リアス海沖 決戦海域にて、サクラ最前線

 気持ちいいくらい澄み渡った空に、純白の雲が流れている。

 世界は徐々に季節を取り戻しているようで、凛とした冷たさが身体から体温を奪っていく。

 ハマナツ分校のグラウンドは、桜高のものよりひと回りほど小さい。両端にメッキの剥がれたサッカーゴールが放置され、隅には錆びた鉄棒が並び、グラウンドを囲む木々は黒い枝を四方に伸ばしている。

 ここに、もうすぐ迎えが来る。もうすぐ、サクラに会える。

 ずっと前からこの時を待っていた。そのはずなのに、今は何故だか無性むしょうに怖い。

「どうすればいい……」

 蒼い空に向かってぽつり呟いてみる。

 どうすれば、サクラは幸せになれる。

 最後に見た鏡の中の自分は、ずいぶんとひどい顔をしていた。きっと今だってそうだろう。胸では不安がとぐろを巻き、心臓は焦燥しょうそうに締め付けられている。

 昨夜は人生で一番長い夜だった。一睡もせずに今日のことを考えた。

 サクラには幸せになってほしい。だから、キュウタァと戦ってほしくない。この国の犠牲になってほしくない。これは心の底から思っていることだ。一方で、自分の気持ちを押し付けているだけなのではないかとも考えてしまう。

 そもそもサクラの幸せってなんだ。戦わないことなのか。戦場へ行かないことなのか。出撃を阻止したいのは本当にサクラのためなのだろうか。彼女を失いたくないからなんじゃないか。

 自分がすべきことはなんだ。したいこと。すべきこと。やろうとしているのはどっちだ。

 サクラが自ら連合に捕まった理由。それが分からないほど鈍くはない。その昔、母の反対を押し切って士官学校に入った。あのときの気持ちは今でも鮮明に覚えている。だからこそ、どうすればいいのか分からない。

 戦ってほしくない自分がいる。なぜ戦うのか分かる自分がいる。

 何をすべきか見極めるためにサクラに会いたい。富嶽ふがく中将との面会で口にした偽りの言葉は、今となってみれば真実だったらしい。

 あのとき、母はこんな思いでいたのだろうか。今ならば、入軍に反対していた母の気持ちが少し分かる気がする。

「どうすればいいんだ……」

 もう一度、天に問いかけてみる。案の定、答えは返って来ない。

 ふいに後ろから風が吹き、切ったばかりの髪が揺れた。風に乗って、聞き覚えのあるプロペラ音が聞こえてくる。

 神代かみしろは音のする方にふり返り、メガネの位置を直しながら空を見上げる。

 大型輸送ヘリ“チヌルク”が、こちらに向かって飛んできていた。

 機影はだんだん大きくなり、それにつれて風もいっそう強くなる。音はやがて爆音に変わり、周囲で粉塵ふんじんが吹き飛び始めた。

 エンジンからの排気熱。高熱に揺れる空気。音を斬り裂くローターブレード。

 機首をこちらに向けたチヌルクが、グラウンドに舞い降りる。

 サクラを幸せにするための答えはまだ見つからない。しかし、考えている時間はもうない。



 12月24日8時00分――約束の時が来た。



 外から見えるコックピットに操縦士の姿はない。

 回転翼の爆音に混じり、ウィーーンという駆動音が聞こえた。後部ハッチが開放され、機内への道が開く。神代は機体後部に回り込み、風圧に逆らいながらチヌルクに乗り込む。

 チヌルクの機内――貨物室は薄暗かった。機体横の丸窓と出窓バブルウインドウは防音材で塞がれており、中を照らすのはコックピットから差し込む光だけ。座席は向かい合うように設置された2席しかなく、そのどちらにもサクラは座っていない。

 見ると、一方の座席にヘッドセットが置いてあった。着けろ、ということだろう。無言の命令に従い、神代はヘッドセットを装着する。

『……あー、ああー。マイクテス、マイクテス。聞こえるかい? こちら宮守みやもり。』

 着けるや否や、スピーカーから能天気な声が流れてきた。

 久しぶりに聞いた軽い口調。声の主はマイクの向こうでいつも通り笑っているらしい。ニヤニヤと引き締まらない、ゆるみきった宮守の顔が目に浮かぶ。

『聞こえているのなら、操縦席まで来たまえ。少し話をしようじゃないか。キミとボクとで話せるのは、これが最後になるかもしれないからね。』

「最後って……?」訊いてみるも、こちらの声は向こうに届かない。

 マイクをミュートに設定されているようで、一方通行な会話が続く。

『上司として、先輩として、最後に伝えておくことがあるんだ。なぁに、吉野よしのサクラにはすぐに会えるさ。心配しないで早く来たまえ。座ったらシートベルトをちゃんと締めるんだよ。そうじゃないと出発できないからね』

