1F保健室にて、桜。3月9日
長い夢を見た。楽しくて懐かしい、幸せな夢。そこでサクラに会えた。
内容はもうほとんど覚えていない。しかし、最後に言われた言葉だけは、今でもはっきり覚えている。
目を開くと、視界がピンボケしていた。まるで水の中にいるかのように、世界がにじんでいる。
何かが頬をつたって流れ落ちた。温かさを持ったソレは、一瞬のうちに温度を失って冷たく頬を濡らす。
ぼやけていた視界が晴れ、顔のすぐ隣に床が見えた。その上にだらしなく横たわる右手には、黒光りするピストルが握られている。ここは天国でも地獄でもない。現世にある桜高の、保健室前の冷え切った廊下だ。
固い廊下に寝ていたせいで、身体じゅうが痛い。底冷えするような寒さに先端という先端が凍えている。頭はぼんやりとしていて働かない。気を抜けばすぐ眠りの海に引きずり込まれそうになる。
もう一度目を閉じてしまおうか。そうすればきっと楽になれる。このまま凍え死んで、すべてから解放されるに違いない。でも、それはダメだ。まだ死ぬわけにはいかない。
力の入らない身体に鞭打って、何とか起き上がる。ドアに寄りかかってメガネを外し、腕で溢れる涙を拭う。
どうして生きているのだろう。メガネをかけ直した
頭だけ動かして、床にだらりと垂らした右手を見てみる。手の中のピストルに目をやると、起こした撃鉄は元に戻っていた。
やはり間違いなく発砲している。では、どうして死んでいないのか。もし本当に発砲したのなら、近くに
もたれていたドアから頭を離し、薄暗い廊下を見回してみる。しかし、どこにも
もしかして……。神代はひとつの可能性を思い出す。
重い右手を持ち上げ、
コレは展望台に行ったとき、サクラからプレゼントされたものだ。込めてあった弾丸は、彼女の肉体を元に生成されたものだったのだろう。だから、彼女が消滅した今、弾は一発も入っていないのだ。倒されたキュウタァが世界に溶けて消えるのと同じように、あの日――戦争が終わった日に弾も消滅したのだ。
終末戦争が決着した日、サクラは消えた。彼女が消えたから、自分は生きている。
そう、サクラは消えたのだ。帰ってこないのではない。残酷だが、それが事実だ。今まで逃げてきた現実なのだ。
もう会えないのか、そう思えば思うほど胸が苦しい。まぶたを閉じればたくさんの思い出がよみがえってくる。
大切なものはいつだって、失ってからでないと気がつけない。ささやかな日常にどれほどの価値があったのか、後になって思い知った。ずっと目を背けてきた
「サクラ……」ぽつり彼女の名を呼んでみる。何度も、何度も、くり返し呼んでみる。
名前を呼ぶたび、愛おしさが深まっていく。ぽかぽかとした温かい気持ちが胸に広がっていく。
涙は拭いても拭いても止まらない。とめどなく頬を流れ、冷たい床に落ちる。
あぁ、ちくしょう。止まれ、止まってくれよ……。神代はどうしようもなく零れてくる涙を、空の
メガネが邪魔だ。鼻をすんっと鳴らしながら思ったそのとき、
「……どうして、俺」初めて気がついた。置いてきたメガネをかけていることに。
次の瞬間、忘却の彼方に去った夢の内容が、断片的に呼び戻された。
――なんだかつけてみたくなっちゃって。
――これでどうです? はっきり見えるでしょう。
こうして今、外したはずのメガネをかけているということは、つまり。
神代ははっとして立ち上がる。すぐさま踵を返し、寄りかかっていたドアを勢いよく開ける。
「サクラッ!」薄暗い廊下に慣れきった目が、部屋の明るさにくらんだ。
やがて見えた保健室に、彼女はいなかった。ドアの先は、紛れもない現実に繋がっていた。
やっぱり、夢は夢でしかなかったようだ。消滅した人間が帰ってくるなんて、そんなこと絶対にありえない。ありえないと分かっていたはずなのに……。
期待してしまった分だけ余計につらい。期待に膨らんでいた胸が、一気にしぼんでいく。
沈む気持ちとともに視線も下がり、一瞬サクラの机が目に入った。それから少し遅れて、神代の動きが止まる。
見間違い、だろうか。それとも幻覚だろうか。どちらにしろ、信じられない光景を見た気がする。
本当は自分の目を信じたいが、信じるのが怖い。また期待して、つらい思いをするのは嫌だ。
でも、ごくわずかでも希望が残っているのなら、それに賭けてみたい。簡単に諦められるものか。たとえ違っていたとしても、やらないよりやって後悔した方がずっとマシだ。
神代は思い切ってサクラの机に目を戻す。
ちらりと見えた光景は、見間違いでも幻覚でもなかった。
机に置いた卒業証書は消えていた。まるで最初から存在していなかったかのように、綺麗さっぱりなくなっている。
誰が持っていったかなんて、そんなの考えるまでもないだろう。あれはサクラの卒業証書だ。彼女以外に誰がいる。
夢は夢。しかし、すべてが夢だったというわけでもないらしい。
言いたかったこと、伝えたかったこと、やらずに後悔していたこと。夢と現実の狭間で、サクラはそのすべてを受け止めてくれた。そして、あの日からさまよい続けていた自分を目覚めさせてくれた。
夢の中で何を話し、どんなことをしたのかは、忘れゆく一方だ。だが、最後に聞こえたサクラの言葉だけは決して忘れることはない。別れ際に見せてくれた笑顔と共に、いつまでも心に残り続ける。
ふいに冬の空気が保健室に吹き込んできて、さらりと頬をなでていった。
風が吹いてきた方へ顔を向けると、割れた窓の向こうに晴れ始めた空が見えた。
雲のすき間からのぞく青空は、どこまでも高く、限りなく澄んでいる。所々から差した日の光が、世界を明るく照らしている。相変わらず降り続いている雪は、ひらひらと宙を舞う花びらのように美しい。
純白の雪に薄紅色の花びらを重ねながら、神代はやさしい笑みを零す。
生きよう。生きてみよう。
深呼吸するように、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込むと、凛とした冷たさに混じって春の匂いがした。
もうすぐ、桜の季節が――来る。
サクラ最前線 弐護山 ゐち期 @shinkirou
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