屋外プールにて、掃除。4月11日
サクラが目覚めてから早10日。4月に入り、本格的に学校が始まった。
彼女の身体検査は3月中、つまり目覚めたその日のうちに終了し、金土日と挟んで4月4日から新学期が開始された。
先週は様子見のため学活をしていない。とは言っても、正確には授業という
夏の学校と言えば、欠かせないのがプールの授業だ。幸いなことに、桜高には更衣室とシャワー室が併設された『屋外プール』がある。場所はグラウンドわき――体育館の向かい。長らく使用されていないようで、
以下は、授業内容を報告した際の宮守のコメントである。
『いやぁ、まさか
何を考えているのかよく分からないのが、宮守の怖いところだ。
立派なことを考えているかと思えば、実にくだらなかったこともあるし、その逆もある。今回ばかりは確実に、くだらないことを計画しているらしい。あのときのニコニコと微笑む顔は悪だくみをしている顔だった。
宮守が悪い笑顔を見せるとき、大抵ロクなことが起こらない。士官学校時代、この笑顔のせいでどれほどのトラブルに巻き込まれたことか。
今日は一体何が起こるのだろう。少しだけ身構えながら、サンダルを履いた
ある程度の量の水を抜いたことで、プールの水深は足首が浸かるほどの高さしかない。溜まっている緑色の水は、わずかに流動性を失ってどろりとしている。足元のタイルは事前にブラシで磨いたものの、もう砂でざらざらしていた。プールサイドは特にこれと言って変わった様子はない。
スタート台の正面、プールの端から通路を挟んだ場所には“用具倉庫”がある。単にモノが置いてあるだけの場所なのだが、たくらみの内容がどんなものか分からない今、ここも確認しておくべきだろう。
銀色の重いドアを押し開け、中に入る。そこは、灼熱の世界だった。
空気中の塩素濃度が高く、独特な匂いがすると共に鼻が痛い。まるでどこか別の惑星にでも来ているかのようだ。ガスマスク代わりに口に手を当てて、床や棚を見回ってみる。
グルグル巻きにされたコースロープ。固形塩素剤が入った水色の袋。カラカラに乾いたビート板。その他、ボールやらビーチパラソルやらベンチやら。掃除に必要なビニールホースやバケツ、タワシにデッキブラシもある。前に来たときには気づかなかったが、麦わら帽子も置いてあった。用具倉庫も別に異常はない。
屋外プール、オールグリーン。
本当に何を考えているのだ、あの人は。とりあえず掃除に必要な道具を持ち、倉庫から出る。照りつける日差しが肌を刺し、倉庫の薄暗さに慣れた目がくらんだ。
チカチカする視界の中、半袖姿の神代は掃除の準備を始める。
水の入ったバケツを
こうして準備を進めていると、やがて階段のほうからペタリペタリという足音が聞こえてきた。
「待ってた――よ?」更衣室から来たであろうサクラを見、神代はフリーズする。
「どうしたんだ、そのかっこ」
服装は“桜高ジャージ”でいいと言ったのだが、彼女はそんなもの着ていない。
「教頭先生が、さっきくれたんです。濡れるとダメだからって」
「あぁ、そうゆうことか……」呆れた神代はメガネの下の目頭をもむ。「ほんとに、あの人は……」
前を開けたパーカーの下に水着が見える。
以前、士官学校時代に宮守が言っていた。上下に分かれていることが重要なんだよ、と。屋上に寝ころび、美少女ばかりが出てくるゲームをしながら。初めて授業を
それはスクール水着。しかも旧型――いわゆる旧スクというやつだ。
「ヘン、ですか……?」不安そうな目をしたサクラがこちらを見ている。
ヘンだとしたら、それは宮守の頭の中だ。彼ソースの情報によれば、旧スクとは1世紀以上も前の
「んなことない。似合ってると思うぞ」
「よかった。そう言ってもらえると、うれしいです。」
サクラは少しはにかみながら、
「あたし、水着なんて着たの久しぶりで。もう着ることないと思ってたから」
「準備してくれた宮守先生には、あとで俺からもお礼言っとかなきゃな」
あの先輩、本当にしょうもないことをたくらんだものだ。
でも、今回だけはいいかと思う。何を意図してのことかは知らないが、サクラが喜んでいるのならそれで。
「それじゃ、ぼちぼち始めるか。と、その前に。ちょっと待ってて」
神代は銀色のドアを開け、用具倉庫に入る。