 神代は言われるがままコックピットに向かい、着席してシートベルトを締める。ピーッという電子音が鳴り、ベルトが自動でロックされた。

 後部ハッチが閉められ、まもなくして機体の上昇が始まる。上昇しだしてすぐ、丘の下の港が見えた。昨日あれほど停泊していた艦艇は1隻も見当たらない。港はただの寂れた漁港に戻っていた。

 操縦桿そうじゅうかんがひとりでに動きだし、チヌルクは眼前に広がる海へと進み始める。

『さぁ~て、何から話したもんかね。とりあえず、ボクの状況を教えておこうか。

 ボクは今、海上からこの発信を行っている。特殊S作戦O指揮所Cが特務艦に移設されてね。統合艦隊と一緒に最終防衛ライン――決戦海域へ移動中さ。

 母なる大地は遥か後方へ。今日から晴れて前線勤務というわけだ。』

 はっはっは、と宮守は何故か楽しそうに笑う。

 その話しぶりからは、前線へ向かう恐怖など微塵も感じない。声に余裕があり、この状況を楽しんでいるのかとさえ思えてくる。

『前も後ろも、右も左も、見渡す限り軍艦、軍艦、軍艦! 下には潜水艦群、上には航空機大隊! 音楽隊の連中が近くの空母でコンサートをやっててさ、こっちはお祭り騒ぎだよ。早くキミにも見せてあげたいなぁ。』

 桐ヶ谷きりがやたちも来ればよかったのに、と宮守は言う。

『ていうのも、指揮所ここ、人間はボクひとりだけなんだよね。他はぜーんぶコンピューター。初めての前線、初めてのワンオペレーション。こんな無茶ぶり、企業だったら確実にブラックだよねぇ。ま、ワンオペとは言っても、戦術の最終承認と支援攻撃の指揮だけだから、楽っちゃ楽なんだけど。吉野サクラに指示しないぶん、肩の荷は軽いよ。はっはっは』

 だとしたら、宮守はたった独りでマルチモニターの前にいるのだろうか。

 ゲームコントローラーを手に、誰もいない指揮所から、監視シーカードローンと同じ要領でチヌルクを操縦しているのだろうか。

 単独での作戦指揮。宮守ならきっと難なくやってのけるだろう。ゲームをクリアするかのように軽々と。

 やがて足下の窓から、薄れゆく無数の曳波ひきなみが見えてきた。一面の青を白く泡立たせ、その白波はずっと遠くまで続いている。統合艦隊の軌跡が青海原に深く刻まれていた。

『前置きはここら辺にしといて。それじゃあ、本題に入るとしよう。まず、キミの上司として伝える。

 本日、12月24日付をもって、国立桜連おうれん高等学校教諭の任を解く。

 今日でキミの役目は終了だ。ご苦労様。吉野サクラを今日まで導いてくれたことに感謝する。色々言いたいことはあるだろうけど、それは最終決戦が終わってから聞いてあげるよ。一発だけなら殴ってくれてもいい。今度は気絶させたりしないからさ』

