少女の力
目覚めは穏やかだった。いつも鉛を剥ぐようにして布団を払い、
きちんと栄養を摂り、睡眠時間を確保できたからだ。少なくともバイオリズムは幾分復調が見られる。
昨夜の惑乱が、夢か幻であったかのように。
口の中にはまだ濡れた舌肉の感触が残っていた。
「……」
うら寂しい男の独り住まい。家具を除けば、全ての私物を合わせてもスーツケース一つに収まる。
そうなるようにしてきた。いつ、何があってもいいように。いつ終わってもいいように。
────死なせない
少女の叫びが耳にこびり付いて離れない。
縋る目。闇色の瞳から止め処なく溢れた涙が。
今更、どうして。
母以外なんの意味もない人生に、許されない生命に、価値を見出す者が現れた。有る筈のないものを俺に、俺なんかに。
「っ……糞」
認め難い。許容できない。
そんなものは無いのだ。俺が生きていていい理由など、母以外、母を看取る以外に。
断じて無い。
事実を胸に立つ。無味乾燥で単純明快で断固として揺るがない、動かし得ないそれを再認識して。
今日も仕事がある。
それだけでいい。
俺はその為だけに在ればいい。
俺は間違っていない。間違えているのは。
────カゲユキさんは正しいことを
「っ!? うっ、ぐぇっ……!」
突如襲った嘔気が胃の奥からせり上がる。幸か不幸か固形物は少ない。吐瀉物が押さえた掌、指の隙間から溢れ返る。
「はあ゛ッ……お、ぁ……ぶ……」
惨めな心地だった。事実と、偉そうに嘯いた途端にこの様。俺の惰弱な精神は、少女の言葉一つに揺さぶられ、ものの見事に打ちのめされている。
汚れたシーツと寝間着を洗濯機に放り捨て、手早く出勤の身支度を終える。
自己憐憫に割く時間が惜しかった。
すべきことを。ただ、すべきことを。
それだけを丹田に唱え続けた。
オフィスビルの営業フロアに入る。
同僚、先輩社員に挨拶しながら自身に宛がわれたデスクへ直行するが。
彼ら彼女らの返答はどうにも曖昧で、遠慮がちで、ひどく。
「……?」
異変に気付く。いや、視線に。
己を取り巻く奇異の……恐れを、孕んだ目。
「尾上くん、ちょっといいかな」
「は」
背後からの声に振り返る。
部長だった。この時刻に顔を合わせることの珍しい人物である。普段は個人ルームで執務に掛かっている彼が、どうしてかここに。
そして彼もまた、同じ目で俺を見るのだ。
「今から会議室に来られるかい。少し話したい」
「はい、わかりました」
「悪いね」
部長はわざわざ会議室の扉を開き、一礼して俺を中に導き入れた。それはまるで招いた取引先の重役に対する所作だった。
ブラインドを下ろされた会議室。長テーブルに八脚キャスター付きの椅子が据えてある。今時どこのオフィスにも見られる内装。
そこに、椅子にも座らず、床に正座する姿があった。
「!? 係長……!?」
俺のこの驚愕は、会議室で正座するというその行動に対するものでも、それを為している人物の意外性に対するものでもなかった。
係長。営業部における俺の直属の上司でもある彼。首にギプスを巻き、白い布で腕を吊っていた。片足にもギプスが嵌められ、隣に松葉杖が置かれている。
挫いたのか、折れたのか。いずれにしても大怪我と言って差し支えない。
満身創痍の様相の彼が、突如その場に頭を垂れた。
「今まで貴方に働いてきた暴言、暴力を陳謝させていただきます。本当に申し訳ありませんでした」
「なっ……なにを、頭を上げてください。どうしたんですか、いきなり」
「治療費、慰謝料については、本社の法務と相談して金額が決定しご納得いただけるようでしたら、早急に送金させていただきます」
「待ってください! 一体何の話を」
「尾上くん、この度は」
土下座に部長が連座する。
「我々の管理不行き届きで、パワーハラスメント被害に遭わせてしまいました。係長には今後、他県の系列事務所へ転勤してもらいます。あるいは、尾上くんの希望次第では、彼には依願退職してもらうことも可能です。その意思はあるんだろ? え? どうなんだい」
「はい、尾上さんのご希望の通りにさせていただきます」
「と、本人もそう言ってる。この場で、というのも急だが、どうだろう。希望を聞かせていただけますか?」
「説明をっ、していただけませんか!?」
あれよあれよと目の前を素通りしていく重大事項に俺の思考能力は追い付けなかった。後塵を拝する心地で、整髪料で固められた部長の旋毛を見る。
「……我々も知らなかったんです。貴方が総帥の御息女のお相手だったと」
「────」
