どこにもいない




 暴れる男の頭を両手で押さえ付けた。

 男の太く長い腕が、うねる大蛇のような激しさで水中を搔き回し、でたらめに水面を叩く。

 飛沫が怒濤となって弾ける。ところが、シャツが透けるほどに湯を被った筈なのに、肌は温度を感じていなかった。

 あぶくが立つ。男の肺に蓄えられた気息、可視化されたその命の残量がみるみる減じていく様を、朧気に見下ろしている。ような気がする。

 触覚だけではない。あらゆる五感が鈍く、精彩を失っていた。

 全てに現実感とか呼ばれるものが欠如していた。

 その時不意に、男の手がまるで噛むように俺の腕を掴んだ。

 掴まれている、それがわかる程度の感触を覚えた。

 そうやって肉体の感覚はひたすら鈍磨しているのに、精神はしぶとく感情を生産し続けている。それもただ一種類。

 俺は恐怖した。

 この空間、この瞬間、この行為、この自分、そしてこの男に。

 恐怖だけだった。あれほど研いでいた殺意も、燃やし続けてきた憎しみもここにはなかった。

 それ以外なかった。

 水の中の目が俺を見上げている。

 じっと俺の顔を捉え、認め、見据えている。

 一瞬、男は驚いたようだ。見開かれた目、ステンレスの風呂釜の中に充満した薄闇で眼球の白さばかりが異様に際立つ。

 そして。

 男は笑ったのだ。

 安堵を浮かべて笑ったのだ。

 落ちていく。男の手から力が抜ける。俺の腕を解放して、それは震えながらひたすら弱々しい様で風呂釜の縁を掴んで、止まった。

 男は止まった。

 水の中でそれは静止した。

 たぶん、もう二度とは動かないのだろう。

 腕が熱かった。掴まれた腕が。それしか感じない。男の手形が赤々と皮膚に刻まれていた。

 罪。

 烙印。

 もう二度と、取れない。











 鳥の囀ずりが聞こえる。

 朝、なのだろうか。

 空気が澄んでいる。鼻から吸い込んだ気息の冴えに精神より先に身体が戸惑うのがわかる。

 寝床の匂いの違いもそれに拍車を掛けた。自身の体臭とは異なる、真新しいベッドシーツの繊維と洗剤の薬品臭。

 花宮に与えられた部屋と寝床が、ようやく自分のものであると思い込めるようになった矢先なのだが、あぁまた一から馴染み直さねば。

 そんな、愚昧なことを考えた。

 きっとこれも、一種の現実逃避なのだろう。というより、逃避できるほど俺は理解などしていない。何も、何一つ。

 差し当たり、目を開けるべきだ。そうしなければ始まらない。

 …………始める? 始めるとはなんだ。

 俺はもう終わった人間なのに。

 尾上カゲユキは既に生きる価値を喪失したのに。

 瞼の裏にこごる安寧な闇にひどく未練を覚えた。なんて優しい。なるほど、身に過ぎている。尾上カゲユキに、この暖かなものは相応しくない。

 だから俺は目を開いた。相応しい苦痛がそこにあると信じて。

 固い白の天井。固い白色の照明。一向に見覚えはない。ただ、徐々に流入する視覚的情報が想起させるものもあった。

 俺は素朴に、病室のようだと感じた。

 形、色、空気感が似ている。そこに同じ性質を孕む。

 通い馴れた、母の待つあの空間に。

 俺は病床に横たわっているらしかった。母と同じように。

 同じ。


「……」


 ふと気配を覚えた。いや、最初から傍らに存在するものを俺の鈍った五感はそれでも感知していた筈だ。ただ認識が起きなかったというだけのこと。

 今更その必要があるのだろうか、と。

 半死人が今更外界と干渉を試みることの無為徒労滑稽を思う。

 価値がない。再三再四、幾度でも、いや常に、その事実は揺らがない。俺の真相は無価値である。

 無価値なものに価値を見出だそうとする他者を俺は憐れだと思う。無いものを懸命にこいねがう姿は痛ましい。

