6F屋上にて、星空観察。7月22日
プチ花火大会をした日から、今日で39日が経過した。
本日は“海の日”から4日後の7月第四金曜日、ちょうど
辞書によると大暑とは、1年で最も暑い時期のことらしい。気候変動により常夏となったこの世界で、これ以上気温が上がられては困るのだが、公転周期に文句を言っても仕方ないだろう。日中が暑いのなら、涼しい夜を待てばいい。
夏の夜、学校でできることは色々ある。肝試しに映画の鑑賞会、バーベキュー。あとは、以前やったようなプチ花火大会など。しかし、今夜やるのはそのどれでもない。
本日の学活は急きょ予定を変更し、屋上にて“星空観察会”をすることになっている。これは昼食時、いつものように牛丼セットを食べるサクラと話し合って決めたことだ。
時刻はすっかり暗くなった20時40分。
目指すは桜高の最上階――6階だ。6階と言ってもフロア面積は踊り場ほどしかなく、そこには屋上に出るための鉄扉の他に、天文ドームに続く細い階段があるのみ。できればドームを使用したかったのだが、操作マニュアルを発見できなかったのであきらめた。階段を上りきった神代は、迷わず鉄扉のドアノブを回す。
手に持っているアルミケース――中には『地学室』から拝借した『天体望遠鏡』や『方位磁針』、『星座早見盤』などが入っている――がぶつからないよう気をつけながら、ゆっくりと扉を押し開ける。次の瞬間、もわっとした外気に身体を包まれた。
昼に比べて涼しいというだけで、夜でも暑いことに変わりはない。そのうえ昼間と違って空気には湿り気があり、
心配になって夜空を見上げた神代は、ふぅっと胸をなでおろす。眼前に広がる空には、雲ひとつ浮かんでいなかった。浮かんでいるとすれば、爪のように細い三日月のみ。今夜は新月と同じくらい真っ暗で、星を観るのには持って来いの夜だ。本当なら天候や
屋上に足を踏み入れながら、正面に顔を戻す。そのとき、暗闇の中に誰かいるのに初めて気がついた。
開けた鉄扉のすき間から外に
よく梳かれた栗色の髪。深緑色のセーラーカラー。機動性を重視した
――ガツン!
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
手もとが
短い髪がびくりと揺れ、濃紺の、瑠璃色に近いきれいな瞳がこちらを向いた。
「……もう、センセー。驚かさないでくださいよ」
「ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
「ドキッとしちゃったじゃないですか」
今度こそケースをぶつけないよう気をつけて鉄扉を閉める。差し込んでいた光が消え、夜の闇が訪れた。
ポケットからペンライトを引っ張り出し、スイッチを入れて点灯させる。地面に反射した光が、周囲をぼんやり照らしだした。
「それにしても、今日はずいぶんと早いんだな」神代はサクラに歩み寄りながら冗談っぽく笑う。
今は集合時間の20分前。まさかこんなに早く来ているとは思わなかった。
「何かあったのか?」
「そうゆうわけじゃないんですけどね……。センセーのほうこそ早いじゃないですか」
「まあな。色々と確認しておきたくてさ。そうだ、ちょっと準備手伝ってくんない?」
「いいですよ」
それじゃあ、とサクラにペンライトを手渡し、アルミケースから『星座早見盤』を取りだす。
片手ほどの大きさの、青くて丸いプラスチック製の板。二枚の板が重ねられていて、一枚目の回転できる板には『窓』と『方位』、二枚目には『星座』が描かれている。一枚目の円周には『時刻』、二枚目には『月日』の目盛りがふってあり、神代はサクラに手もとを照らしてもらいながら、目盛りを現在の日時に合わせていく。
「誕生日って、いつ?」
あることをふと思いつき、早見盤をセットしながら訊いてみた。
唐突に質問されたサクラは「えっ?」と声をもらして首をかしげる。
「……8月の、24日ですけど。それが何か?」
