屋外プールにて、掃除。4月11日

 サクラが目覚めてから早10日。4月に入り、本格的に学校が始まった。

 彼女の身体検査は3月中、つまり目覚めたその日のうちに終了し、金土日と挟んで4月4日から新学期が開始された。

 宮守みやもりが言っていたように、オペレーター三人娘による“兵器の授業”は午前中で終わる。桐ヶ谷きりがやが構造と原理の解説をし、鹿角かづのが分解と組み立ての実習、伊代月いよづき顕現けんげんと使用の実践演習をそれぞれ担当していた。

 先週は様子見のため学活をしていない。とは言っても、正確には授業というていしていないだけで、学食で一緒にご飯を食べたり、図書室で本の整理をしたりはしていた。本当なら縁起をかついで“大安”――今週の水曜日から始める予定だったのだが、「センセイの授業、いつからですか?」ときらり輝く瞳で訊かれてしまったため、2日繰り上げて、本日ついに授業の初回を迎える運びとなった。

 夏の学校と言えば、欠かせないのがプールの授業だ。幸いなことに、桜高には更衣室とシャワー室が併設された『屋外プール』がある。場所はグラウンドわき――体育館の向かい。長らく使用されていないようで、一昨日おととい見に行ったときは青汁のような水がプールの中いっぱいに溜まっていた。だから、最初の授業として今日はプール掃除をしようと思う。

 以下は、授業内容を報告した際の宮守のコメントである。


『いやぁ、まさかしょぱなから水着回を入れてくるとはねぇ。キミも分かっているじゃないか。よぉーし、いいだろう。先輩であるボクから、ほんの着任祝いをあげよう。吉野よしのサクラにとっては、少し遅れた快復かいふく祝いってことになるのかなぁ。ま、当日を楽しみにしていてくれたまえ。はっはっは』


 何を考えているのかよく分からないのが、宮守の怖いところだ。

 立派なことを考えているかと思えば、実にくだらなかったこともあるし、その逆もある。今回ばかりは確実に、を計画しているらしい。あのときのニコニコと微笑む顔は悪だくみをしている顔だった。

 宮守が悪い笑顔を見せるとき、大抵ロクなことが起こらない。士官学校時代、この笑顔のせいでどれほどのトラブルに巻き込まれたことか。

 今日は一体何が起こるのだろう。少しだけ身構えながら、サンダルを履いた神代かみしろは階段からプールサイドに上る。

 ある程度の量の水を抜いたことで、プールの水深は足首が浸かるほどの高さしかない。溜まっている緑色の水は、わずかに流動性を失ってどろりとしている。足元のタイルは事前にブラシで磨いたものの、もう砂でざらざらしていた。プールサイドは特にこれと言って変わった様子はない。

 スタート台の正面、プールの端から通路を挟んだ場所には“用具倉庫”がある。単にモノが置いてあるだけの場所なのだが、たくらみの内容がどんなものか分からない今、ここも確認しておくべきだろう。

 銀色の重いドアを押し開け、中に入る。そこは、灼熱の世界だった。

 空気中の塩素濃度が高く、独特な匂いがすると共に鼻が痛い。まるでどこか別の惑星にでも来ているかのようだ。ガスマスク代わりに口に手を当てて、床や棚を見回ってみる。

 グルグル巻きにされたコースロープ。固形塩素剤が入った水色の袋。カラカラに乾いたビート板。その他、ボールやらビーチパラソルやらベンチやら。掃除に必要なビニールホースやバケツ、タワシにデッキブラシもある。前に来たときには気づかなかったが、麦わら帽子も置いてあった。用具倉庫も別に異常はない。

 屋外プール、オールグリーン。

 本当に何を考えているのだ、あの人は。とりあえず掃除に必要な道具を持ち、倉庫から出る。照りつける日差しが肌を刺し、倉庫の薄暗さに慣れた目がくらんだ。

 チカチカする視界の中、半袖姿の神代は掃除の準備を始める。

 水の入ったバケツを拠点きょてんに運び、蛇口に繋いだホースでプールサイドを濡らす。ついでにプールの壁面にも水をかけ、こびりついた汚れを少しでも落としやすくしてから中に垂らしておく。掃除ネットを持ってきて、落ち葉や虫の死骸を取りつつ、あとはサクラが来るのを待つだけ。

