グラウンドにて、花火。6月13日
2体すべての戦艦型キュウタァが殲滅された日から、すでに1ヶ月以上が過ぎた。
現在の時刻は20時58分。今日は“夏至”まで残り7日となった6月の第二月曜日だ。とは言っても、あと3時間ほどで火曜日になってしまうのだが。
まばらに浮かんだ雲から、大きな満月がまた顔を出した。やさしい光が零れ出てきて、明かりのない校舎とグラウンドを照らす。月夜の
バケツに水は入っているし、予備のロウソクもある。マッチは新品を持ってきたし、“購買部アプリ”で買った花火はすべて袋から出して新聞紙の上に並べておいた。
砂をかき集めて小さな山をつくり、てっぺんにロウソクを挿す。もうすぐで集合時間の21時。火をつけておいてもいいだろう。箱からマッチを出し、ヤスリのようになった側面に
今日の学活は、昼と夜の二部構成となっている。これから始まる夜の部は、手持ち花火でプチ花火大会だ。
花火と言えば、士官学校で受講していた“化学”の授業を思い出す。
“リアカーなきK村に、動力
教養教科のひとつであり、“炎色反応”の語呂合わせは今でも覚えている。
教育課程の4年間を通して一番苦手な教科であったにもかかわらず、授業は毎回楽しみにしていた。その理由は、担当教師が個性的な人であったからだろう。授業中に必ず冗談を言っては、教室の空気を凍りつかせていた化学の先生。彼の授業は、クーラーはおろか扇風機もいらないことで有名だった。クラスの大半が失笑する中、自分だけはそのスベリ具合にハマっていたのが懐かしい。
昔を回想しつつ、もうそろそろ時間かと神代は腕時計を見る。約束の時間はすでに過ぎていた。
いつものサクラなら、決して遅れることはない。これまでだって一度もそんなことはなかった。もっと言えば、時間前に来ているほうが多いくらいだ。彼女が遅刻するなんて、何かあったのだろうか。
心配になった神代は、保健室――サクラの部屋まで迎えに行こうと歩きだす。だが、すぐに考え直して立ち止まる。
たかが数分の遅刻が何だと言うのだろう。時間通りに来たためしがない
いつだったか宮守に『最近の吉野サクラは変わったよ。ずいぶんと楽しみにしてるみたいだぜ、キミの学活』と言われたことがある。
楽しみにしているのは、むしろこっちか。気がついて、神代は照れ隠しに自分を鼻で笑う。
初めのうちは
出会って約2ヶ月。怒ったり、笑ったり、驚いたり、すねたり、照れたり、ムキになったり……サクラの色々な表情を見てきた。もしかしたら、まだ知らない彼女を知りたくて学活をしているのかもしれない。一緒の感情を、一緒の時間に共有したくて、こうして早く来ないかと楽しみに待っているのかもしれない。
――カラン コロン、カラン コロン、カラン コロン。
また雲に隠れた月を眺めながら、ぼんやり考えていると、遠くから
静まり返った桜高に、透き通るような木の靴音が響く。だんだんと近づいてきて、グラウンドに誰か入ってきた。
リズムからするに、小走りでこちらに向かってきているらしい。人の形をしたシルエットが徐々に大きくなり、次の瞬間、雲間から差した月光に照らされて色づいた。
走ってきたサクラを見、神代は目を見開く。
「――はあっ、はあっ……。遅れちゃって、ごめんなさい」
前かがみになったサクラの耳元から、よく梳かれた栗色の髪がはらりと垂れた。
髪飾りでアレンジされた短い髪、月の色に輝く肌、いつもと違う大人びた雰囲気。
息をするのも忘れ、神代は彼女に
「着るのに、手間取っちゃって……」
てっきり、いつものセーラー服で来るものだとばかり……。まさか浴衣を着てくるなんて思ってもみなかった。
それにしても、この湧き上がってくる気持ちは何なんだろう。身体の中がくすぐったいような、ざわざわするような、締め付けられるような、苦しいともまた違う感情。思わず走りだしたくなる、そんな感じ。
「あの、センセー?」
黙ったままの神代に、サクラは不安そうな目で、
「もしかして、怒ってます?」
「あっ、いや、違うんだ。全然そんなことない。俺もさっき準備終わったとこだし」
「ほんとに怒ってません?」
「ほんとに怒ってない。ただ、ちょっと驚いたっていうか……あんまりにも可愛かったから」
「えっ」サクラの顔が真っ赤に染まった。
彼女は下駄を履いた足の指をぎゅっと丸め、「……ありがとうございます」恥ずかしそうに笑う。
「ほんとは着るか迷ったんですけど、着てよかったです」