今日は気持ちいいくらいの晴天。しかし、そのぶん暑さもハンパじゃない。帽子なしで作業しては、きっとふたりとも熱中症になること間違いなしだ。
先ほど見つけた麦わら帽子を持ち、サクラのもとに戻る。
「ほら、コレかぶりな」
「ありがとうございます、センセ」
「少し塩素臭いけど、ないよりはマシだから」
「……なつかしい匂い」
帽子に鼻を近づけるサクラを横目に、神代は汚れたプールに目をやる。
「匂いだけで終わらないよう、今日は頑張ろうな」
「きれいになったら、泳いでもいいんですか?」
「もちろん。そのために掃除するんだ。好きなだけ泳ぐといいさ」
スタート台や
水につま先を入れた瞬間、ひいいいっ! と声が出そうになった。足を包み込むぬるっとした感覚。微妙に温かく、まるで冷めたとろろ昆布のみそ汁のよう。鳥肌が立ち、背中をゾクゾクッと震えが走る。しかし、サクラの
「気をつけて下りてくるんだぞ。底、滑るからな」
どこから来たのか分からない泥と大量発生した
「足、ヘンな感じしますね」
楽しそうに笑って、プール底に立ったサクラは何度か足踏みをする。
彼女の言う通り、これは何とも言えないヘンな感じだ。指の間から泥がすり抜け、気持ちいいんだか悪いんだか分からない。
プールサイドからバケツとブラシを下ろし、
「俺は向こうからホースを伸ばしてくる。先に始めててくれ」
「どこからですか?」
「まずは壁からだな」
「これは……がんばらないと、ですね」
たじろぐように言うサクラの目には、びっしりと壁にへばりつく藻類が映っているのだろう。
半分以上が汚れに覆われた壁は、本来の水色ではなく黒や緑色をしている。
「できれば、壁は今日中に終わらせてしまいたい」
水を抜いた今、汚れはどんどん乾燥する。乾燥した汚れは落ちにくいと、職員室に残されていた昔の資料にも書いてあった。水が残っている底の部分は心配いらないが、壁だけはどうしても早めにやっつけてしまう必要がある。
「ま、休み休みやろう。案外早く終わるかもしれ――」
ないぜ、と言おうとしたそのとき、水中を泳ぐ何かが目に
そいつは濁った水の中をすいーっと気持ちよさそうに移動し、サクラの足下で顔を出す。
「あっ!」
サクラは驚いたというより気がついたような声を上げ、
「キミ、久しぶりだね」
そいつを水中から持ち上げた。
「で、デカくないか……」
「たしかに、ちょっと大きくなったかも」
彼女の両手の中で、居心地良さそうに抱っこされているのは巨大なカエル。合成肉が登場するまで戦時下の食糧不足を補ってくれていた、ウシガエルという種類のカエルだ。
「ほら、ここ。」言いながら、サクラはカエルの背中を指さす。
「ここに太陽みたいな模様があるでしょう。ずっと前、生物室にいた子なんです。いなくなったと思ったら、こんなところにいたんだ」
「いたのは1匹だけ?」
「はい。この子だけです」
それを聞き、良かった……と神代は胸をなでおろす。
小さい奴ならまだしも、こんなにデカい奴が他にもいたのではたまったもんじゃない。
「明日にでも水槽持ってきて、カエル君には引っ越してもらおう」
「そうですね」
巨大ガエルを水中に返し、サクラはブラシを手に取る。
「では、始めましょっか」
「だな」
壁をしゃこしゃこ洗う彼女を背に、神代はホース目指してプールの中を進んでいく。
水面は風に揺れてきらきらと輝き、セミは今日も盛んに鳴いている。学活初回の本日。幸先の良いスタートを切れそうな気がした。
……そう、気がしたのだ。
「――だぁーっ! もうダメだ!」
掃除を始めてから実に1時間。現在の時刻は14時過ぎ。
壁の3分の1が終わったところで、神代はとうとう
中腰での作業とピークを迎えた気温。腰の痛みと暑さのダブルパンチにノックアウトされる寸前だ。
一方のサクラは、未だに黙々と壁をこすり続けている。
「休憩にしよう、きゅーけー」
「あたし、まだやれます……!」
手は動かしたまま、顔だけこちらに向けてサクラは言う。
「あと1時間はがんばれます!」
「いや、俺がもうムリ。頼む、一回休憩にしよ」
「わかりました……」
神代は道具を置いて、タラップからプールサイドに上がる。
用具倉庫からビーチパラソルとベンチを引っ張り出し、簡易的な休憩所をこしらえる。