 こうして準備を進めていると、やがて階段のほうからペタリペタリという足音が聞こえてきた。

「待ってた――よ?」更衣室から来たであろうサクラを見、神代はフリーズする。

「どうしたんだ、そのかっこ」

 服装は“桜高ジャージ”でいいと言ったのだが、彼女はそんなもの着ていない。

「教頭先生が、さっきくれたんです。濡れるとダメだからって」

「あぁ、そうゆうことか……」呆れた神代はメガネの下の目頭をもむ。「ほんとに、あの人は……」

 前を開けたパーカーの下に水着が見える。

 以前、士官学校時代に宮守が言っていた。上下に分かれていることが重要なんだよ、と。屋上に寝ころび、美少女ばかりが出てくるゲームをしながら。初めて授業を無断欠席エスケープしたときのことだから覚えている。したがって、サクラが着ているものが何なのか、嫌でも分かってしまうのだ。

 それはスクール水着。しかも旧型――いわゆる旧スクというやつだ。

「ヘン、ですか……?」不安そうな目をしたサクラがこちらを見ている。

 ヘンだとしたら、それは宮守の頭の中だ。彼ソースの情報によれば、旧スクとは1世紀以上も前の代物しろものらしいが、こんなのどこから見つけてきたんだか。

「んなことない。似合ってると思うぞ」

「よかった。そう言ってもらえると、うれしいです。」

 サクラは少しはにかみながら、

「あたし、水着なんて着たの久しぶりで。もう着ることないと思ってたから」

「準備してくれた宮守先生には、あとで俺からもお礼言っとかなきゃな」

 あの先輩、本当にしょうもないことをたくらんだものだ。

 でも、今回だけはいいかと思う。何を意図してのことかは知らないが、サクラが喜んでいるのならそれで。

「それじゃ、ぼちぼち始めるか。と、その前に。ちょっと待ってて」

 神代は銀色のドアを開け、用具倉庫に入る。

 今日は気持ちいいくらいの晴天。しかし、そのぶん暑さもハンパじゃない。帽子なしで作業しては、きっとふたりとも熱中症になること間違いなしだ。

 先ほど見つけた麦わら帽子を持ち、サクラのもとに戻る。

「ほら、コレかぶりな」

「ありがとうございます、センセ」

「少し塩素臭いけど、ないよりはマシだから」

「……なつかしい匂い」

 帽子に鼻を近づけるサクラを横目に、神代は汚れたプールに目をやる。

「匂いだけで終わらないよう、今日は頑張ろうな」

「きれいになったら、泳いでもいいんですか?」

「もちろん。そのために掃除するんだ。好きなだけ泳ぐといいさ」

 スタート台やへりは事前に洗っておいたため、今日掃除するのはプールの中のみ。まずは神代がタラップを下りて先陣を切る。

 水につま先を入れた瞬間、ひいいいっ! と声が出そうになった。足を包み込むぬるっとした感覚。微妙に温かく、まるで冷めたとろろ昆布のみそ汁のよう。鳥肌が立ち、背中をゾクゾクッと震えが走る。しかし、サクラの手前てまえ、気持ち悪がるわけにもいかない。やせ我慢して底に足をつき、その場からどける。

「気をつけて下りてくるんだぞ。底、滑るからな」

 どこから来たのか分からない泥と大量発生した類のせいで、プールの底はにゅるにゅるのヌメヌメ。気を抜いてしまった日には、自分も掃除される側になる。

「足、ヘンな感じしますね」

 楽しそうに笑って、プール底に立ったサクラは何度か足踏みをする。

 彼女の言う通り、これは何とも言えないヘンな感じだ。指の間から泥がすり抜け、気持ちいいんだか悪いんだか分からない。

 プールサイドからバケツとブラシを下ろし、

「俺は向こうからホースを伸ばしてくる。先に始めててくれ」

「どこからですか?」

「まずは壁からだな」

「これは……がんばらないと、ですね」

 たじろぐように言うサクラの目には、びっしりと壁にへばりつく藻類が映っているのだろう。

 半分以上が汚れに覆われた壁は、本来の水色ではなく黒や緑色をしている。

「できれば、壁は今日中に終わらせてしまいたい」

 水を抜いた今、汚れはどんどん乾燥する。乾燥した汚れは落ちにくいと、職員室に残されていた昔の資料にも書いてあった。水が残っている底の部分は心配いらないが、壁だけはどうしても早めにやっつけてしまう必要がある。

