、弾丸を装填する。
「それじゃあ、次はキミの部屋に行こう」
気持ちを切り替え、神代は待たせていたサクラに声をかける。見ると、彼女はベッドに放っておいた空の
「いいんです」
うっすらと消毒液の臭いがするサクラの部屋。保健室にあった彼女らしいものと言えば、本くらいしか思い浮かばない。しかし、その本はすべて図書室から借りてきたもので、私物ではない。もっと言ってしまうと、部屋にある机もベッドも歯ブラシも、彼女自身でさえ今は軍の所有物なのだ。
以前のサクラがどんな生活をしていたのかは分からない。だが、桜高には普通の女の子としての居場所などなかったのだろう。
「じゃあ、コレを持っていくといい」
神代は一番上の引き出しを開け、中に入れておいたものをサクラに手渡す。
「本、ですか?」
「ただの本じゃないよ」
「……あっ!」表紙を見たサクラが小さく声を上げた。
ハードカバーの分厚い小説。図書室には置いていない、サクラが好きな作品の続編。初めて会った日に、彼女が書架から取ろうとしていた本の続き。
何を隠そう、コレは元から彼女にあげるつもりだったのだ。
腕時計を見る。日付変更まで、あと数秒。
……3、2、1。
すべての針が一斉にてっぺんをさした。明日は今日になり、日付は“8月24日”に変わる。
「18歳の誕生日、おめでとう」
誰がなんと言おうが、今がどんな状況であろうが、今日はめでたい。誕生日であり、新しい門出の日なのだから。だから、サクラには笑ってほしかった。
「そっか。今日って……」表紙を見つめたまま、サクラは言う。「うれしい。あたし、とってもうれしいです」彼女は
濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳の中に神代が映った。
「ありがとうございます、センセー」
ほんのり赤くなった頬と耳。はにかみながらも、サクラは確かに笑っていた。
「さて、これからどこに行こうか」
ボストンバッグと拳銃を手に持って神代は言う。
今からはサクラの好きな場所へ旅することができる。彼女が行ったことのない場所へ行ける。狭苦しい学校なんて飛び出して、まだ知らない世界と出会うことができるのだ。
「どこへでも」少し弾んだ声でサクラが言った。「センセーとなら、どこへでも」
割れたガラスや何かの破片が散らばる廊下を、サクラを連れて無言のまま歩く。
教室の中から、電気の消えた自動販売機の影から、そして廊下の端から。今にも宮守
天井からぶら下がる、導線のはみ出た蛍光灯。壁に残る無数の
いつ宮守先輩が出てきてもおかしくない状況。慎重に、けれど急いで先へと進む。
角を曲がり、サクラが1階から上ってきたという階段へ。階段を封鎖していた分厚い防壁はどこにもなく、無数の小さな立方体だけが床に散らばっていた。
サクラによって無力化された防壁――散乱する金属のキューブ――に
何事もなく1階に到着すると、そこは保健室の目の前だった。
開け放たれたスライドドアの向こうにサクラの部屋が見える。窓ガラスは割れ、カーテンは裂け、パイプベッドはひっくり返っている。床には教科書の残骸、寝具からこぼれた羽毛などが雪の如く積もっていた。その白い雪に埋もれる黒い布。否、Sシリーズのブラックセーラー服。神代は黙ったまま視線を切って通り過ぎる。
保健室から続く廊下は、蛍光灯が点いていないにもかかわらず明るい。廊下に散らばった窓ガラスの破片が、宙を舞う火の粉のようにチラチラと光っている。校内は中央ホールから差し込む炎光により、オレンジと黒で染まっていた。
風向きのおかげか、中に煙は入ってきていない。火薬とモノの焼ける臭いがするのみだ。
