赦し
報せが入ったのは授業開始のチャイムが鳴った直後。
佐原アミの襲撃
驚くクラスメイト達の視線を無視して教室を飛び出す。擦れ違う教員の幾人かは、廊下を全力疾走する生徒の姿を見付けて注意しようと口を開きかけるが、それが
腫れ物に触れれば痛い目を見る。触らぬ神に祟りなし。私がこの学園に入学して以来の二年間で、そういう心得が彼らにはきちんと刻まれていた。
有り難いなどとは決して思ってやらないが好都合だ。
スマホに繋いだインカムで、あの人の現在位置と現場状況の報告を聞く。
車輌と街路の爆破、通りは人間と渋滞した車でごった返し、身動きが取れない、と。対する私に驚きはなかった。
あの女ならその程度はやる。周囲をどれだけ酷烈に巻き添えにしてでも尾上カゲユキに接触する為ならば、なんでもやる。私だってそうする。
だが……実行のタイミングを読み誤ったのは完全に自分の落ち度だ。前日の、彼とのすれ違いが、彼の拒絶が、私の心を平静から遠ざけた。
「それでも、ダメなんです」
私の足は迷わず駐輪場に駆け込んだ。
生徒用教員用とは別に非常時に備えて理事長から買い上げた自分専用のスペースに、それは鎮座している。飾り気のない細く黒いボディ、やや高めのシートにスカートのまま跨る。モタードタイプのバイク。混雑した街路を縫って走るには打って付けだ。
「カゲユキさん……貴方でないと」
彼の懊悩を癒したい。その願いに嘘はない。
尾上カゲユキという男性に、その自罰的な生き方に惹かれたことも事実だ。
────叶えることはできない
冷厳と言い放つ貴方に私は咄嗟に、言葉に詰まった。
彼は私を諫め、諭し、そうして拒みながら、同時に私の魂胆を見抜いていた。
私はあの人に
私にとっての尾上カゲユキ。私の求める尾上カゲユキ。
母と同じやさしい目をした男性。母と同じ全てをゆるしてしまう人。
母と、同じ。
同じであって欲しい、という
「…………」
激しい風に全身を叩かれながらアクセルを握り込む。法定速度を遵守する気はなかった。
目的地周辺道路は報告通り停車した車両によってほぼ塞がれている。その合間を二輪の小回りの良さに物言わせ、無理矢理に踏破して。
一本の路地。その入り口で案内板代わりに立って待つ部下が私に手を挙げた。
急停車したバイクをそいつに押し付け、小路へ走り込む。
既に大挙した護衛の黒服達が私に道を譲る。
そしてその先で、藤堂がこちらを振り仰いだ。
その腕に。
「────」
その腕に掴まる人を私は、見た。見ている筈だ。
眼球は光で像を捉え脳は映像を認識しているのに、心がそれを拒むのだ。
その光景を認めたがらない。
胡乱げな視線、息を荒げて、彼は時折痛みに呻く。
カゲユキさん、カゲユキさんのお腹に刃物が、左の脇腹から血が。
「……え、ぁ」
名前を呼ぼうとして失敗する。口から零れたのは意味を為さない譫言だった。
癒したいと思った。もうこれ以上、貴方に苦しい思いをさせたくないと願った。
自分勝手に誓ったのだ。
私にはできなかったことを……罪を、為し遂げた人。私は尊敬を込めて、崇敬して、貴方の望まない賛辞をそれでも繰り返さずにおられなくて。
私は貴方に憧れ、恋焦がれ、欲した。
ああ、私も結局は、貴方の負担にしかなれなかった。
でも、それでも幸せになって欲しい。どんなに貴方が拒んでも、法や倫理がそれを許さなくても。
この願望だけは、私の本心だったから。
「カゲユキさんッ!!」
彼に取り縋ろうとした手を寸前で止める。その傷が、刃の食い込んだ腹が、苦悶に歪む顔が、あまりに痛ましくて。
なにも、できない。その苦痛を取り去りたいってずっと、ずっと。
「な、なんなんだお前ら」
「!」
戸惑ったように上ずった声へ振り返る。
そこには部下の手で男が一人、地面に押さえ付けられていた。
