学生食堂にて、食事。3月同日
学生食堂は、第二校舎の向かいにあった。
独立した二階建ての建物で、周囲にはコケの生えた小さな
樹々に囲まれた食堂内は薄暗く、しんと静まり返っていた。動いているのは首を振る扇風機だけで、昼時だというのに誰もいない。施設関係者が昼食をとっていても良さそうなものだが、もしかして今日は休みなのだろうか。
そういえば、校内を見回ったときも人の気配を感じなかった。今までに出会った人間は、宮守を含め6人だけ。
軍関連の施設としては異例の少なさだ。やはり、ここはどこかおかしい。
扇風機は回っているし、窓も開いている。一応、やってはいるみたいだ。
「なか、入らないんですか?」
いきなり後ろから声がした。
びくりとしてふり向くと、階段の下に深緑色のセーラー服を着た少女が立っていた。
濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳をした女の子。吉野サクラがそこにいた。
「また会ったな」
「さっきはありがとうございました。あの、ケガの具合はどうですか?」
「なんてことはないよ。それと、キミのせいじゃないから安心して」
「そう、ですか……。よかったです」
「ここってさ、いっつもこんな感じなの?」
「ええ。……おかしい、ですか?」
「そんなことはないけど……。ただ、俺が知ってるのと少し違うなーって。靴はそのままでいいのか?」
「そこで脱ぐんです。入ったとこにスリッパありますから」
「あっ、ほんとだ」
玄関マットの上で靴下になり、ドアハンドルに手をかける。手前に引き開けると、安っぽい油の匂いがぶわっと押し寄せてきた。
士官学校の食堂もこんなだった。どこも似たようなものなんだなと懐かしく思いながら、ニコイチになったスリッパをかごから出して突っかける。
正面の券売機らしき機械の隣に、ウォーターサーバーが置かれている。ごくりと喉が鳴り、初めて喉が渇いていることに気づいた神代は、吸い寄せられるようにサーバーへ向かう。
スリッパの底が脂ぎった床にくっついて、ベリッベリッと音を立てる。遅れて、サクラの足音も聞こえてきた。
備え付けのコップを取り、レバーを上げる。じょぼじょぼじょぼ、とコップが冷たい麦茶で満たされていく。
一気に飲み干し、もう一杯。ぷはーっと息を吐いて、口の端を手で拭う。
視線を感じて後ろを向くと、笑みを浮かべたサクラが、
「なんか、あたしまでノドかわいてきちゃいました」
「ん。ちょっと待ってて」
「あ、いえ、だいじょうぶです。自分でやりますから」
「いいのいいの。ほら、キンキンに冷えててうまいぞ」
「……ありがとうございます」
コップを手渡し、神代はサーバーから一歩横にズレて券売機の前に立つ。
ラーメンにカレー、ソバにうどん、丼に定食と、豊富なラインナップが揃っている。久しぶりの
「あのさ、」神代はメニューボタンに目をやったままサクラに訊く。
「ここのオススメとかって、なんかあったりする?」
「オススメ、ですか……。あたし、いつも決まったものしか食べないから……」
「いつも何食べてんの?」
「牛丼のサラダセットに生卵、ですかね」
「んじゃ、俺もそうしよっかな」
「お口に合うか分かりませんけど……」
「大丈夫。合成肉の味はどこでも同じさ」
神代はIDカードを取り出し、ボタンを押す。
タッチ決済しようとして、「あれ?」その前に食券が発行された。
「ここ、お金はいらないんです」
「そうなの?」
「使うのあたしだけなんで」
「え……? 宮守先輩とかは?」
「宮守センパイ……? あぁ、教頭先生のことですか。先生たちは、ここじゃない場所で食べてるみたいです」
「……、」
教頭先生ってなんだ。
宮守セイヨウ、微笑みの下でいつも何かをたくらんでいる先輩。ただの廃校ではないと思っていたが、あの人、一体何を……。
「どうかしました?」
「あ、いや……なんでもない」
平静を
サクラは不思議そうな顔をしたが、すぐに券売機に目を移しボタンを押し始めた。
――ゴウォーンッ。
起動音が聞こえ、厨房で何やら機械が動き始める。
受け渡しレーンが流れだし、静かだった食堂が急に騒々しくなった。
「自動で出てくるのか……」
「もうすぐ来ます。トレーはあそこに」
「お、おう」
コップを乗せたトレーを持ち、サクラと共にレーンの前に並ぶ。
少し経って、大盛り牛丼とみそ汁、小皿に乗った紅しょうが、サラダが流れてきた。その後ろから来るサクラの牛丼セットには、丸いカップに入った生卵がついている。
「もし良かったら一緒に食べない? 二人だけなのに別々に食べるってのも、なんかヘンだし。それに独りの食事は味気ないっていうか」
「べつに、いいですけど……」
「決まりだな。席はテキトーでいい?」
「はい」
食事の乗ったトレーを持って窓側の席に座る。割り箸と調味料はテーブルに備え付けてあった。
サクラが来るのを待ち、箸を割る。
「いただきます」感謝の気持ちを込め合掌。
