1F保健室にて、卒業。3月9日
旧海防隊の儀礼服を着た
久しぶりに訪れた保健室は、軟禁されていたときに掃除してから何ひとつとして変わっていない。焦げた天井、
今にも泣き出しそうだった鉛色の空が、ついに雪を降らせ始めた。窓の外では、純白の結晶がひらひらと宙を舞っている。
決戦から今日で77日が経つ。いってきます、と笑顔で飛び立ったサクラは、まだ帰ってきていない。
戦争が終わり、世界は変わった。季節がめぐり始め、人々の時間も動きだした。戦う理由も、戦う必要もなくなった。傷だらけの世界は修復され、未知の敵は消えた。だが、サクラは帰ってこない。
四度目の世界大戦。禁断の炎による大量破壊。世界の破滅と終末。人類が犯した過ちをキュウタァが正し、サクラは人類のために戦って消えた。
彼女はどんな夢を抱きながら出撃していったのだろう。彼女の抱いた夢は、もう叶わない。いや、最初から叶うことなどなかったのかもしれない。
チヌルクで再会した時、残されていた選択肢はすでに“出撃”以外になかった。サクラの意思とは関係なく、彼女がキュウタァとの決戦に臨むことは決定事項だった。
どうすればこんな結末にならずに済んだのか、いくら考えても分からない。いくらシミュレーションしてみても、結果はすべて同じになってしまう。それがとてもやるせなくてつらい。
サクラがいた夏を頭の中で何度も繰り返し、
希望を託した明日が、幾度となく今日になった。何度も心がダメになりかけた。でも、それでも、ずっと彼女の帰りを待ち続けてきた。
統合軍を辞め、生活のほとんどを費やしてサクラを探した。思い当たる場所を片っ端から巡った。各地に点在する避難区へも行った。進入禁止区域にも潜り込んだ。
“ただいま”の声が聴きたくて、もう一度聴けると信じて、今日まで探し続けてきた。
桜高は探すべき最後の場所だ。ここにいなければ、もうどこにもいない。サクラが帰ってくることは二度とない。そうと分かっていたから、今まで足が遠のいていた。
絶望を知るのが嫌だった。残酷な現実を思い知るのが怖かった。だから、ずっと逃げてきた。
本当は自分でも分かっていたのだ。事実を認めたくないだけなのだと。いつか必ず、目を背けてきた現実と向き合う日が来る。そんな予感めいた確信が心のどこかにあった。その“いつか”は、今日だった。
今日、桜高に来たのには理由がある。それはサクラに渡さなければならないモノがあるからだ。
軍を除隊したとき、差出人不明の小包を受け取った。必ず厳守するよう指示された開封日は今日――3月9日。中を見てすぐに車を走らせた。気づけば頭より先に身体が動いていた。
右手には今、小包の中身がある。国立
きらりと金色に輝く“卒業証書”の文字を見て思う。これが無ければ、桜高はおろか保健室――サクラの部屋に来ることなど絶対にできなかっただろう。
本日、サクラはこの高校から卒業し、すべての任を終える。軍の束縛から解き放たれ、普通の女の子に戻る。
ケリをつける時が来たのだ。桜高での学校生活にも、ふたりだけの学活にも、帰りを待ち続ける日々にも。
ふいに風鳴りが聞こえ、割れた窓を通って冷たい風が吹き込んできた。もともと低い室温がさらに下がり、神代は心の中で
静かに降る雪はほろほろと地面に落ち、溶けて黒いシミとなっていく。神代は短く深呼吸し、窓の外から保健室の中に視線を戻す。
ふり返った正面に、サクラが使っていた机が置いてある。部屋の準備を整えてから覚悟を決めるまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。ゆっくりと歩み寄り、ホルダーを開く。
『第1号
卒業証書
高等学校特務科の全課程を修了したことを証する
国立桜連高等学校長
丁寧に読み上げて静かに閉じる。
全体を半回転させ、「卒業おめでとう、サクラ」手渡す代わりに机の上に置く。
「もう大丈夫。全部終わったんだ。だから、安心してゆっくり帰っておいで。俺は、キミのことをいつまでも想ってる。本当に、今まで……よく頑張ったな」
ありがとう、と言い切った瞬間、押しとどめていたものが一気に溢れ出してきた。
心にぽっかり空いた穴が、愛おしさで埋まっていく。今まで押し殺してきた寂しさが、切なく胸を締め付ける。
この世界からサクラは消えた。跡形もなく消えた。あの笑顔はもう二度と見れない。楽しそうにはしゃぐ声も、安らかな寝息も、腕の中のぬくもりも全部消えてしまった。
キミはいつも笑っていた。すねることも、怒ることもあったけれど、最後には笑ってくれた。
ありがとう。一緒にいてくれて。キミの時間をわけてくれて。好きだと言ってくれて。
本が大好きなところも、何でもおいしそうに食べるところも、自分よりも人のことに一生懸命なところも、全部好きだった。
もし、ひとつだけ願いが叶うなら、もう一度顔を見たい、声が聴きたい。お疲れ様と言って強く抱きしめたい。少しでいい、ひと目でいいから会って話がしたい。
身を焦がす想いは際限なく、どんどん大きくなっていく。
胸が苦しい。息が震えてうまく呼吸ができない。このままでは窒息してしまいそうだ。
これは罰なのかもしれない。何もできなかったことに対する罰。結局、母もサクラも
神代は震える手でメガネを外し、折りたたんで卒業証書の隣に並べる。紺色のホルダーにサクラの瞳を重ね、指先でやさしくなでる。「さようなら、サクラ。またな」
勢いのまま歩き出す。決して後ろをふり返ることはしない。ここで立ち止まってしまったら、すべてがムダになってしまう。こんな機会が訪れることはもう絶対にない。
保健室から出、後ろ手でスライドドアを閉める。全身からどっと力が抜け、神代は思わずドアにもたれかかって天井を仰ぐ。腰に着けた母の形見が、思い出したように自らの重さを主張し始めた。右手に取って、そのままその場にへたり込む。
身体も頭も鉛のように重い。これからの人生を考えるだけで、絶望に似た感情が湧いてくる。
つらい。苦しい。寂しい。もうヘトヘトだ。すべてを投げ出せたらどんなにいいだろう。でも、そんな権利持っちゃいない。生きる義務からは逃れられない。しかし、分かっていても楽になりたいと願ってしまう自分がいる。解放されたいと思ってしまう。今までだってそうだった。きっと、これからもそうだ。この感情を消さずして、生きていくのは難しい。だから、もし会えたら、と考えるのはこれで最後にしよう。
もし会えたなら、キミはどんな顔をするだろうか。怒るだろうか、それとも
最後にひとつだけワガママを言わせてくれ。そうしたらこの気持ちは永遠に
「俺は、キミに会いたい……」
左手で重いスライドを引き、初弾を装填する。ゆっくりとピストルを持ち上げ、銃身を口に押し込んで強く噛みしめる。
今日を確実に生き、明日を待ち続けるために、今ここで未練を絶つ。
――今、迎えに行くよ。サクラ。
撃鉄が振り下ろされ、鞭打たれた黒い獣が牙をむいた。冷えきった廊下に神代の体温が広がって、ふたつの温度がじんわりと混ざり合う。
曇り空の下で桜高は息をひそめ、窓の向こうではしんしんと、舞い散る花びらのような雪が降り続いていた。
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