「なるほど」
「何がなるほどなんです?」
「すぐに分かるさ」
神代は10秒ほど脳内検索をし、今日観察する星を決める。
早見盤で位置を確認すると、
いや、待てよ。と、神代はこの場所が桜高だったことを思い出す。
約4ヶ月前、病院から
桜高の周辺には、建物はおろか山すらない。四方八方、見渡せども何もない。周囲から完全に孤立した高校、それが『国立
今さらになって夜空をぐるりと見まわしてみる。全方位、
「きれいですよね。じつは、あたしの宝物だったりして」
「いい宝物を持ってるな」
「これだけですけど」
「これだけありゃ十分さ」
この景色を見ていると、ついため息が出そうになる。冗談抜きでこのまま何時間でも見ていられそうだ。いっそのこと、いつまでもこうして眺めていたい。だが、それはあとからでもできる。何よりも今は星の観察が最優先だ。なにせあと数時間で、目標の星は地平線の下に沈んでしまう。無数の星たちは逃げないが、サクラに見せたい星は逃げてしまうのだ。
神代は美の誘惑を払いのけ、「さて、移動するぞ」屋上の西側へと歩き始める。はい、と返事をし、サクラもついてきた。
屋上の端――みぞおちほどの高さの“落下防止塀”の前で、神代はケースも置かずに星を探しだす。早見盤と夜空を交互に見、星々の位置を照らし合わせていく。
周囲に光源がないおかげで、星がよく見える。否、見え過ぎる。どれが早見盤に描かれている星なのか、とてもじゃないがひと目見ただけでは解からない。うーん、と
手間取りながらも、しばらく探し続けていると、
「おっ、あった!」
地平線の近くに
やはり早見盤が示す通り、かなり低い位置にある。もしここが街中や山奥だったら、絶対に見えなかっただろう。
よしっ、と心の中でガッツポーズして、アルミケースを地面に置く。中から『三脚』を取りだし、望遠鏡の組み立てを開始する。
「あの、センセー?」
しゃがんで三脚の脚を伸ばしていると、中腰になって手もとに光を当ててくれているサクラが言った。
「望遠鏡なんか使って、一体何を見るんです?」
「スピカさ」
「スピカ……?」
サクラは口の中で呟くように言葉をくり返す。
そんな彼女の声を聞きながら、神代は地面に立てた三脚の『
「スピカって星、どっかで聞いたことない?」
「一応、何かの本で名前だけは。でも、星だとは知りませんでした。あたしが知ってる星は、デネブとかアルタイルとか、それくらいですから」
あはは、とサクラは恥ずかしそうに笑う。
神代は望遠鏡の『
「デネブ。アルタイル。ベガ。有名な夏の大三角だな。それは俺たちの後ろ、東の空で輝いている。ちなみにだけど、スピカもとある大三角の一部なんだよ」
「えっ、大三角ってひとつだけじゃないんですか?」
「ひとつだけじゃないさ。確かに夏の大三角が有名だ。でも、だからって、それだけじゃない。実は、春と冬にもそれぞれ大三角があるんだよ。どうしてだか秋だけは四辺形なんだけどね。
じゃあ、ここで問題だ。スピカは一体、何の大三角でしょーか?」
「ええと……」
考えるサクラを横目に、神代は固定した鏡筒の『対物レンズ』のキャップを外す。『接眼レンズ』を取り付け、今度は事前に調整しておいた『ファインダー』を覗く。
「ヒントは、そうだなぁ……キミの名前かな」
「じゃあ、はる、でしょうか……?」
自信なさげなサクラを見、神代はワザとにんまり笑って、
「ファイナルアンサー?」
「ふぁ、ふぁいなるあんさー」
「――せーかい。その通りだ」
サクラはふぅーっと安堵のため息を吐く。
スピカを望遠鏡で捉えた神代は、最後に接眼レンズを覗いて星にピントを合わせながら、
「
ちなみに、オリオン座のベテルギウス、
「――ふふっ」
そのとき、サクラの笑い声が聞こえた。
神代はレンズから目を離して彼女を見る。
「ごめんなさい。つい、おかしくって。だって、今日のセンセーったら、何だかほんとの先生みたいなんですもん……あははっ」