今の時代、こうして食事にありつけること自体幸せなのだ。昔は捨てるほど余っていたそうだが、そんなのとてもじゃないが想像できない。
「……いただきます」神代に続いてサクラも箸を取る。透明なフタを剝がし、カップに入った卵を溶き始めた。
まずは何もかけずに食べてみる。病院食になれた舌には少し味が濃い。だが、思いのほかうまい。少なくとも、統合軍基地の食堂で提供されるどの料理よりも美味だ。肉にはちゃんと旨味があるし、サラダもドレッシングで誤魔化していない。こんなのがタダで食べられるなんて、驚きを通り越して呆れてしまう。
「キミ、いつもこんな美味しいご飯食べてんの?」
「ええ」
「しかもタダで?」
「そうですよ」
「うらやまし過ぎる……。そういや、宮守先輩たちはここで食べないって言ってたけど、なんでなんだろうな」
「どうしてですかね」
「みんなで食べればいいのに」
卵を混ぜる手が止まった。
サクラは真っすぐに神代を見、「なぜです?」子供のような純粋な目で問いかける。
「だって、そっちのほうがうまいじゃん。独りで食べるよりも、誰かと一緒に食べたほうが美味しいんだ。いや、美味しかった……、かな」
「ひとりでも複数でも、料理の味は変わらないんじゃ?」
「それはそうなんだけどさ」
「じゃあ、どうして……?」
小首をかしげるサクラに、神代は困ってしまう。それでも5秒ほど頭をひねり、
「たぶん、楽しいからなんだと思う。会話して、笑って、さっきみたいに美味しいねって感想言って……。そうだなぁ、味覚じゃないところで味を感じるっつーのかな。俺にもよく分かんないけど、とにかく独りで食べるより美味しかったんだよ」
サクラは困ったような顔をし、無言のまま視線を落とす。
開いた窓から風が吹き込んできて、やさしく頬をなでた。
「……ごめんなさい」
そよ風が凪ぎ、サクラが顔をあげる。
「わからないです。誰かと食事した記憶、ほとんどないから」
どこか寂しそうな笑顔で彼女は言った。
触れたら崩れてしまうんじゃないか。そう思えるほど今の彼女は儚げに見える。
過去に何があったのか、どうしてこんな場所にいるのか、疑問を挙げればきりがない。思わず訊いてしまいそうになったが、口に出す寸前で飲み込む。
この質問は彼女の心に直接触れるに違いない。今はまだ、そこまで踏み込むには早すぎる。
「そっか。なら、これから知っていけばいいさ。今は分からなくても、いつかきっと理解できる日が来るから」
そのうち分かる。本当は、そんなの分からなくていいのかもしれない。知らずにいるほうがマシなのかもしれない。誰かが近くにいる幸せを、その“誰か”を失ってから気づいた過去。そんな思いをするくらいなら……。
「いつか……、」哀しそうに呟いて、サクラは再び箸を動かす。
もう何度か卵をかき混ぜ、肉の上にぐるっと回しかけていった。
卵と程よくからんだ牛肉。ぬるりと黄色に光るそれを、彼女はご飯と一緒に持ち上げる。唇が上下に開いて、ぱくっとひと口分の牛丼を迎え入れた。
「……やっぱり、わかりません」
う~ん、と
神代は彼女の表情を見、吹き出しそうになりながら、七味唐辛子の瓶を手に取る。肉が見えなくなるほど全体にふりかけ、食事を再開する。
「――ごちそうさまでした」
最後のひと口を食べ終え、テーブルに置いてあるティッシュペーパーで口を拭く。
サクラはまだ半分しか食べていない。せっかくのごちそうをいつもの癖で早食いしてしまった。
手持ち無沙汰になった神代は、麦茶の入ったコップを傾けつつサクラを観察してみる。
年は17か18ぐらいだろうか。中性的な見た目で、青みがかった瞳は光の加減によってか今は黒っぽい。よく
――ピンポンパンポーン。
そのとき、軽快なチャイムが鳴り響いた。
券売機上のスピーカーから、陽気な宮守の声が流れてくる。
『えー、神代に告ぐ。昼食が済み次第、校舎1階の校長室まで来たまえ。繰り返す。校舎1階の校長室まで来たまえ。できる限り急ぐよーに。以上』
ブツッとマイクが切られ、校内放送が終了する。
「やっとか……」神代はコップを空け、ゆっくり席から立ち上がる。
「呼び出されたから先に失礼するよ。話せて良かった」
「なんていうか、その……ありがとうございました」
「いつかまた一緒に食べような。それじゃ」
トレーを持ち、返却口へと身体の向きを変える。
視界の端で捉えたサクラは、何か言いたそうに口を開きかけていたが、歩き始めてしまった今では訊き返えす勇気がない。
返却レーンに食器を乗せ、トレーとゴミを分別。入り口のかごにスリッパを戻し、開き戸を押す。
靴を履き、階段を下りたところで後ろをふり返ると、閉まりゆく戸のすき間から薄暗い食堂が覗いて見えた。
戸が完全に閉まり、神代はまた歩きだす。すべてを知っているであろう男、宮守が待つ校長室に向かって。
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