 宮守の言葉を聞いて、神代は謎が解けたような気持ちになる。

 やはり、すべては仕組まれていたのだ。最初から――サクラとの出会いからすべて。

 そのことには薄々気づいていた。だから、今さら何とも思わない。

 確かにきっかけは仕組まれたものかもしれない。でも、ここまで来たのは自分の選択と行動だ。始まりは偽物だったとしても、サクラを想うこの気持ちだけは本物だ。

『んじゃ、次に先輩として言わせてもらう。

 キミはもうすぐ重大な決断を下すことになるだろう。その決断はキミの人生を、いや、人類の運命をも左右する。後にも先にも、こんな決断をすることは絶対にない。

 セーブもコンテニューもない一回勝負。間違いなく、今日がキミの人生にとっての大一番だ。

 でも、だからって深刻になることはないぜ。成るようになるし、成るようにしかならない。結果はすでに決まっている。大切なのはそれを受け入れられるかどうかだ。

 迷ったときは頭で考えるな。感情的にもなるな。飛行士なら冷静に、常に冷静でいろ。その時になれば頭より先に身体が動く。もし動かなければ自分の直感を信じろ。

 怖がらなくていい。別に失敗してもいいんだ。ボクはキミの選択を尊重するよ』

 真面目な様子で語る宮守に、この人は本当に先輩だったんだ、と神代は思う。

 士官学校から現在いまに至るまで、宮守がこんなにも先輩らしかったことは一度だってなかった。

『さてと。予定通り到着したみたいだね』その言葉と共に、貨物室で何かが駆動し始めた。潮の香りを乗せた風が吹いてきて、機内に響くプロペラ音が次第に大きくなっていく。

『それじゃあ、最後にひとつだけ教えてあげるよ。バレたら富嶽中将に怒られそうだけど、バレなきゃいいよね。』

 そのとき、編隊を組んだ戦闘機がチヌルクを追い越していった。アフターバーナーの爆音が遅れて到達し、チヌルク全体を震わせる。

 神代は宮守の言葉がかき消されないよう、ヘッドセットを手で抑え耳をすます。

『つ……きほど、吉野サクラにトリガー……が投……れた。もういち……うぞ、神代。………はすでに決まっている。だから、キミのけつ……がどうであれ、吉野サクラはしゅ……きすることになる。

 彼女を……っているのなら、しっ……と送り出してやれ。大切なのは……かを受け入れられるかどうかだ……』

 バーナーの余韻が静まり、

『グッドラック、神代。機会があればまたどこかで会おう。以上、通信を終了する』

 結局、最後に宮守が伝えようとしたことは聞き取れなかった。大事なことはいつもほのめかすだけ。先輩は、最後の最後まであの人らしかった。

 電子音が聞こえ、シートベルトのロックが解除される。

 気づくと風は止んでいた。神代は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。

 近くにサクラを感じる。きっと、後ろの貨物室にいるのだろう。1ヶ月半ぶりの再会。不安からか緊張からか、胸の鼓動が高鳴っている。

 目を開くと、海の彼方に無数の艦影が見えた。どうやら統合艦隊に追いついたらしい。まだ空は蒼く、キュウタァの紅い色に染め尽くされてはいない。

 心を決めて立ち上がる。

 ふり向くと、明かりの点いた貨物室にサクラがいた。

『お久しぶりです、センセ』少しはにかみながらサクラが言う。

『やっと会えた。あたし、ずっとずっと会いたかったんですから』

「サクラ……」

『こっち来て座ってくださいよ。センセーの顔、もっと近くで見せてください』

 サクラの声はヘッドセットのスピーカーから聞こえてくる。しかし、彼女はヘッドセットを着けていない。

 神代は壁に手をつきながら移動し、残りひとつの座席に腰掛ける。

「俺の声、聞こえてるか?」

『だいじょうぶです。ちゃんと聞こえてますよ』くすっとサクラが笑う。

 目の前に座るサクラは、セーラー服というよりドレスに近い純白の制服を着ている。リボン付きの青いブーツを履き、長く伸ばしていた栗色の髪はバッサリ短く切られている。

 すべてが完璧に整った美しさ。少女でも、大人でもない不安定さは、もうどこにもない。

『今日のセンセー、いつもと雰囲気違うんですね。』

 言われて、神代は自分の服――富嶽からもらった旧海上防衛隊の儀礼服を見る。「……ヘン、か?」

『そんなことありません。かっこいいですよ』

「ありがとな。そっちの制服も変わったんだな」

『ええ。識別しやすくするためらしいです。こんなフリフリの可愛い服、あたしなんかに似合ってますかね』

「大丈夫。バッチシ似合ってるよ」

『ふふ。ありがとうございます』

「髪、自分で切ったのか?」

『昨日、桐ヶ谷先生に切ってもらいました。もしかして、センセーも?』

「ああ。俺も昨日切ってもらった。長いのは似合わないってさ。サクラはいいよな。長くても短くても似合うんだから。その髪、とっても似合ってるよ」

『ほんとですか!? よかったぁ、そう言ってもらえて。実はちょっと短すぎるかなって思ってたんですけど』

「んなことない。すごく可愛いと思う」

『もう、センセーったら。照れちゃうじゃないですか』

 この場所が、チヌルクの中でなかったらどんなにいいだろう。

 この会話が、キュウタァの存在しない世界でできたらどんなに幸せだったろう。

 決戦の海は着々と近づいてきている。本来ならこんな話をしている場合じゃない。でも、今だからこそ、他愛たわいない話をしていたいのかもしれない。

「元気そうで本当によかった。あのときはごめん、気づけなくて。俺、ずっと近くにいたのに」

『ううん。それはセンセーがあやまることじゃありません。隠してたのはあたしなんですから』

「でも……、」

『こうしてまた会えたでしょう。すぐには戻れなかったけど、いまはセンセーの顔が見れてます。それでいいじゃないですか。だから、気にしないで。あやまるのはこっちです。心配かけてごめんなさい』