「どうゆうことだよ、それ」
無邪気に笑うサクラにつられ、神代も顔をほころばせる。
「望遠鏡の準備をしてくれたり、星のことを教えてくれたり……とにかく、先生みたいってことです」
「当たり前だろう? 俺はキミの先生だからな」
「それはそうなんですけど……、あははははっ」
何か変なことでも言ったかなぁ、と神代はずり落ちてきたメガネを押し上げる。
確かに少ししゃべり過ぎたかもしれない。サクラから質問されたのが嬉しくて、つい舞い上がってしまったようだ。
恥ずかしくなってきた神代は、それを
「えー、サクラくん? 準備が終わったんだけど、覗いてみない?」半ば強引に話題を変えた。
それが逆におかしかったらしく、サクラはさらに笑う。しかし、笑いの余韻を残しつつもすぐに「はい」と返事をしてレンズを覗いてくれた。
長い横髪を耳の後ろで抑えながら、彼女は星を観察し始める。それを見て、神代は受け取ったペンライトのスイッチを切った。
再び闇が訪れ、無数の星々のみが辺りを照らしだす。太陽より静かで、月よりやさしい星の光。目が慣れてくると、星だけでも案外明るかった。
「……なんて蒼い」
絞りだすような声でサクラが呟く。
「あまりにもきれいで、なんだか胸がゾワッとします」
「さすがはキミの星だよな」
「あたしの星……?」
「ある意味ね」
サクラは顔をあげ、「どうゆうことです」と不思議そうに尋ねてくる。
「さっき、誕生日訊いたじゃん?」
「ええ」
「8月24日に生まれたってことは、キミの誕生星座は乙女座ってことになる。スピカはね、乙女座のα星――乙女座の星たちの中で、最も明るい星なんだよ」
頭の後ろで手を組んで、神代は星空を見上げる。
せっかく星を観察するのなら、自分に関係する星を観てもらいたい。自分の星座について知ってもらいたい。そう思って、スピカを選んだのだった。
「でも、ほんと危なかったよ。もし誕生日を過ぎてたら、絶対に見れなかったもん」
本当は誕生日に見られれば最高なのだが、残念なことにそれは不可能な話。8月24日の夜空に、乙女座は浮かんでいない。スピカはすでに地平線の下に沈んでしまっている。
「ありがとうございます、センセー」
星の淡い光が降り注ぐ中、サクラは可愛らしく笑った。望遠鏡から離れたかと思うと、落下防止塀の前に歩み出て星空を仰ぐ。
「そういえば言ってましたもんね、星を観るのが好きだって。保健室で自己紹介してくれたとき」
「よくそんなの覚えてたな」
「だって、あたしは――」
そのとき、やわらかな夜風が吹いた。
気持ちのいい風はまるで頬をなでるように、二度、三度と強弱をつけて通り過ぎていく。
こちらを向いたサクラの脚に、ふわりと広がったスカートが巻きついた。
――あたしは、センセイの生徒ですから。
彼女の言葉を聞き、一拍遅れて、顔がかあっと熱を帯びた。
嬉しいけど恥ずかしい。だけど、やっぱり嬉しい。この時間が夜で本当に良かったと神代は思う。星空の程よい薄暗さのおかげで、真っ赤になっているに違いない顔が気づかれずに済む。
「ねえ、センセー。」
サクラは静かに笑いながら、
「もっと教えてください、星のこと。もっと聴かせてください、センセイの話」
はるか彼方の空で、長い尾をひいた二筋の光が流れた。
地平線の下から尻尾を出した紅い目のサソリ。ゆったりと流れる乳白色のミルキーウェイ。北極星を中心に星々は夜空をめぐり、黒のカンバスに描かれた星座たちは踊る。この景色は、どれだけ見ても見つくせない。
さて、何から話そうか。とりあえずは、乙女座の話から始めるとしよう。
夏の夜、ふたりきりの屋上にて。たった今、星空教室が開講したのだった。
星にまつわるお話は、もちろん星の数ほど存在する。
そのすべてを語りきれるはずもなく、神代はいつしかサクラと並んで仰向けに寝転んでいた。
視界は星で埋め尽くされ、サクラとの距離は手を伸ばせば触れられるほど近い。隣からは彼女の安らかな呼吸音が聞こえてくる。