「浴衣なんて持ってたんだな」
「新学期が始まってすぐの頃に注文してたんですよ。教科書といっしょに渡されたカタログから」
「そうだったんだ」
「ほんとのことを言うと、さっき教頭先生が届けてくれるまで忘れてたんですけどね」
またか、という言葉を神代は飲み込む。
プール掃除のときの旧型スクール水着といい、宮守先輩は服に対して何かあるのだろうか。
サクラに届けたタイミングからして、今日の内容を知っての計画的犯行であることは間違いない。思い返してみれば、今週の授業計画を先週提出しに行った際、『ついに花火イベント発生かぁ。限定衣装配布しなきゃねぇ』とか言っていた。そのときは意味が分からなくて聞き流したのだが、こうゆうことだったのか。本当に、あの人には普通の言語を話していただきたい。
「あたし、浴衣って今まで一回も着たことなくて。センセーに見せるのすっごい不安だったんですから」
「心配しなくても良かったのに。金魚の
「そうですね……。でも、途中から
「ほんと、見違えたな」
「ふふ。ありがとうございます」
「それじゃ、さっそく始めようか」
「はい!」
神代は準備した花火の前にサクラを手招きし、得意げに言う。
「打ち上げはないけど、大抵のやつは揃えたつもりだ」
「すごい……! こんなにたくさん、今日だけでやりきれますかね」
「やりきれなかったら、また次にやればいい。プチ花火大会は第1回だけじゃないからな。次こそは打ち上げも……って、やる前から次の話をしてどうするんだよ」
「もう、センセーが勝手に言ったんじゃないですか。それで、線香花火はありますか?」
「もちろん。確か、数種類買ってあるはず……」
「ソレさえあれば、あたしは満足です」
「好きなの?」
「まあ、そんな感じですかね」
「じゃあ、線香花火からやろうか」
「あのですね、センセイ」
「ん?」
「線香花火は、最後にやるからいいんですよ?」
真面目に言うサクラの言葉を聞き、神代はつい思い出し笑いをしてしまう。
昔、まだ映画館に子ども料金で入れた頃、母親にも同じようなことを言われた覚えがある――線香花火はね、シメにやると相場が決まっているの。
「そっかそっか、線香花火はやっぱし最後だよな」
「あの、どうしたんです?」
「ごめん、何でもない。気にしないでくれ。とりあえず線香花火だけは残しておいて、あとは適当に始めようか」
「ですね」
カランコロンと下駄の音を鳴らし、サクラは花火のもとへ向かう。
しゃがみ込み、新聞紙の上の山の中から一本選んで、ロウソクの火をつけた。めらめらと花火の先端――花びら紙が燃え上がり、やがて周りがぱぁっと明るくなる。
「うわぁ……! 見てください、センセ! とってもきれい」
「ああ、きれいだ」
花火色に染まったサクラは、手もとを夢中になって見つめている。まるで無邪気な子どものように目を輝かせて。
17歳のサクラが時々見せる12歳の表情。それは濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳が、まだ茶色かった頃のもの。髪は今よりも長く、赤いランドセルを背負って小学校に通っていた、普通の女の子の顔。めったに姿を見せないが、けれど確かに子どものままのサクラは彼女の中に存在している。
学活を始めた最初のうちは、サクラの過去についてあれこれ考えることもあった。しかし、どんなに願っても、時間が巻き戻ることはない。過去が変わることはない。だから、過去を考えるのではなく、現在のサクラをちゃんと見ることに決めた。現在は過去の積み重ねの上にある。現在を通してでしか、過去の彼女と向き合う方法はないのだ。
目の前のサクラを見、彼女と話し、時間と感情を共有する。自分には“学活”という時間を護ることぐらいしかできないが、それでいいと今は思っている。
気を取り直して、夜の部――プチ花火大会開始だ。
ススキ花火、変色花火、絵型花火、スパーク花火、手筒花火、噴出花火、ねずみ花火、コマ花火、UFO花火、ロケット花火、ヘビ玉、けむり玉……そして、線香花火。
種類豊富かつ大量に用意したため、足りなくなることはないだろう。
「つぎは……って、センセイはやらないんですか?」
「もちろん、俺もやるぞ」
神代もサクラに負けじと選んだ花火に点火する。
夏の匂いを乗せた煙が、月夜の闇にぶわっと広がった。
一体、どれくらい遊んだことだろうか。