「いいんだ。キミが無事なら」

『ありがと、センセ。でも、これからはちゃんと言いますね。ウソじゃないですよ。あたし、センセーにはウソつきませんから。かくしごとはしましたけどね』あはは、とサクラは照れくさそうに笑う。

 彼女の笑顔を見て、あぁ、そうか、と神代は今さら気がつく。

 何をすべきか見極める、そんな大層なことじゃなかった。ただ、怖かっただけなのだ。行かないでくれと言うことが。

「今度はさ、ちゃんと薬も準備するから。」

 これから先もずっとずっとサクラの笑顔を見ていたい。もし許されるのなら、彼女と最期の瞬間まで生きてみたい。

「だから、また一緒に旅をしよう。行けてない場所も、一緒に行きたい場所も、まだまだたくさんあるんだ。」

 現実から――サクラから逃げるのはもうやめだ。

 センセイと呼ばれちゃいるが、すべきことを選べるほど大人じゃない。

「なあ、サクラ。ずっと俺のそばにいてくれないか。何もかも失ったっていい。必要なら魂だって消えてもいい。でも、キミだけは失いたくないんだ。

 ふたりで色んなことをして、色んな場所へ行って。キミといるだけで幸せだった。俺は、キミに生きてほしい。キミの未来さえあれば、世界が滅んだっていい。頼むから消えないでくれ。お願いだ、サクラ」

 濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳が、真っすぐ神代を捉えている。

 サクラはやさしく笑い、そして、

『だいじょうぶですよ、センセ。簡単には勝てないだろうけど、負ける気なんてありませんから。もちろん、消えるつもりだってありません。だって、あたしにはセンセーがついているんですもの。』

 胸がきつく締め上げられ、神代は思わず膝の上で拳を握る。

 こういう返事が来ることはどこかで分かっていたはずなのに、とてつもなく苦しい。サクラの志は空より高く、その覚悟は海より深い。決して揺らぐことのない瞳に、絶望すら感じてしまう。

『センセイを護って、センセイのもとに帰る。いつもとおんなじです。

 たとえどんなに離れていても、あたしはセンセーの、センセーはあたしのそばにいます。この気持ちにキョリなんて関係ありません。この世界がある限り、あたしたちは必ず繋がっています。

 世界が滅びてもいいなんて、そんなこと言わないでください。この世界にはセンセーがいる。センセーとの思い出がある。あたし、けっこう気に入ってるんですから、この世界のこと。』

 パッ、と明かりが消え、急に貨物室が暗くなった。

 いきなりのことに動じた様子もなく、サクラは話し続ける。

『誰もいない街での、ふたりだけの生活。センセーとの毎日は、本当に楽しかった。あの日々は夢みたいでした。いえ、あたしの夢だったんです。大切な人といっしょに暮らすって夢、センセーは叶えてくれたんですよ。

 でも、あたしの夢はそれだけじゃない。もっともっとあるんです。残りの夢はセンセーとじゃなきゃ叶えられません。世界がなくなっちゃったら途中で終わってしまうんです。』

 いつの間にかホバリングしていたチヌルクの後部ハッチが開き始め、視界の端に無数の紅が見えてきた。

 光が差し込んできて、冷たい風によくかれた栗色の髪が揺れ始める。

『“ただいま”ってセンセイに言うこと、“おかえり”ってセンセーの声を聴くこと。これがあたしの護りたいもの。やっと見つけた理由なんです。

 あたし、頑張って戦うから。ゼッタイに帰ってきますから。だから、信じて待っていてくれると嬉しいです』

 サクラは席から立ち上がり、光に向かって歩き始める。

「……っ!」

 もう無理だ。どこかで誰かが言っている。

 もう止められない。何者かの声が聞こえる。

 んなこと分かってる。言われなくたって、そんなの一番自分がよく分かってる。でも、それでも……!

