サクラ最前線
弐護山 ゐち期
とある病室にて、拉致。3月20日
軍病院のベッドで目覚めたとき、視界がピンボケしていた。
見回りにきた看護官にそのことを訊ねると『それは麻酔のせいですね。じきに回復しますよ』と心電図モニターを確認しながら説明してくれた。
右目が真っ暗で何も見えないことを訊くと『それは包帯を巻いているからです。痛みが出てきたらナースコールを押してくださいね』と点滴をいじりながら答えてくれた。
それから数日が経ち、右目の包帯は無事に取れた。目には光が戻ってきたが、視力はいつまで経っても回復しなかった。
最後の診察のとき、医官は涼しげな顔で言った。『右の視力ですが、残念ながら回復の見込みはないでしょう。でも、安心してください。メガネで矯正してやれば日常生活には何ら問題はありませんから』
そんなわけで、現在も右目だけはピンボケしたままになっている。
退院の手続きに行った看護官はまだ帰ってこない。身じたくはとっくに済んでいて、やれることがあるとすれば、支給されたメガネをかけてみることぐらいだ。
ボストンバッグからケースを取り出し、病室備え付けの洗面台の前でメガネをつけてみる。
検査時以外はケースにしまったままのメガネ。鏡に映った自分を見て、その昔、母に言われたことを思い出す。
――あんたの低い鼻に、メガネなんて似合わない。
その言葉通り、全く似合っていなかった。
気丈な性格だった母は、6年前、戦禍に巻き込まれて亡くなった。厳密には、亡くなったと聞かされた。
遺体は見つかっていない。きっと、もう見つかることはないだろう。女手ひとつで男子を育て上げ、最期は独りで世界から消えていったであろう母のことを思うと、とてもやるせない気持ちになる。
「失礼します。
机の上でバッグの中身を再確認していると、一人しかいない大部屋を仕切るカーテンを開けて別の看護官が入ってきた。
「少尉宛に郵便が来ていましたので、持ってまいりました」
「えっ……」てっきり退院手続き完了の知らせだと思っていた神代は、予想外の言葉にぎょっとする。
「どうかしましたか?」
「あっ、いや別に。どうもご苦労様」
「それでは、失礼します」
看護官から手渡されたのは、薄緑色の封筒だった。それも市販品ではなく、統合軍専用の封筒だ。
負傷兵、しかも右目の視力のほとんどを失った飛行士への封筒。嫌でも『除隊勧告』の四文字が頭をよぎってしまう。
一度大きく深呼吸をしてから、神代は恐る恐る封筒を開く。
『元気かい、神代。』
中には一枚の手紙が入っていた。
送り主は士官学校時代の先輩だった。
『結局、最後の最後まで見舞いに行けず、本当に申し訳ない。キミが無事に退院できることを嬉しく思うよ。
ところで、怪我の具合はどうだい? 報告は受けているんだが、事が事だから心配でね。レポートだけじゃなく、是非ともキミの口から聞きたいものだ。そこで、いきなりで悪いんだけど、迎えをやるから今すぐこっちに来たまえ。ボクは会いに行けないけど、その逆なら可能だからね。
別に構わないだろう? 病院食にも飽きた頃だろうし、ウマいものでも用意しておくからさ。久しぶりに会って話をしようじゃないか。
それと、もうひとつ。こっちのほうが重要なんだけど、すでに手遅れだったらすまない。部下に代わって先に謝っておくよ。
只今からキミを――』
カチャリ。
そのとき、背後で音がした。
神代は手紙から顔を上げ、後ろをふり返る。
そこには特殊部隊員のような格好をした兵士がいた。人数は三人で、うち二人はこちらにアサルトライフルを向けている。フェイスマスクで顔を隠しており、表情はうかがえない。
手ぶらの、恐らくリーダーであろう兵士が、あごで「前を向け」と指示してきた。神代は大人しく両手を挙げ、前を向く。
次の瞬間、背後から頭に袋をかぶせられた。視界を奪われ、次いで後ろに腕を回される。しかし、ただでやられる神代ではない。
こいつを人質にしてしまえば、たとえ3対1でも……!
感覚と気配で相手の位置を察知し、逆に腕を捻り上げる。
「いたたたたた! 何よっ、抵抗しないって話じゃなかったのぉ!」
襲撃者の声を耳にした瞬間、神代の動きが鈍った。
この声は、女? しかも戦闘員らしくない。まさか、こいつらが迎えなのか!?
一瞬の動揺と戸惑いが、大きな隙となる。
「貴様ァッ! ミクルちゃんを離せぇぇぇッ!」
ごんっという鈍い音と共に、後頭部に鋭い衝撃が走った。
軽いめまいがして、ぐらりと足元が揺れる。
前のめりに倒れた先は、幸いにもやわらかく、どうやらベッドの上らしかった。
「ツバキ先輩、ひどいッスよぉ! 少尉殿をライフルで殴るなんて!」
「うっ、うるさい! こいつが悪いんだ! つーか、名前で呼ぶな! マイヒメ! 身元がバレるだろう!」
「せ、先輩だってぇ~!」
只今からキミを、その先にはなんと書いてあったのだろう。神代はうまく働かない頭で考える。
これが“迎え”だとするならば、少々手荒すぎはしないだろうか。せめて、手紙を読みきるまで待っていてほしかった。
ベッドに手をつき、半ば反射的に立ち上がろうとしたそのとき、
「あぁ、もうっ! めんどくさい!」
ゴガッ!
再び後頭部に鋭い衝撃が走り、薄れていた神代の意識は完全に消失する。
気を失った神代の手から、読みかけの手紙が零れ落ちた。
『――只今からキミを拘束、機密保持のために目隠しをさせてもらう。病み上がりだとは思うが我慢してくれ。
一応、丁重にとは言ってある。けれど、それもキミ次第。いいかい? くれぐれも抵抗などしないように。
それじゃあ、道中気をつけて来たまえ』
遅すぎる忠告がひらひら舞って、病室の床でカサリと音を立てた。
病室を襲撃されてから、実に1分足らずの出来事であった。
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