ふと腕時計を確認してみると、日付変更まで残り30分もなかった。夢中になりすぎて、すでに補導対象の時間になってしまっている。先生と呼ばれている以上、このまま遊び続けていては示しがつかない。花火はまだ大量に残っているが、そろそろ切り上げたほうがいいだろう。
そのことをサクラに伝えると、
「……最後にもう1本だけ、線香花火をしませんか?」
小さくなったロウソクを見つめながら、彼女は寂しげに呟いた。
「ああ、いいぜ」
「いま、持ってきますね」
サクラが花火を取りに行っている間、神代はゆらりと揺れるロウソクの炎に目をやる。
ほどよい疲労感と楽しかった時間の満足感。思えばあっという間だった。燃えつきそうな3本目のロウソクの火を見ていると、何故だか哀しくなってくる。きっと、この終わりゆく時間が名残り惜しいのだろう。今日は久しぶりに、思いっきりはしゃいでしまった。
「どうぞ、センセー」
「ありがとう」
受け取った線香花火は、こよりのように細くて頼りない。
ふたりしてロウソクのそばにしゃがみ込み、こよりの先端を火に近づける。しゅるしゅるしゅると音がして、夕日色の玉ができ始めた。
「あたし、ほんとはニガテなんです、線香花火」
どうゆうこと? 訊こうとして、神代は顔を上げる。しかし、言葉は口から出てこなかった。
やわらかな光に照らされたサクラは、闇に溶けて消えてしまいそうなほど
神代は無言のまま手もとに視線を戻す。
「夕暮れとか、映画のエンドロールとか、小説の最後のページとか。ほんとはぜんぶニガテなんです。だって、胸が切なくて苦しくなるんですもの」
――ジジッ……、ジジジジ。紅い火の玉がくすぶり始めた。
「でも、不思議と嫌いになれなくて。そのときの記憶を、いつまでも心に残してくれる気がするから。だから、最後にやりたかったんです。ニガテだけど好きな線香花火を、センセイと一緒に」
丸い
燃ゆる花びらは見る見るうちに数を増し、ほどなくしてあちこちから
「けれど、どうしてですかね。好きなはずの切なさが、いまはすごく怖い。この時間が記憶に変わってしまう、そう考えると、いても立ってもいられない気持ちになるんです」
花盛りは過ぎ去り、細い火花が枝垂れ桜のごとく咲き始める。
サクラを見ると、彼女の口もとは
「きっと、あたしは……センセイが過去になるのが恐いんだと思う。いつの日か、センセイがあたしの前からいなくなってしまうのが、怖くてたまらないんだと思います」
すべての
ふたりほぼ同時に終わりを迎え、辺りを照らすのは、雲の向こうの月とロウソクの小さな光のみ。
そのとき、少し強い風が吹き抜け、ふっと火が消えた。
薄闇に包まれた世界で、神代は風に流れる白い煙を何気なく目で追う。
いなくなるのが怖い、か。そんなことを言われたのは初めてだ。どちらかと言うと、今までは怖いと思う立場だったから。戦争という名の死が身近にある中で、唯一の家族――母を失うのが怖かった。
絶望するくらいなら、大切なものなんてつくらないほうがいい。士官学校時代から、ずっと自分に言い聞かせて生きてきた。しかし、気づけばまた、手の中にはかけがえのないものがある。
飛んでいた頃は、戦う理由などなかった。飛べなくなった
正直、怖いのはこっちも同じだ。だが、それを言うわけにはいかないし、言う資格もない。
今、彼女に何か言えるとすれば、それはただひとつ。
「――ねえ、センセー」
口を開きかけたタイミングで、サクラがぽつり呟くように言った。
「うえ、見てみてください」
夜空を仰ぐ彼女に従って、神代も顔を上に向ける。
「月、きれいですね」
そこには、静かに輝く満月があった。
浮かんでいた雲はどこかに流れ、遮るものがなくなった月は手が届きそうなほど大きい。
濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳に映る満月を見ながら、神代は先ほど言いかけたことをサクラに伝える。
「俺は、絶対に、キミの前からいなくなったりしない。たとえキミがいなくなろうとも、俺はずっと待っている」
「センセ……」
「だから、怖がらなくていいんだ。また一緒にこうして月を見よう」
「……はい」
空に月が昇る限り、今夜のことは一生忘れない。もし月が消えたって、サクラのことを忘れたりはしない。
心地いい夜風に吹かれ、あと少しだけ、と神代は夜空を見上げた。
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