「――あたし、星をながめてるといつも思うんです。」
何てことはないといった口調で、ぽつりとサクラが言った。
目の前の空では、星がぱらぱら降りだしている。
「こんなにたくさんあるのに、どうしてこの星なんだろうって。もしこの星じゃなかったら、いまごろあたしは何をしていたんだろうって。そう思ってしまうんです」
彼女はいつもと変わらない声色でさらりと話す。
しかし、その声からは複雑な心情が見え隠れしているように神代には思えた。
前髪が瞳を隠しているせいで、彼女が今、どんな表情をしているのかは分からない。ただ輪郭と夜の闇との境界は曖昧で、とても
「いまのあたしがある訳も、していることの意味も、何故やらなくちゃいけないのかも、ぜんぶ分かってます。でも、たったひとつだけ……いくら考えても解らない」
そこまで言って、サクラは口をつぐむ。
少しの時間があいて、彼女は心から
「……どうして、あたしなの?」
その小さな声は星空に吸われてすぐに消える。
何故、サクラなのか。何故、サクラは戦わねばならないのか。
その問いに対する答えはきっと存在しない。
こうなった経緯や戦う意義は説明できても、それがサクラである必要はどこにもないのだから。
力があるというだけで、自分の命を犠牲にすることを強制される。顔も、名前も知らない37,000,000の命のために戦わされる。戦う意味はあっても、彼女は戦う理由を持っていない。
少し似ている、と神代は思う。母を亡くし、理由なきまま戦場に赴いていた過去。何のために飛行士になるのか分からなくなり、明日すら見失っていた士官学校時代。背景は全く違うが、どこか似ている。あのときは独りで抱え込み、自力で助かるしかないと思っていた。実際、自力で何とかしたわけなのだが、一方で心のどこかでは手を差し伸べてくれる“誰か”を切望していた。
「一緒にさ、
「えっ……」
「もういいんだよ、戦わなくて。軍の職務を、大人が取るべき責任を、キミが負う必要はどこにもないんだ」
「でも……、」
世界が団結すべき時、大人たちは未だに第三・第四次大戦のことでやり合っている。もし全世界が協力して敵に対処していれば、各国の国民が半数以下になることも、軍隊が撃破されることもなかったのかもしれない。
黒い雪を降らせたのも、護るべき国民を護れないのも、それはすべて大人たちの責任だ。少なくとも、サクラが負うべきものではない。
「背負わされてる荷物は置いてさ。置けないのなら、俺も一緒に背負うから。だから、ここから逃げちまおう」
サクラは何も答えない。
無責任なこと言わないで、と怒っているのかもしれないし、もしかしたら、逃げるのを
戦いから逃げたとして、その先ではきっと植え付けられた罪の意識が待っている。12歳から
その呪いは簡単に解けるものではないだろう。悔しいが、今すぐ呪いから解放する
だったら、今できるのは、
「手、握ってもいいか」
彼女に寄り添い、そばにいることだけだ。
恐る恐る伸びてきた手が、神代の小指に当たる。神代はサクラの手に自分の手を重ね、やさしく握った。
「俺は、いつだってサクラの味方だ。キミはキミが思うことをすればいい。どんなことだって、俺はそれを全力で支えるから」
その結果、どうなろうと知ったこっちゃない。サクラのためなら、世界を敵に回したっていい。
もし彼女が戦いたくないと言うのなら、全力で味方をする。担任になった日、そう決めた。
「だからさ、もっと頼ってくれていいんだ。頼りないかもしれないけど、そうしてくれると嬉しい」
相変わらずサクラは無言だが、その代わりに重ねた手をぎゅっと握り返してくれた。
夜の静寂が辺りを包み込んでいく。銃声も爆発音もしない静かな時間が、この先もずっと続けばいい。サクラの体温を感じながら、神代は星に願った。
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