「ま、休み休みやろう。案外早く終わるかもしれ――」

 ないぜ、と言おうとしたそのとき、水中を泳ぐ何かが目にまった。

 そいつは濁った水の中をすいーっと気持ちよさそうに移動し、サクラの足下で顔を出す。

「あっ!」

 サクラは驚いたというより気がついたような声を上げ、

「キミ、久しぶりだね」

 そいつを水中から持ち上げた。

「で、デカくないか……」

「たしかに、ちょっと大きくなったかも」

 彼女の両手の中で、居心地良さそうに抱っこされているのは巨大なカエル。合成肉が登場するまで戦時下の食糧不足を補ってくれていた、ウシガエルという種類のカエルだ。

「ほら、ここ。」言いながら、サクラはカエルの背中を指さす。

「ここに太陽みたいな模様があるでしょう。ずっと前、生物室にいた子なんです。いなくなったと思ったら、こんなところにいたんだ」

「いたのは1匹だけ?」

「はい。この子だけです」

 それを聞き、良かった……と神代は胸をなでおろす。

 小さい奴ならまだしも、こんなにデカい奴が他にもいたのではたまったもんじゃない。

「明日にでも水槽持ってきて、カエル君には引っ越してもらおう」

「そうですね」

 巨大ガエルを水中に返し、サクラはブラシを手に取る。

「では、始めましょっか」

「だな」

 壁をしゃこしゃこ洗う彼女を背に、神代はホース目指してプールの中を進んでいく。

 水面は風に揺れてきらきらと輝き、セミは今日も盛んに鳴いている。学活初回の本日。幸先の良いスタートを切れそうな気がした。


 ……そう、気がしたのだ。


「――だぁーっ! もうダメだ!」

 掃除を始めてから実に1時間。現在の時刻は14時過ぎ。

 壁の3分の1が終わったところで、神代はとうとうをあげた。

 中腰での作業とピークを迎えた気温。腰の痛みと暑さのダブルパンチにノックアウトされる寸前だ。

 一方のサクラは、未だに黙々と壁をこすり続けている。

「休憩にしよう、きゅーけー」

「あたし、まだやれます……!」

 手は動かしたまま、顔だけこちらに向けてサクラは言う。

「あと1時間はがんばれます!」

「いや、俺がもうムリ。頼む、一回休憩にしよ」

「わかりました……」

 神代は道具を置いて、タラップからプールサイドに上がる。

 用具倉庫からビーチパラソルとベンチを引っ張り出し、簡易的な休憩所をこしらえる。

 飲み物のリクエストを訊いてからプールの外に出、近くの自動販売機に向かう。

「ほい。お待たせ」

 数分後、神代は結露し始めた缶ジュースをサクラに手渡した。

「ありがとうございます」

「はいよ」

 神代はパラソルの下に入り、ベンチに座って自分の首筋に黄色の缶を押し当てる。

 自販機から買ってきた、否、ばかりの缶はよく冷えていて、ため息が出てしまうほど気持ちがいい。ふーっ、と火照った身体を脱力させながら、だらりと背もたれに身体をあずける。

 ぷしゅっと音が聞こえ、隣に目をやると、美味そうにジュースを飲むサクラが見えた。

 汗で額に貼りついた前髪、ほんのりと紅い頬、上下に律動するのど。神代は思わず見惚みとれてしまう。

 はっとして目をそらし、プルタブを開けて中身を一気に流し込む。微炭酸に、のどがピリピリと痛んだ。

 それから雑談などをしてしばらく涼んでいると、

「あの、きいてもいいですか」

 プールのほうを見るサクラが言った。

「あたしたちが掃除してるのって、ここが汚れてて使えないからですよね」

「そうだよ」

「ふと思ったんです。プールの中には昨日まで、平和な世界があったんじゃないかって。たとえあたしたちには汚れて見えても、そこには小さな生命いのちと生活があったんじゃないのかなって」

