報い



 危篤状態です


 担当医の男性は努めて静かに、端的に、状況の説明だけをしてくれた。電話口の患者家族に対する適切な言葉選び。おそらくは過去、幾度となくそうした配慮を要する告知をしなければならなかったのだろう。

 しかし生憎、そんな医師としての心情を汲むことはできなかった。そんな余裕は俺にはなかった。


「尾上さん!」


 背を打つ声は藤堂さんだろう。

 俺は応えなかった。

 雪崩めいて逃げ惑う人波に逆らい、掻き分け、突進する。

 幾人もの誰かと肩をぶつけ、けれどそれを咎める者は少ない。

 三度に及ぶ爆破は、この場に居合わせた全員に四度目を予感させるには十分すぎた。一刻も早く、一歩でも遠く、この場から離れなければならない。

 逃げろ。逃げろ。逃げろ。

 そう考える。そう考えるよう

 佐原アミの思惑を俺は直感的に察していた。俺の周囲から護衛を引き剥がすという目論見は見事に成就している。

 だが果たして、これだけなのか。


 ────もう一工夫


 彼女は言った。

 花宮カナミを今や宿敵と、怨敵と看做す彼女はかの少女を出し抜く為に容赦などしない。

 どうなる。この上、彼女は何をするという。

 何を……こんな俺に、今になってまで何を拘る。無意味だ。無意義だ。

 恐慌状態の人々。破壊された車両や街並みを後目にして俺は思う。怪我人とて一人二人では済まないだろう。

 見も知らぬ誰かに犠牲を強いて、彼女は自らの願いを押し通す。政治的主張無きテロリズムにまで手を染めて。

 そうしてその元凶は今。

 己に纏わる悪徳から目を背け、無責任に。

 走り走る。雲霞のように人々が逃げ惑う方向に逆らい、一路ただあの病棟の、あの病室に。

 母の待つ白い病床へ。

 思考は一色に染まる。脳組織の何割かを占有していた罪悪感と自己嫌悪が機能不全を起こし、肉体はただ一つの最優先事項を遂行する肉の機械に成り果てる。

 その為だけに。

 “あの日”から今日この日まで、俺の全存在の使い途はこれだけだった。これだけが、許される行いだから。

 尾上カゲユキが発することの許される願望エゴ、否、自死などという安楽エゴを除かれたこの生命の、生存するたった一つの意味が。

 母なのだ。

 あの人に、楽になって欲しかったから。

 だから俺は。

 俺は人殺しになったのだ。


 最低にして最悪、真性の下劣にして邪悪なる自己正当化。

 俺は罪に、母の為としたためた免罪符を貼り付けて今日まで生を貪った。


 だからこそ、止まれない。誰かからのひたむきな想いを、苛烈な情愛を、その闇色の瞳の奥に埋まった痛みと悲しみを置き捨てていく。

 佐原アミを顧みない。

 花宮カナミに背を向ける。


 母を最期まで見守る。その姿を見詰める。

 看取る。

 そうしてから。

 そうしたなら。


 そして、死ね。




 消防車と救急車のサイレンが響く。何台ものパトカーと擦れ違う。

 交差点はもはや封鎖状態。車線の横断は不可能に近かった。

 裏道を抜けるしかない。

 即断して、近場の路地に踏み込む。

 黒い曇天の今日、日向でさえ薄暗い日和に雑居ビルに囲われた狭域な小道はなお一層暗く。

 路上に停められた自転車、青いポリバケツを危なく躱し、その暗がりのさらに奥へ。向こうへ。

 駅前通りに出てしまえば、病棟はすぐだ。全力疾走で8分弱。

 間に合うのか。

 間に合わせるのだ。

 一人でなど逝かせない。逝かせてはならない。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」


 焦燥が血を燃やす。心臓を急き立て、呼吸は散々に乱れた。

 体が壊れてもいい。ただ急げ。ただ、走れ。

 路地の果て。通りへの出口。光が、雲に希釈された光が見える。

 そこに。

 誰かが、立ち塞がっていた。

 肩幅や体格から、男性であるとまず見て取れる。


「?」


 分厚い影だった。てっぷり、そういう形容がぴったりの太い体。背丈は自分と大差ないが、厚みは倍近くあるだろう。

 不思議なのはその装いだ。近付くほど、薄闇の中に服装が見えてくる。水色の、寝間着? いや、一瞬の印象で、俺は違うと判断する。それはまるで。

 どうしてか、その姿に見慣れたそれを想起した。

 入院衣だ。特に医師が診察をし易いよう、衣服は前がボタン合わせのものが好ましい。

 実に場違いだった。路上、幹線道路沿いの小路で、そんな恰好をした男が何故。

 俺を見ている。

 真っ直ぐに走る己の進路上に、こちら側に向かって立っているのだからそれは当然のようにも思われたが。

 彼は俺を見ていた。

 その目は確と俺を、尾上カゲユキを見定め、見据えて、捕捉していた。

 記憶野に刺激。焦り追い込まれ、身体に慣れない駆動を強いたことで鈍化した脳機能は、それでも自動的に検索を開始する。

 俺を捕捉する目の前の男が俺を知っているように、俺もまた目の前の彼を知っている。

 そう。そうだ。あの男はあの日。

 あの、通勤電車の中で。


「う、ぎ、いいいあああああああああ!!」


 奇声を発して男が迫る。

 暗闇に光るそれを携えて。

 暗順応した俺の眼球はその形状を即時把握できなかった。

 走り込んで来る。男の動作は鈍いが、こちらとて俊敏などとは言えない。なにより、先を急ぐことばかりに気を取られ、まさか思いもよらぬ。

 両手で構え、勢いそれは刺さった。半ばまで深々と。


「……」


 左脇腹から黒い柄が突き出ている。デザインを見るに、何の変哲もない家庭用の包丁らしかった。

 早くも刺さった付け根から開襟シャツに赤が、じわじわと広がって。

 ふと見上げれば、むしろ蹈鞴を踏んでいたのは男の方だ。

 汗みずくの顔。瘧のように全身を震わせ、口端からは泡を吐いている。血走った目が、なにやら痛々しい。


「おま、お前のせいだ。お前の、お前が、あんなところで、あんな、騒ぎにするから。か、会社もクビになった。お前のせいで! 俺の人生めちゃくちゃだ! だから! あぁぁああぁぁあぁああああ!!」


 男は頭上を仰ぎ、ビルの裂け目に向かって絶望を叫んだ。










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