脂の浮いた顔が私を見上げている。そいつを思い出すまでに私の脳は数秒を必要とした。
ああ、この男はあの日、私が尾上さんと出会った日、電車の中に居た痴漢野郎だ。
「お前が」
「ひっ」
狭い路地に響いた低い声はまるで自分のものではないようだった。
傍らに手をやる。
いちいち指示を口にするまでもなく藤堂は背広の懐に手を入れる。その内側に吊ったショルダーホルスターから黒い拳銃を取り出し、私に手渡した。銃身が短くフィンガーチャンネル付グリップをカスタムした
「殺してやる」
「ひぃっ!? ひぃいいいやだ! ゆゆゆるし、ゆるしてくれ、くださ」
「死ね」
銃口を黄ばんだ眼球に向ける。視線すら汚らわしい。だが中に撃ち込んでしまえば確実だ。罷り間違って銃弾が骨を滑って逸れることもなく、それは頭蓋骨の中を存分に暴れ回り中身を丹念にぐちゃぐちゃにするだろう。確実な死をこいつに齎すだろう。
トリガーに指を掛ける。
ダブルアクション、それだけでこの鉄器は撃鉄を叩き出し雷管を爆ぜさせ鉛玉を発射できる。人間などというタンパク質とカルシウムその他諸々の脆弱な合成物を破壊し、殺傷し得る。
殺せる。殺す。
ゆるさない。
カゲユキさんが、よりにもよってこの、こんな、くだらない男の為に!
「花宮、さん」
「!? な、なに、してるんです?」
横合いから伸びて来た手が銃を掴む。意図してか、その手はシリンダーを握り締めていた。
これでは撃てない。
カゲユキさんが、撃たせてくれない。
退ければいい。
腹を刺され、止血したとはいえ意識も朦朧とした彼を、押し退け、なんとなれば地面に横たえるくらい訳はない。
そうしてから、確実に、この下衆野郎を始末すれば。
なのに、私は動けなくなった。
カゲユキさんの顔を見たら、手足が麻痺してしまったみたいに動かなくなった。どうして。
ああ、貴方はどうして、そんな風に笑うんですか。そんな、困ったような、優しい顔で。
「痴漢の、仕返しにしては、流石にやり過ぎだ」
「なにバカなこと言ってるんですか……」
「はっはっ、そうですね」
カラカラに乾いた喉で笑う。自分自身を心底から嗤う。
そんな寂しい笑みで。
どうして。
「……花宮さん、貴女が受けた辱めや、辛さを、俺が満足に理解できているとは決して言えない。申し訳なく思います。貴女が彼に怒るのは、まったく当然です。貴女には怒る権利がある。それは確かだ」
「そんなこと。私は、ただ」
「だがな、花宮」
厳格に引き締められた相貌が現れた。まるで子供を叱る親のように。
真っ直ぐに、彼の昏い目が私を見据える。
「もしあんたが、あんたがそれを使う理由が、俺の為だなんて言うなら、俺はあんたを絶対に許さない」
「……」
「絶対に、それだけはダメだ。ダメなんだ、花宮。他人を、誰かを理由に、するのだけは。罪を、解禁する言い訳に使うなど。それはこの世で一番の、最低最悪の行為だ」
「っ!」
「あんたに、そんなことはさせない。してほしくない。する必要、ないんだよ」
銃が重い。持ち上げられないほど、構えていられないくらい。これじゃあもう使えない。
この人の前で、もう私は、私には撃てない。
私は慄いた。
今ようやく気付いたのだ。
私は、カゲユキさんを理由に殺人を正当化しようとしたのだと。
自分が人殺しをするのを、カゲユキさんの
それがカゲユキさんの苦悩の根源であると、私は知っていた筈なのに。
膝から力が抜けて、地面にへたり込む。
そんな情けない私の頭を彼は優しく撫でた。労しそうに。
カゲユキさんが前に歩み出る。
押さえ付けられている男の許に、よろよろと近寄り、そのまま跪く。
「尾上カゲユキと申します。あの日、貴方を、現行犯で告発した者です」
「…………」
「貴方が、俺に怒るのもやはり、無理はない」
「は?」
「彼を放して、あげてください」
