強奪



 暗い。

 暗いな。病室の中でふと気付く。目の前が、己の周囲が、立ち込めるような薄闇でよく見えない。

 まだ昼日中だというのに。カーテンを締め切っている所為だろうか。

 照明は煌々と点り、けれどどこか白々しい。まるで現実感がない。だが灯りとしてはともかくも必要十分な光量が注がれている。

 だのに、何故か。

 生白い光の下、純白のシーツ、無垢な病床が粗末な紙細工のように見えた。

 無機質だった。全て。

 その上に横たわる“もの”すら。

 暖かみはなく、さりとて冷たいとも感じない。時間ごと静止した空間の、白い闇間から微かに見通せるその顔は。

 呼吸器や点滴類、自身を繋ぐたくさんの管から解放されていた。それは素直に喜ばしかった。

 穏やかな寝顔に、微笑みかける。

 笑っている。

 俺は笑っている。

 そう言い聞かせて、口と頬と目元をそのように形作っている。

 いる、つもりだ。実際はどうか。上手くできているのか。手近に鏡でもあれば確かめられたが。

 俺は微笑んだ。頑張って笑い掛けた。

 笑みは返ってこない。あらゆる応えはない。枯れ井戸に石を放る心地。

 その当たり前を理解するのに数秒を要した。

 この人は、もう笑わない。だがこの人はもう苦しむこともない。

 母はもう。

 母は。


「尾上さん」


 白衣の裾が視界の隅に映る。

 その壮年の男性は母を担当してくれた医師だ。

 彼の神妙な面持ちを見上げて、得心する。


「すみません、先生。大変お世話になりました」


 立ち上がりその場で辞儀する。

 呆けていつまでも病床を占有する訳にはいかない。

 やることは多い。

 各種手続きをしよう。死に水を取り死亡診断書を受け取り葬儀社に連絡を入れ段取りを決め遺体を搬送し納棺しささやかな通夜と静かな葬式を経て火葬し供養し納骨して。

 母を弔うのだ。

 すべきことをしよう。

 すべきことをしよう。

 すべきことをしよう。

 俺という人間の唯一の存在意義を果たすのだ。最後の。せめてもの。


「尾上さん」

「ええ、すぐに、搬送の手配をします。葬儀社は以前から決めていまして」

「尾上さん!」

「あぁ死に化粧を……エンゼルケア、でした、ね。おねが、い、できます……か……」


 母もこのままでは可哀想だ。花宮が教えてくれた。どんな時でも身だしなみは大事だ。

 床に横たわりながらそんなことを思う。はて、先程まで己はその場に直立していた筈なのだが。

 いつからか。先生の声が聞こえない。周囲で音がしない。とうとう耳すら役立たずになったか。


「ストレッチャーを────」


 頭上で慌ただしい気配がする。相変わらず誰の声も聞こえない。

 いや。

 一つだけ耳に、分厚く無音を貫くこの鼓膜の内側に、直に届くものが、ある。己を呼ぶ声。

 ……母さん?


 カゲユキさん


 背中に縋る手。皮膚を焼くような熱、涙。滲む、声。

 少女の嗚咽。泣き叫ぶ。


 カゲユキさん


 そうして俺の名前を呼ぶ。呼び続ける。


 いかないで


 幼い子供のように必死に、何度も。


 置いていかないで

 私を独りにしないで

 お願い

 お願いします

 お願いだから


 雲の切れ間に似て一瞬、眼球は外界の光景を映す。

 雨露めいて涙を滂沱させる美しい顔。

 花宮が俺を見ていた。俺も少女を見上げた。

 思えばこの子には面倒ばかりを押し付けてきた。それが純粋な善意とは言えず好意であるかすら互いに理解せぬまま、彼女の想いに流され、そのただただ極大な感情を享受するだけで。今日、そして今に至るまで。