「まあ、確かに」

 汚れと言っても、これは自然の営みによってできたものだ。

 気に留めないだけで、緑色をした水の中にはバクテリアやプランクトン、水生昆虫などがいる。サクラと顔見知りのウシガエルも、今日までプールここで生きてきたはずだ。人間とスケールは違えども、汚れたプールにはきっと社会が形成されていた。

 細い指で缶のふちをなでながら、だけど、と彼女は続ける。

「あたしたちにとっては汚れだから、プールという世界をけがして見えるから、彼らは掃除されてしまう。世界から排除されてしまう」

「……、」

「生きてるだけなのに、ただ生きたいだけなのに……。そんなふうに思えたんです」

 そう言って、サクラは空を見上げる。

 神代もつられて上を見た。上空は風が強いのか、蒼穹に浮かぶ白い雲はどんどん横に流されていく。


 まるで、あたしたちみたい。


 ぽつりとかなしげな呟きが聞こえ、ちょうどそのとき、強い風が吹き抜けた。

 神代は聞こえなかったふりをして、倒れそうになるビーチパラソルを支える。

 サクラの言わんとすることが、分からないのではない。理解できたからこそ、聞こえないふりをした。

 たぶん返すべき言葉なんて存在しないし、何も言わないのが正解な気がする。彼女はきっと、同意も反論も求めてなんかいやしない。

 風が止み、神代はパラソルから手を離す。

 黄色の缶を傾けながら、サクラの呟きについて考えてみる。

 終末戦争が始まる前、第四次世界大戦のきっかけは、目まぐるしい気候変動だった。それまで人類は大地を削り、空と海を汚し続けていたという。第三次世界大戦がそれに拍車をかけ、三度目の傷もえぬまま、次の戦争が始まった。破壊に次ぐ破壊。黒い雪が降ったのも、すべて人類の傲慢ごうまんさが導いた結果だ。

 あのまま第四次が続いていたら、この星は死んでいたことだろう。人類は、世界をけがし過ぎた。

 7年前、黒い雪が降った年――キュウタァが出現した。

 星にとっての人類が、プールの汚れなのだとしたら、キュウタァは汚れを掃除しに来ただけなのかもしれない。

 もしそうなら、サクラは何のために戦っているのだろう?

「――ンセ?」

 流れる雲を見ながら、神代はぼーっと考える。

 もし仮に終末戦争に勝てたとして、世界はその後どうなる? 汚れたままじゃないのか?

 人類のことだから、いつかは第四次の続きを始めそうではある。そのとき、サクラはまたこの国の犠牲にならねばならないのだろうか。キュウタァではなく、人間相手の戦闘を強制されるのだろうか。

「――センセ」

 サクラを兵器として運用する桜楯おうじゅん連合がある限り、終末戦争に勝ったとしても彼女の未来は明るくない。両手がキュウタァの紅ではなく、人間の血に染まったとき、サクラはサクラのままではいられないはずだ。そんな事態は、何としてでも防がねばならない。

「――センセってば!」

「んあ?」

 袖を引かれ、神代はやっと我に返る。

「そろそろ再開しましょ。壁、今日中に終わらせるんですよね?」

 腕時計を見てみると、休憩を始めてから30分近くが経っていた。

 サクラはベンチから立ち上がり、パラソルがつくる影の中から出ていく。

 明るい青空のもとに立ち、「いろいろ考えちゃったけど、あたし――」麦わら帽子をかぶりながらふり返る。

「――早く、プールで泳ぎたいです」

 きらきら輝く水面のせいか、それとも彼女のまぶしい肌のせいかは分からない。きっと夏の暑さのせいなのだろう。神代にははじけるようなサクラの笑顔が切なく見えた。

「そうだな。もうひと頑張りすっか」

 ぬるくなったジュースを飲み干し、腰を上げる。

 燦々と降り注ぐ陽光、やわらかな風。心が吸われそうなほど晴れた空に、ブボーッというウシガエルの声が響く。

 プール開きの日は、そう遠くない。

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