「行くなっ!」神代は叫びながら、後部ハッチの手前でサクラの腕を掴んだ。

「頼む、行かないでくれ! 行っちゃダメだ!」

『……、』

「もう嫌なんだよ! キミが傷つくのは、キミと離れるのは!」

『……、』

「待って……行かないで……、」

『……、』

「お願いだ……」

 この手を離してしまったら、もう二度とサクラに会えなくなる。そんな予感めいた確信が、どこかに、でも確かに自分の中にある。だから、何が何でも離すわけにはいかない。

『ねぇ、センセー』声と共にサクラがふり返った。無数の紅色に覆いつくされた空を背に、彼女は静かに微笑む。

『あたし、これからもセンセイといっしょにいたい』

 ふたつの手がゆっくりと近づいてきて、ヘッドセットが後ろに押しのけられた。

「だいじょうぶ。心配しないで。」

「サク――」声を出したそのとき、ぐっと胸倉を掴まれた。

 一気に彼女との距離が縮まり、


「すきだよ、センセー。」


 そのまま唇で口を塞がれた。

 少し遅れて、神代はすべてをさとる。自分にできるのは、送り出してあげることだけなのだ。

 神代は背伸びするサクラを抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめてさらに唇を重ねる。

 少しだけ速い鼓動が聞こえる。あたたかい体温を感じる。サクラは力強く、一生懸命すがりついてくる。

 愛おしくてたまらない。できることなら、このまま離したくはない。今が、永遠に続いてくれればいい。

 しかし、時の流れは残酷で、終わりは必ずやって来る。数秒のような、数時間のような時が過ぎ去り、代わりに別れの時がやって来た。

 砂時計の砂が落ちきるかのように、栗色の短い髪がさらさらと手の中からこぼれ落ちていく。


 時間、来ちゃったみたい。


 すぐそばに立つサクラの白い肌には、蒼い幾何学模様が浮かび上がっていた。彼女はこちらに身体を向けたまま、ゆっくりと後部ハッチへ歩いていく。

 神代は何とか笑おうと必死に口角を上げる。

 少しの間、離ればなれになるだけだ。絶対にまた会える。絶対にだ。だから……だから、せめて笑顔で……。


 またね、センセ。


 サクラは後部ハッチの先端で立ち止まり、可愛らしく笑った。そして――、


 ――いってきます。


 身体を後ろに倒し、弧を描くように背中から降下していった。

「サクラッ!」神代はハッチに駆け寄り、蒼穹の中にサクラの姿を探す。

 次の瞬間、目の前で月色の翼がきらりと輝いた。静かな光を放つその翼は、どんどん加速し、あっという間にチヌルクから離れていく。遠ざかる光に向かって、神代はサクラの名を叫ぶ。

 機体がぐらりと揺れ、チヌルクが動き出した。チヌルクは戦場から離脱する方向へ進み始める。

 神代とすれ違うように、戦闘機部隊がキュウタァ群へと突撃していった。それを追って、戦闘ヘリが、無人攻撃機が突入していく。チヌルクの下を通過した統合艦隊が艦砲射撃を開始し、決戦の火ぶたが切って落とされた。

 神代は小さくなりゆく戦場を、決して忘れぬよう心に焼き付ける。

 改造空母の上で戦車とりゅう弾砲が火を吹いている。海中から無数のミサイルが飛び立ち、数秒後には各地に爆炎の閃光が走る。航空機とキュウタァがぐちゃぐちゃに混じり合い、空を埋め尽くしている。

 第一次、第二次、第三次、第四次と、人類は世界大戦の過ちを繰り返してきた。禁断の炎を再使用し、壊れかけていた世界を完全に狂わせた。数多くの生命が失われ、それでも世界大戦は止まらなかった。

 今まさに、過ちの歴史が終末戦争と共に終わろうとしている。

 潜水艦を串刺しにした特機とっき型キュウタァが海から飛び出してきた。ブラックセーラー服を着たSAKURAシリーズが、次々と戦闘機をほふっている。まばゆい光線が一帯を貫いた刹那、数えきれないほどの命が消滅する。

 燃ゆる海に、鉄塊とキュウタァの残骸が降り注ぐ。

 兵器が、キュウタァが、そして人間が、世界に溶けるようにして消えていく――。



 ――その日、7年間続いた終末戦争は終わった。



 結果として、統合艦隊はSAKURAシリーズを含むキュウタァと共にリアス海から消滅した。

 どのようにして戦闘が終了したのかは分からない。ひとつ言えるとすれば、終末戦争が人類の絶滅なしに終結したということだけだ。


 戦争が終わった日の夜、平和の訪れを祝福するかのように純白の雪が降った。雪は日付が変わっても降り続き、気がつくといつの間にか止んでいた。

 窓の外では今、積もった雪がやわらかい朝の光に照らされてまぶしく輝いている。


 新しい朝。世界の夜明け。やっと訪れた平和。

 

 サクラは、まだ、帰ってこない。

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