遠くからぱちぱちと炎の爆ぜる音が聞こえる。それ以外は、虫の音も人の声もしない。桜高は不気味な静寂に包まれていた。
ほどなくして、職員玄関にたどり着く。しかし、ロビーから外へと繋がる自動ドアは開かない。きっと停電のせいだろう、無理に突破することはせずに昇降口へと足先を変える。
昇降口は職員玄関のすぐ横、中央ホールからは廊下を挟んだ向かいにある。たった数メートルの距離、外に出られるのならどちらでも構わない。
あと少し、もう少し。校舎から出られさえすれば、車は問題なく盗める。例えエンジン音に気づかれたとしても、走りだした車は誰にも止められはしない。職員玄関から見えた校門は開いていたし、外には誰も――外部から援軍が来る気配もない。
ここまで来れば大丈夫。
無事に脱出できたも同然だ。
思わず気を緩めた、そのときだった。
「――んなモン持って、どこ行くつもり?」
中央ホールに置かれた銅像から声がした。
緊張が雷のように全身を駆け抜け、びくりと身体が
夕焼け色に照らされた銅像が廊下に落とす真っ黒な影。その中に何者かがいる。台座にもたれて座っていた何者かが、「うっ」と小さく
黒の世界からオレンジの世界へ。一歩踏み出し、そいつは光の中に出てきた。
そこにいたのは、オペレーター三人娘のひとり、
「今は……、あんたなんかに構ってるヒマなんて、ないのに……」苦しそうな声で伊代月は呟く。よく見ると、彼女の左肩には
「逃げるのか、
「そうだ」
伊代月の目をしっかりと見、神代は答える。
「俺は、サクラと一緒にここから出る」
「んなことしたらどうなるのか……、あんた、分かってるわけ?」
「分かってる」
残り1体とは言え、スフィア型キュウタァの潜在能力は未知数だ。先の作戦で消耗した連合軍の防衛力だけで、37,000,000人もの国民を護りきれるとは到底思えない。
もし、サクラがいない間にキュウタァが攻めてきたとしたら、この国は致命的な被害を受けるだろう。でも、そんなことはどうでもいい。顔も名前も知らない大勢の人間より、サクラを護れるのならそれでいい。
「そこをどいてくれ」
「……ざけんな。ふざけんなっ!」伊代月は
「……、」
「いいか? 消えちまった人間はな、いくら願ったって戻って来ねェんだよ!」
廊下に怒号が轟き、伊代月の右腕が弧を描くようにゆっくりと上がっていく。
「……やっぱり、あんたはウチの大切な人を傷つける。そんなの、絶対に許さない」
彼女の手の中にあった拳銃が、真っすぐ神代に向けられた。
「センセッ!」後ろでサクラが叫ぶ。
前に出ようとするサクラを腕で制止し、神代は伊代月と対峙する。
「
悔しいけど、ウチの力だけじゃミクルちゃんとマイヒメを護れない。だから、人の心を失くしてでも、吉野サクラを決戦兵器として戦わせる。ハッキリ言って、あんたは邪魔なんだよ。ふたりを護るために、ウチはあんたを殺す」
ガチャリと撃鉄を起こして、
「いつかこうなることは、どっかで分かってた。あんたとは一度ケリをつけたかったんだ。
これが最後通告だ、少尉。吉野サクラを置いて、桜高から去れ!」
ぽたり、ぽたりと廊下に落ちる血。波紋が広がり、血だまりが大きくなっていく。
肩で息をしながら、歯を食いしばりながら、伊代月は神代を狙う。
「悪いけど、そういうわけにはいかない」言いながら、神代も伊代月にピストルを向ける。
「サクラには、誰かのためじゃなく自分のために生きてほしい。自分のために生きて、自分だけの幸せを見つけて欲しいんだ。キミがふたりを想うように、俺もサクラを想ってる。だから、ここを去るときはサクラも一緒だ」
ボストンバッグから手を離し、両手でピストルを構え、
「頼むから、そこをどいてくれ」