飲み物のリクエストを訊いてからプールの外に出、近くの自動販売機に向かう。
「ほい。お待たせ」
数分後、神代は結露し始めた缶ジュースをサクラに手渡した。
「ありがとうございます」
「はいよ」
神代はパラソルの下に入り、ベンチに座って自分の首筋に黄色の缶を押し当てる。
自販機から買ってきた、否、取ってきたばかりの缶はよく冷えていて、ため息が出てしまうほど気持ちがいい。ふーっ、と火照った身体を脱力させながら、だらりと背もたれに身体をあずける。
ぷしゅっと音が聞こえ、隣に目をやると、美味そうにジュースを飲むサクラが見えた。
汗で額に貼りついた前髪、ほんのりと紅い頬、上下に律動するのど。神代は思わず
はっとして目をそらし、プルタブを開けて中身を一気に流し込む。微炭酸に、のどがピリピリと痛んだ。
それから雑談などをしてしばらく涼んでいると、
「あの、きいてもいいですか」
プールのほうを見るサクラが言った。
「あたしたちが掃除してるのって、ここが汚れてて使えないからですよね」
「そうだよ」
「ふと思ったんです。プールの中には昨日まで、平和な世界があったんじゃないかって。たとえあたしたちには汚れて見えても、そこには小さな
「まあ、確かに」
汚れと言っても、これは自然の営みによってできたものだ。
気に留めないだけで、緑色をした水の中にはバクテリアやプランクトン、水生昆虫などがいる。サクラと顔見知りのウシガエルも、今日まで
細い指で缶のふちをなでながら、だけど、と彼女は続ける。
「あたしたちにとっては汚れだから、プールという世界を
「……、」
「生きてるだけなのに、ただ生きたいだけなのに……。そんなふうに思えたんです」
そう言って、サクラは空を見上げる。
神代もつられて上を見た。上空は風が強いのか、蒼穹に浮かぶ白い雲はどんどん横に流されていく。
まるで、あたしたちみたい。
ぽつりと
神代は聞こえなかったふりをして、倒れそうになるビーチパラソルを支える。
サクラの言わんとすることが、分からないのではない。理解できたからこそ、聞こえないふりをした。
たぶん返すべき言葉なんて存在しないし、何も言わないのが正解な気がする。彼女はきっと、同意も反論も求めてなんかいやしない。
風が止み、神代はパラソルから手を離す。
黄色の缶を傾けながら、サクラの呟きについて考えてみる。
終末戦争が始まる前、第四次世界大戦のきっかけは、目まぐるしい気候変動だった。それまで人類は大地を削り、空と海を汚し続けていたという。第三次世界大戦がそれに拍車をかけ、三度目の傷も
あのまま第四次が続いていたら、この星は死んでいたことだろう。人類は、世界を
7年前、黒い雪が降った年――キュウタァが出現した。
星にとっての人類が、プールの汚れなのだとしたら、キュウタァは汚れを掃除しに来ただけなのかもしれない。
もしそうなら、サクラは何のために戦っているのだろう?
「――ンセ?」
流れる雲を見ながら、神代はぼーっと考える。
もし仮に終末戦争に勝てたとして、世界はその後どうなる? 汚れたままじゃないのか?
人類のことだから、いつかは第四次の続きを始めそうではある。そのとき、サクラはまたこの国の犠牲にならねばならないのだろうか。キュウタァではなく、人間相手の戦闘を強制されるのだろうか。
「――センセ」
サクラを兵器として運用する
「――センセってば!」
「んあ?」
袖を引かれ、神代はやっと我に返る。
「そろそろ再開しましょ。壁、今日中に終わらせるんですよね?」
腕時計を見てみると、休憩を始めてから30分近くが経っていた。
サクラはベンチから立ち上がり、パラソルがつくる影の中から出ていく。
明るい青空の
「――早く、プールで泳ぎたいです」
きらきら輝く水面のせいか、それとも彼女のまぶしい肌のせいかは分からない。きっと夏の暑さのせいなのだろう。神代には
「そうだな。もうひと頑張りすっか」
ぬるくなったジュースを飲み干し、腰を上げる。
燦々と降り注ぐ陽光、やわらかな風。心が吸われそうなほど晴れた空に、ブボーッというウシガエルの声が響く。
プール開きの日は、そう遠くない。
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