ありがとう、さようなら




 男の泣き叫ぶ声がする。

 地面にびちゃびちゃと撒き散らされる粘った水音。

 鉄錆の臭い。己の腹から垂れ流されるそれを遥かに凌ぐ量の血が、体外へ。目の前の彼は、生命と同義のそれをただ無為に喪失していく。

 彼は泡を吹いて痙攣し始めた。痛みによる興奮が心拍数を上げておきながら、爆ぜた手首から多量の失血を起こし典型的なショック症状を発している。

 危険だった。


「早く……ッ!」

「カゲユキさん!?」


 声を上げようとした瞬間、体が傾ぐ。重圧が全身を押し潰す。分厚い毛布を何重にも覆い被せられたかの。

 素早く花宮が俺を支えた。

 その悲鳴すらくぐもっている。世界の彩度が落ちる。五感が、遠退く。

 現在進行形でじわじわと血を失っていたのは己もまた同じ。身体諸器官の機能を約束する体内循環が落ち、停止に近付く。

 即ち、死が。

 だが──そんなものはどうでもいい。気に留める必要はない。

 今この場で優先すべきこと、それはただ二項。


「救急車を……彼を、早く病院へ、医者のところへ……急げ!」

「ならカゲユキさんも……!」

「必要、ない」

「なにバカなこと言ってるんですか!!」


 己の愚劣さは今に始まったことではないが、改めてきちんと指摘されてみるとなにやら可笑しみが湧く。

 俺の身をその当人などより余程真剣に労ろうとする少女が、ひどく健気だった。

 それに何一つ報いない。俺は馬鹿であり、無上の恩知らずだった。

 けれど。

 それでも。

 俺は行く。


「行かないと」

「…………はい……はい、わかってます。そうですよね。貴方は、カゲユキさんは、そう……行きましょう、会いに行きましょう、カゲユキさん……お母様に」


 花宮はその数秒間に逡巡と躊躇と感情の全てを押し殺し、そっと諦めてくれた。

 この愚物めに付ける薬はないのだと。そんな今にも泣き出してしまいそうな顔で。

 母の今を……その今際を悟って。


「……私のバイクを」

「し、しかし社長。尾上さんは」

「承知しました」


 狼狽する部下を制して、藤堂さんは変わらず従順に主の命令を実行させた。

 不意に己を見下ろした壮年の男の眼差しは、ひどく穏やかだった。

 彼も俺に呆れたのだろう。呆れて物が言えないのだろう。


包丁それは刺したまま絶対に動かさないでください。捩れただけでも君は死ぬ。わかるな? 尾上さん」

「はい……藤堂さん、護衛の方々、皆さんも」


 よろよろと、少女に助け起こされながら緩慢に立ち上がって、俺はその場に礼をした。


「お世話になりました」


 応える者はいない。

 やはりこの男のあまりの無様に、呆れ果てて。

 彼らに見送られ、俺を後ろに乗せ花宮がバイクを走らせた。





 バイクに乗るのは初めてだった。趣味としても移動手段あしとしても、ついぞ縁のないままこの歳まで至っている。

 渋滞車両によって塞がれた道路、犇めきあう車体の隙間を縫って鉄騎は駆けた。

 妨げるものなどなく、風は無遠慮に肌身を叩いた。人間の脚力では到底及ばぬ疾走に直接身を晒す。それは、想像より悪くない。

 霞がかっていく感覚器。朦朧とする意識で朴訥とそんなことを思った。

 眠気とは質の違う喪失感に、視界は暗転と覚醒を繰り返す。

 俺は何処だ。ここは、はて。

 なんだったか。


 おかえりなさい


 1DKのアパートの一室。台所で母が夕食を作っていた。

 懐かしい。いつぶりだろう。

 母の手料理。

 いつから、だったろう。

 仕事で忙しい母に代わって家事は俺の役割だった。俺が家事に慣れ、上手くなるほど母は褒めてくれたが、同時にひどく悲しそうな顔をした。ごめんね、と実際に言葉にすることも屡々だ。


 心配ないから

 あんたはなにも悪いことなんて


 思い出と呼べるものも少ない。

 母と俺、貧しい母子の二人暮らしはもはや忙殺が付き物だった。

 母は、生活費を稼ぐ為に仕事へ。

 俺とてアルバイトで家庭に僅かな給金を入れながら学業も疎かにできない。あまりシフトを増やしたり、ましてや掛け持ちなどすると母に烈火の如く叱られるのだ。

 俺も強く反発することはなかった。俺に負担を掛けることに対する母の罪悪感はなんとはなしに理解できた。俺に、ただ普通の、世間で言う当たり前の幸福を、母が望んでくれていることを知っていた。