「……チッ!」舌打ちと共に、伊代月の目がかあっと見開かれた。
「それが貴様の答えか。ならば――、
そのとき、強い風が吹いた。硝煙の臭いと炎の温度をはらんだ強い風が。風はビュゥウッと音を立てて、神代の背中を押すように吹き抜けていく。
体育館を喰らうオレンジの光が、大きくゆらめいた。
――ならば、ここで死ね。」
同時に、ふたつの拳銃が火を吹いた。
乾いた炸裂音と重々しい金属音が校内に響き渡る。
放たれた弾丸は空中ですれ違い、それぞれの目標へ一直線に向かっていく。
それは、一瞬の出来事だった。
つうっ、と神代の頬を鉄臭い液体が流れ、遅れて、伊代月の後方に彼女が持っていた拳銃が落下する。
神代の弾丸は伊代月の拳銃を吹き飛ばし、伊代月の弾丸は神代の頬をかすめたのだった。
風が過ぎ去り、桜高に再び静寂が訪れる。
神代はピストルを構えたまま動かない。やがて、伊代月が
「――殺せなかった。ちゃんと、狙ったはずなのに……」神代を
「サイアク。あんたに関わると、ロクなことがない……」荒い呼吸の合間、うなだれた伊代月から震えた声が吐き出される。「……ごめん。ミクルちゃん、マイヒメ。ウチ、ふたりを護れなかった」
傷に当てられた手が、肩を鷲掴むように爪を立てた。指と指の間から血が
神代は静かに銃口を下げ、頭だけ動かして後ろのサクラに声をかける。「少しだけ、待っててくれ」
サクラがこくりと頷いたのを見、ボストンバッグを開ける。救急セットからチャック付きの小さな袋――“止血剤”を取り出し、それを持って伊代月のもとに向かう。
うつむく伊代月の前にしゃがみ込み、彼女の前に袋を置いた瞬間、
「あんたの情けなんていらないっ!」
止血剤は手で払われ、下駄箱にぶつかってくしゃりと音を立てた。
神代は黙って拾いに行き、もう一度、伊代月の前に置く。
「チッ!」神代の胸倉めがけて、伊代月の右手が伸びた。
しかし、その血だらけの手が神代に届くことはなかった。
「死んだ人間は、決して生き返らない」
伊代月の手首を掴んだまま神代は言う。
「死んじゃったら、なんにもならないだろ」
伊代月の目が大きく見開かれた。丸い瞳が二度、三度と左右に揺れ、彼女は物言いたげに口を開く。しかし、すぐに下唇を噛んで顔を背けた。
神代は掴んでいた手首を離し、血で濡れた手を握りしめて立ち上がる。
「行こう、サクラ」
ボストンバッグ片手に、血がついていない方の手をサクラに差しだす。
「はい」小さくて繊細な指が、手の上に重なった。離してしまわぬようしっかりと握って歩きだす。
一歩いっぽ確実に、踏みしめながら歩く。暗い出口、夜明け前の外を目指して。
緊張はいつの間にかどこかに行ってしまっていた。今は、手の中のぬくもりしか感じない。
沈黙した伊代月の横を通り過ぎ、銅像が落とす影の中へ足を踏み入れる。光の中から闇の中へ。もう一歩踏み出したそのとき、「……右の、前タイヤの裏」後方でぼそりと声がした。
「3日前……、宮守准佐が、何かを仕掛けていた」
進行方向に目を向けたまま、神代は足を止める。
オレンジ色に染まった伊代月の背中と、黒色に染まった神代の背中が対峙した。
「……勘違いしないで。別に、あんたのためじゃない。そのツラをもう二度と見たくないだけだ」
「……、」
「すぐに連れ戻されてみろ。今度こそ、確実に――」
――ぶっ殺してやる。
口元が思わずほころぶ。
緩んだ口を引き締め直し、神代は言った。
「肝に銘じておく。ありがとう」
伊代月は何も答えない。
ただ小さな舌打ちだけが、闇に響いて消えた。
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