 俺はこの子の何も知らない。きちんと聞いてやることさえしてこなかった。

 結局は自分のことばかりで、彼女に理解を示そうとしなかった。

 それが今、ひどく悔やまれる。

 ほとほと今更だが。


「はな……みや……さ……」


 花宮カナミ。俺なんかの為に、母の為に、心から泣いてくれる少女。

 俺はこの期に及んでようやく、貴女を知りたいと思った。


「あ……り……」


 話をしよう。なんでもいい。互いのことでも、他愛のない日々の事々でも。

 こんな俺でよければ。

 もし、まだ俺が、生きていたなら────






 腹に刃物が刺さったまま事務的な手続きの話に移ろうとした彼を医師や看護師達はどう思ったろう。

 明らかに事件性のある刺傷。ここが県立の医療機関であるからには医師看護師には通報義務が生まれる。

 それを一旦置いて、彼に母親とのお別れをさせてくれたのは医療従事者の善意から……ではなく、単に怯んだだけだろう。カゲユキさん、彼の異様さ、執念に。

 だって、私も同じことを思ったから。


「……っ」


 ストレッチャーに乗せられた尾上さんが医師と看護師にかしずかれ、運ばれていく。

 私はそれを見送った。廊下の只中に立ち尽くして。

 自分の不甲斐なさが、憎くて憎くて憎くて。

 付いて行ったところで私には何もできない。傍らで喚き立てるだけ適切な医療行為に対する害悪でさえある。


「……」


 腹に包丁を突き立てられて、痛みと悪寒に苛まれながら、それでも。

 貴方は笑った。懸命に、崩れかけた土塊のような顔で、それでも。

 それでも、お母様を。


「あぁっ……あぁ……」


 あの人は、看取ることも許されなかった。最後に、ほんの少しでも、言葉を交わす瞬間すら。

 ずっと。ずっと、頑張ってきたのに。

 あの人はこの日まで、この日を、ただお母様に穏やかなこの日を迎えてもらう為だけに。

 その命を費やしてきたのに。


「わ、私、私……貴方に……ただ、貴方に……」


 幸せになって、欲しかった。

 せめて何か、ほんの少しの救いになりたかった。

 私の独善。私の欲望。私の、エゴで……希望。

 尾上カゲユキという人に見た、自分勝手な理想ゆめ


 ────俺に夢を見るな


 その拒絶が、単に嫌悪から来るものだったならよかった。それが確かな、彼の意思、彼の願望であったなら。

 けれど、彼は今に至ってもそんなもの持ち合わせなかった。自分自身に許しはしなかった。

 そして貴方は自分以外のあらゆるものをゆるす。


 ────ありがとう


 貴方は私をゆるしてしまう。

 ワガママな私さえ、ゆるしてしまう。


「どうしたら……」


 壁にもたれて途方に暮れる。

 尾上カゲユキという名の命題の解を私は完全に見失った。

 迷いながら、私の足は自然に一般病棟の救急外来へ向かう。

 今は、ただあの人の快復を願うことしかできない。噛み締めた唇の端から血が垂れる。無力感という苦汁を嘗める。

 重い歩みでエントランスから渡り廊下へ抜けた。その時。

 ポケットでスマートフォンが震えた。

 着信、藤堂から。


「……」


 項に走る。朗報とは程遠い予感。

 通話をタップしスピーカーを耳に近付けた途端、逸る声が響く。あの常に沈着冷静な男が焦燥に駆られている。


『病棟裏側の救急車搬入口へ急いでください! あの女が……!』

「────」









 サイレンの音が聞こえる。

 相も変わらず朦朧と夢と現を彷徨いながら、暗幕のような分厚い闇越しに情報の断片が舞い込む。

 サイレンの音。低いエンジン音。車の中?

 断続的な震動。走行している。

 電子音。心電図だろうか。母のベッドの傍でよく聞いた。

 薄く、瞼の隙間から照明の光が差す。切れ切れの視界。種々数多の医療器具の据えられた内装。

 ここは、救急車か。

 再び意識は遠ざかる。無明の闇に没し、そうしてまた再浮上。

 今度は静かだった。

 いつしか停車していた。

 到着したのだろう。何処かに。

 何処に。


「ん、ごめんなさい。まだここから車を乗り換えて、もう少し山登りッス」


 不意に影が差す。車内灯を遮り、誰かがこちらを覗き込んでいる。

 白いヘルメット、グレーの制服、紛れもなく救急隊員の装いの────救急隊員に人物がそこにいた。


「そこなら誰の邪魔も入らない。正真正銘の二人っきり。お腹の傷もゆっくり治療できまスから。ふふ」


 後部扉が開き、ストレッチャーごと降ろされる。

 煌々と明るい車内から出たことで、ただでさえ機能不全気味の眼球は容易く視力を失くした。まるで無明の闇に包まれたようだ。

 その色濃い闇の中から彼女の声が届く。

 耳元、唇が触れそうなほど近く。囁きが。


「ずぅっと一緒ですよ、尾上さん」









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