 忘れればいい


 生活。生きていくだけで必死な日々。

 爪に火を灯すように、忙しないが変化に乏しく、小さく儚く、穏やかな、揺らぎのない時間の積み重ねが。

 夜遅く、夕飯を拵えて母の帰りを待った。それこそ日付を跨ぐこともしょっちゅうだった。


 自分が幸せになることだけ考えるんだよ


 幸福だったとは、胸を張れない。母にはずっと、何年も苦労を掛けてきた。

 けれどきっと、俺と母にとって一番静かな時代。

 足りないものは数多かった。生活雑貨や食糧品や家賃水道光熱費に始まる各種支払い。

 なにもない。ただ平穏無事なだけの毎日が。

 この身をどれほど、安堵させたか。


 大学行かないってどうして!?


 高卒後の就職活動は当然の選択だったと思っている。

 生涯年収の多寡に興味がなかったのは、俺一個人の未来に今更望むべきものなどないというのが一理だが、なによりも早く安定した収入源を欲したからだ。

 奨学金制度は、比較的緩やかな借金というか、学生個人に対する官民各団体からの融資である。無論、返済不要の給付制度等もあるのだろうが。

 大卒の肩書きより、生活費を稼ぎたかった。母の生活の足しになりたかった。


 私が今まで、なんの為に


 思えばあれが初めての親子喧嘩だった。

 その当時にして既に俺が俺自身をいたことは身勝手極まる──断じて許されざる──理由からだが。

 救い難いのは、この独断が徹頭徹尾母の願いを蔑ろにしている点だ。真っ当に、真人間なりに、我が子の将来を嘱望し期待してくれる親心に報いる道を、俺は自ら鎖したのだから。


 ゆるして、あげて





 俺を抱えて、部屋の隅で丸くなった母の背中を男は蹴った。何度も何度も。

 くぐもった衝撃を母の体越しに感じた。

 ただ、ただ、男が飽きて、その発作のような暴力が止むのを待った。苦痛の終わりを。

 俺が被る筈だった痛みを母が肩代わりする。

 俺に向けられた怒りを、罵詈雑言を母が身代わりとなって受ける。

 俺は守られ、そうして今生きていた。母の痛みの上に俺の命は立っていた。

 もういい。

 もうたくさんだ。

 もう十分にあの人は苦しんだ。本来苦しむべきでない善き人が理不尽の艱難辛苦を飲む姿を俺はもう見たくない。

 見たくないのに。


 何故だ。


 ────末期なんだって。あはは、道理で体、重いなぁって


 何故だ。


 ────最後の最後まで、あんたには……


 違う。そんな言葉が欲しかったんじゃない。そんな顔を見たかったんじゃない。

 言わないでくれ。泣かないでくれ。

 なあ、母さん。


 ────ごめんねぇ……カゲユキ……


 何故だ!!





「カゲユキさん、目を開けて」

「……」


 気付けば白い廊下を歩いている。

 いや、きちんと床を蹴っているのは花宮の方で、俺はただ彼女に引き摺られているだけだ。

 外光は白く、どす黒く灰色。薄曇りだった空は今分厚く雨雲が垂れこめていた。

 遠雷がする。

 白い廊下はひどく暗い。それとも暗んでいるのは俺の眼球だろうか。


「もうすぐ、お母様の病室だよ」

「母、さん」

「っ!」


 膝から力が抜けた。花宮と共に床面に崩れる。

 リノリウムに重い液体が落ちた。腹を伝い、足を濡らし、熱が損なわれて。

 中身は刻々流出していくというのに、この肉体は一向に軽くならない。儘ならない。


「カゲユキさん……!」

「あぁ……すまん……申し訳ない……」

「……大丈夫、大丈夫だよ……きっと、大丈夫、だから。会いに……行きましょう……会いに……」


 大丈夫、彼女は繰り返した。言い聞かせるように。俺ではなく自分自身へと。

 怯えていた。この廊下の果てを。その部屋の扉を開くことを、ひどく怖れていた。

 憐れなほどに。

 歩くほど、そこへ歩み寄るほど、俺を支える彼女の肩は震え、竦み、強張っていく。


 見慣れた305号室。

 重く緩やかに引き開けられた扉の向こうに。









 死に顔は、とても穏やかだった。











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