 俺は彼女を可哀想な人だと思った。

 佐原アミは、犯してしまった罪科を除けば、被害者なのだ。尾上カゲユキという名の呪いの被害者なのだ。

 純然たる被害者は憐れまれ、労られるべきだ。


「おはようごさいまス、尾上さん」

「お、はよう、ございま、す」


 枕元で手の甲に顎を乗せて寄り添う様は、患者に対する看護師ではなく子供を看病する母親のようだった。

 慈母の貌で女が微笑む。あどけなさの残る顔立ち。乱れた髪が頬に、シーツに広がっている。彼女が髪を解いた姿を見たのは初めてだった。

 面相にはじわりと喜色が滲んでいる。なにかとても、良いことがあったのかもしれない。


「良いことでも、ありましたか」


 俺は実際に尋ねてみた。

 理由が気になった、と言えば嘘になる。ただ起床の挨拶の他に、会話の端緒がそれしか思い浮かばなかっただけだ。


「はい、とってもいいことがあったッス。それ、今もずっとです」

「どんな」

「尾上さん」


 名前を呼ばれた。唐突だ。

 続く言葉を待つ。

 女の柔らかな笑みがより深まるだけだった。

 当然である。それは問い掛けではなく解答なのだから。


「尾上さん」


 今度は吐息するように、夢見るように、佐原は囁く。


「貴方をもう放しません」


 不意に、耳元で金属が鳴った。鈍い銀色の、それは鎖であった。

 佐原はそれを握っている。

 鎖の一端はベッドの縁から垂れ下がり、この位置からは見えないが何処かへ伸びている。

 そして、鎖のもう一方は────俺の首元に繋がっていた。

 そう気付いてからすぐ顎の下に異物感を覚えた。おそらくは首に輪が巻かれているらしい。感触からして革製だろうと察する。

 彼女が上機嫌な理由を概ね了解する。

 同時に、俺はある意味で一つ望みを叶えたのだ。望み得る身の上に近しい場所へ堕することができた。

 虜囚。

 おそらく自由と裕福が過多していた花宮の家よりも、ここは比較的その字義に副うている、と思う。


「禁固刑ですか」


 我ながら呆とした、気の抜けた声だった。響きだけなら冗句にも聞こえたろう。

 しかし裏腹に、内心湧き上がる期待感を自覚して、自分がひどく不快になった。

 佐原は冗談の気色も含まず、真っ直ぐに。


「はい、刑期は一生ッス。もう貴方を、ここから出しません」

「……」

「尾上さん」


 尾上さん。

 尾上さん。

 おがみさん。

 オガミサン────

 程なく聴覚で、ゲシュタルト崩壊が始まる。佐原の囁きから意味が消えていく。言葉がただの声に、音に、空気の微振動という現象に希釈されて、脳はそれを認識さえしなくなった。

 白い壁と天井。四角い空間で男が一人と女が一人。人間が二体。肉の塊が二つ。それだけ。

 それだけ。

 意味を消失した。

 俺の意識は再び、安寧な闇の中に逃げた。









 彼に与えた部屋。彼のいない部屋。

 彼の残り香を嗅ぐ。

 彼の痕跡を吸引する。掻き集める。

 彼が私を拒絶したベッドの上。私は一人、その真ん中に座っていた。

 投げだしたスマートフォンに着信の気配はない。それはベッドの上に無音で鎮座していた。シリコン樹脂とプラスチックと金属の塊がただ無言のまま無意味に無意義にそこにある。

 報せはない。

 発見の報も手掛かりも追跡装置の音沙汰も。

 彼は消えた。

 彼は奪われた。

 彼は。

 カゲユキさんは。

 どこ?


「あぁぁぁああぁああぁあぁああああああああああああああああああッッッ!!!」












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