「社長からも、くれぐれも宜しくお伝えして欲しいと承っております」
総帥、御息女。
そのワードは俺の不敏極まる洞察力においても、察するに余りあった。どのような手段を用いたのか、その正確な地位についても俺には知り得まいが。
誰が、何をしたのかだけは、はっきりと確信した。
恐怖の眼差し。俺を見上げる係長と部長の目にありありと宿った昏い色。
「やはり互いに整理する時間も必要なようだ。本日は差し当たり謝罪を受け取ってもらえれば幸いです。おい」
「重ね重ね申し訳ありませんでした。誠心誠意、償います。だから、どうか、お許しください」
「か、係長……その怪我は?」
俺の問い掛けに彼はびくりと肩を震わせた。
三十半ば、彼は妻帯者であり、子供は男の子が二人いた筈だ。彼のデスクには家族写真が飾られている。
家族を養い、相応の地位と席を与えられた社会人男性が今、全身で震え上がっていた。戦慄に背骨を震撼させているのだ。
拷問にでも掛けられたようだ。この、現代社会、少なくとも日の当たるこの一般社会の普遍的な市民が、そんな馬鹿げた無法に巻き込まれたと。
無法、そうこれは犯罪だ。
「警察に通報を」
「尾上くん!」
「部長、これは犯罪です。立派な傷害事件ですよ!? 係長、一緒に警察へ行きましょう。被害届を出して捜査がされれば」
未だ頭を垂れたまま動かない係長に手を差し伸べる。
歩み寄る。それを見て取った途端、彼はその場で跳ねるように仰け反った。尻餅をついて後退る。怪我の痛みも知らぬとばかり。
「ひぃ、ひぃっ!? こ、こ、来ないでくれ! 来ないで! ゆ、ゆ、許して、お願いだ。すみませんもうしません悪かったです僕が悪かったんです!! ゆるして、ゆるしてくれぇぇえ!!」
「…………」
胎児のように床の上で丸まり、頭を抱えて彼は叫ぶ。
正真の恐怖というものを全身で体現する。
部長がおずおずと口を開く。
「尾上くん、我々としても事を荒立てたくはない。この部署、いやこの会社を存続させる為なら、私も尽力は惜しまないつもりだ」
「しかしこれは明らかに」
「尾上くん! 頼む。聞き入れてくれ。これは決まったことなんだ。我々にはどうしようもない。だからこれ以上の話し合いはどうか
「…………っ!」
平身低頭の様を崩さず、そして譲らない部長。譲れないのだ。彼もまた、被害者なのだ。
会議室を後にする。
そうして俺を見る無数の目。その隠しようのない怖気が皮膚を蝕んだ。
「花宮……!」
予感を覚えた。それは不可逆の暴流。逆らうことを許さない変化の流れ。
かの少女を俺は侮っていた。彼女が持つのは強烈な執着心ばかりではない。実体の力、権力と財力という現代社会における最強の武力を有している。
俺はようやく知った。己を付け狙う者の強大さを。
ようやく思い知った。その、本気を。
酒を飲んで酔った父に暴力を振るわれるのが俺の日常だった。
腹や背中はまだマシな方で、頭を掴まれて箪笥に叩き付けられたこともあった。歯が二、三本欠けて折れ、一晩中血が止まらなかった。乳歯だったのがせめてもの幸いだ。
俺を庇った母が、代わりのサンドバッグにされる。
何度も何度も土地を移り住居を変えたが、奴は執拗に俺達を追って来た。
飯をたかり金をせびった。生活困窮者に片足を埋めた男にとって、母がパートで稼いだ僅かな給金が生命線だったのだろう。
あるいは……あの男も、孤独を怖れていたのだろうか。
独りは辛く、独りの死は怖ろしい。そんな人がましい感情が。
あるものか。
そんなもの、あの男に、あの外道には無い。
一欠片でもそれを持ち合わせていたというのなら、あんな真似ができる筈がない!
俺は計画を立てた。
あの男を殺害し、かつ俺が逮捕されない方法を考えた。
尊属殺の量刑の重さは知れたこと。いや、よしんば情状酌量が与えられたとしても、母に俺の犯行を知られては意味がないのだ。
母を悲しませては何の意味もない。
殺人犯の子を持つ親としての人生を彼女に歩ませるなど、あってはならない。
完全犯罪。俺に課された最低条件。
至難だった。
当時小学三年のただの子供の俺に、その構想は至難を極めた。
だがやらねば。為し遂げなければならない。
形すら得られず蹴り殺された弟、妹の為に。
母の命と未来の為に。
脳が焼き切れる思いで俺は考えた。
昼も夜も考え考え考え考え、考え抜いて、一つの方法に考え至った。
あの男を事故死に見せ掛けて殺すには。
溺死がいい。
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