やにわに何を言い出すのだと、男は困惑していた。カゲユキさんにそう言われた護衛役達すらそれは同じだった。
部下達からの伺うような視線に頷く。
男は解放され、その場に蹲りながら目の前を見上げた。目の前の、カゲユキさんを。
きっと、そこにあるカゲユキさんの顔は穏やかなのだろう。汗を浮かべ、息を乱し、苦痛を飲み込みながら、自分を刺した男に笑みさえ向ける。
「俺は貴方の人生を、破壊しました。この国で、痴漢の発覚が社会的にどれだけ致命的かは、いくらでも事例が、ありますから。俺はそれを深く考慮せず、貴方の罪を鳴らしました。だから貴方は俺を、恨んでいい」
「……」
「ですが、貴方は罪を犯しました。女性を恥辱し苦痛を与え、怖い思いをさせた。そこには到底、免罪の余地はありません。貴方は裁かれなければいけない。社会人として、大人として、心から反省し、量刑に掛かり、見合うだけの罰を甘受しなければならない」
「うっ、ぐ、ふぐ……!」
「でも貴方には、償いの機会がある。法律が、貴方の贖罪を約束してくれる」
「つぐ、ない……?」
「はい。長い時間は掛かるでしょう。多くが貴方を責めるでしょう。辛く、苦しく、容易ではない人生が、これからの貴方に待っている」
「ひ、ぃ……」
「それで正しいのです。貴方が、罪を、自覚して、償おうとする限りにおいて、それだけは正しい。それだけは。だから」
そうして、カゲユキさんは頭を垂れた。
自分を刺した傷害犯に、ではなく。
「出頭してください。あの日、貴方が犯した罪を、償いに」
「へ? えっ、で、でも、俺、俺は、あんたを」
「なにも。ここでは、なにも起きていません。貴方は一度、逃げた。けれど思い直し、改めて警察に出頭した」
「…………」
「それで、いいんです。どうか、どうか人として、正しいことを。今なら、まだ。貴方は────やり直せるんです」
その言葉に篭められた感情を、私は理解してしまった。
カゲユキさんが目の前の男に何を思ったのか。
その、羨望を。
取り返しのつかない罪が、償い様のない罪が、この世にはあるということを。
男は嗚咽し、泣き出した。地面に涙やそれ以外の液体を垂れ流した。
「ごべんなざ、ずみません。すみません……すみません……すみません……」
それが何に対する謝罪なのかはわからない。驚愕と後悔、そしてなにより隠しようもない、怯えを滲ませて。
私にした痴漢か。あるいはカゲユキさんを刺したことか、それとも……それを許されてしまったことか。
この男には、カゲユキさんが怖ろしかったのだろう。きっと、罪を鳴らされることよりもずっと、赦されることは。
底の見えない恐怖が男を襲ったに違いない。
尾上カゲユキという理解不能な慈悲は、男の価値観を一部破壊した。
私と同じように。
男は不意に、しゃくり上げる喉をどうにか宥めながら話し始めた。
「っ……あの、お俺、俺、実は、たの、頼まれたんです」
「? どういう、ことですか」
「あ、ああ、あんたを、襲え、襲えって、あの、看護師の女から────」
男の言葉が最後まで紡がれることはなかった。それはおそらく阻止されたのだ。
まず奔ったのは閃光、そして破裂音。
びちゃびちゃと周囲に飛び散る水、赤い、黒い、血飛沫。
「ぎぃいいいアアアアアアあぁぁぁぁアアァああああああッ!!?」
男の手首が吹き飛んだ。千切れこそしなかったが、皮膚と肉をごっそりと削られて、血の噴水となって男が悲鳴を上げる。
暴れ狂い、のたうつ男の傍らに、ばらばらに砕けたゴミが落ちた。
ゴミ、のような、樹脂製のバンド、そしてアクリルの破片、焦げ付いた電子部品、文字盤……腕時計の残骸が。
「佐原」
無意識に、私はあの女の名を口にしていた。
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