死線
車体が震える。サスペンションが揺らぐほどの衝撃波。
進行方向、車列の向こうから先程までの比ではない黒煙と炎が濛々と湧き上がっていた。
なんだ
あれ、火事?
ママー、燃えてるよ
通行人や、わざわざ車から出て道路の向こうに目を眇める者や、自前のスマートフォンで撮影を始める輩まで。
騒めいている。未だ他人事という認識を出ない程度の戸惑い。
爆発。周囲を吹き飛ばすほどの破壊力を持った燃焼作用が、大気を轟かせた。
これが山火事や噴火に見られるような自然現象でないことは誰の目にも明らかだ。
とりわけ己は見て、知っている。これが人為的な、極めて化学的な生成物による暴力であると。これを引き起こしたのは。
交差点で炎上させた自身の乗用車を、事もあろうにその手で爆破したのは。
「こちらA車、佐原だ。佐原アミが出た。至急増援をくれ。尾上さん! そこ動かないで!」
インカムに叫ぶ。さらにこちらにそう言い含めてドアを開き、運転手の彼が外へ飛び出す。
彼の反応は敏速であり、同時に冷静だった。車体左側の後部窓に取り付いた佐原さんに、しかしいきなり組み付くような真似はせず、歩道側からじりじりと近寄る。
彼女が装備しているだろうスタンガン、スタンロッドの間合を把握した上で、その外に立って対応を図っている。
先日の逃走劇は彼らに苦い経験則を与えた筈だ。その二の舞を踏むわけにはいかない。プロフェッショナルなればなおのこと。
「佐原アミ。弊社社長花宮が貴女と話をしたいと仰せだ。大人しく……」
あくまで理性的対話を要望している、と。その体を、若い護衛役はきちんと演じて見せた。
時間稼ぎであり、彼女のさらなる暴発を防ぐ為に。
だがしかし、彼の説得は中途に終わった。
佐原さんは彼を一瞥するや、ポケットから取り出した“それ”を差し向け────文字通り片手間に、引き金を引いた。
「あ?」
その手に握られた物体の先端から何かが飛び出す。辛うじて目視できる速度だが、回避するには彼は近過ぎた。
細いワイヤーを伴った針が、運転手の右大腿に突き刺さる。
そうして連続する鈍い破裂音。強制的に
そこまで至って、それがテーザー銃と呼ばれる対人武装であることを俺は緩慢に思い出した。実物を目にするのは無論初めてだったが。
そんなものがこの場に、現代日本の路上にあること。
そんなものが一切の躊躇なく使用された光景。
成人男性を一瞬で昏倒させる明らかに異常なその威力に。
俺は言葉を失った。一瞬、呆然と、阿呆のように心身は停止した。
そうしてたっぷり瞬き二回分を過ごした後、俺は座席から跳ね起き、後部座席のドアを押し開けた。そこに立つ佐原さんを押し退けた。
「運転手さん!」
打ち上げられた魚よろしく縁石にもたれる警護の男。
その腿に刺さったままの針を、俺は靴底で蹴り払う。素手で触れればこちらまで感電してしまうからだ。ミイラ取りの愚をよりによって今犯しては笑い話にもなるまい。
男性を助け起こした。返事はなく、歯を食い縛って視線は右往左往一定しない。どうやら意識が気絶と覚醒を往復しているらしい。
罪悪の痛みが喉で
己の
またしても、こんな。
「佐原さん……!」
「尾上さんお久しぶりッス! いや~ずぅっっと会いたかったッスよ~! うんうん、顔色もいつもより良いみたいッスね。元気そうでよかった!」
そう言って晴れやかに笑う。両手を後ろ腰に組んで、屈むようにして己の顔を見下ろした。少女のような所作は、その幼気な顔立ちと相俟ってひどく愛らしい。
つい今しがた何の躊躇もなく他者に凶器を使った人間の態度とは思えない。気さくで親しげ、病棟の廊下で挨拶を交わしていたあの頃と何一つ変わらない。
変わらないことが、こんなにも異常だった。
「佐原さん、もうこんなことはやめてください! 他人を害して、こんな、犯罪に手を染めてまでなにを……何故……!」
「尾上さんに会いたかったからでーす。やだもうこんなこと面と向かって言わせないでください! 恥ずかしいッスよ~!」
「そんなことの為に……」
「私の全てです」
打って変わって平淡に佐原さんは言った。笑顔の仮面が僅かに剥がれ、その下から。
佐原アミの皮膚が覗く。俺を見下ろす。
「尾上さんの言うそんなことが、尾上さんという人が、貴方が私の全てなんです」
「そんなものは妄想だ。それはただの、視野狭窄に過ぎない! 貴女は周りが見えなくなっている!」
「はい、そうッスよ」
「っ! 佐原さん!?」
「汚いものばっかり見てきました。この世界にはそれしかないんじゃないかって思うくらい。そしてなによりも私が、そういう汚ならしいものの一つなんだって思い知った……私が偽物を嫌うように、偽物のあの人達にとっては私も汚らわしい異物でしかなかった。あはは、要は絶望ッスよ。世界にも、自分にも、嫌気が差してた……そんな時、そんな私の前に、尾上さんが現れた」
通りを行く人々の怪訝な視線が刺さる。
昏倒した男性と、それを後目に浮世離れした問答を繰り返す男女。好奇と不審を買って然るべき取り合わせだろう。
そんなもの慮外に置き捨て視界にさえ捉えず、佐原さんは一心に俺を見詰めた。
綺麗な目だった。迷いも不純も雑念も捨て去って、たった一つ残った感情だけを火にくべて燃える瞳。
鬼火。この世のものではない光が、そこに宿る。
「ようやく、なんです」
火が眼球を炙る。視神経を侵蝕し、脳へ。その奥の、自身でさえ触れられぬ場所を掻き毟られる。
「やっと、見付けたんでス。
「俺は、違う」
いつか、そうこの問答はいつかの、暗い寝室で。
俺に縋る、あの幼い子を、花宮カナミを突き放した時と同じ。
俺は逃げる。想いから、願いから、ひたむきな心から。
卑劣に醜悪に、背を向ける。迷い子を置き去りにするが如き最低最悪の行いを。
せねばならない。
せずにおけない。
こんな無価値なものに執着する彼女らを許してなるものか。
その心の一片、一滴すら受けるに恐れ多い。身の程を知らぬ。そんな無法有ってはならない。
だから。
「佐原さん……佐原アミ。あんたの願いは間違っている。だから、絶対に叶わない。叶えはしない。俺も……彼らも」
遠く、雑踏の向こうから複数の足音が近寄って来る。
人垣が割れ、その合間を黒服の集団が駆け抜け、摺り抜けて一路、こちらに接近する。
花宮麾下の護衛部隊。渋滞に捕まり、俄かに増えた人出によって行く手を塞がれていた彼らが、前後から。
ニ隊に分かれての挟撃。
今日この場で佐原アミを必ず捕獲せんという意図。いや、花宮の冷徹な意志が見て取れる。
「花宮カナミ……金持ちお嬢は今日は不在か。ふふ、やったね。やり易いや」
「抵抗しないでください。警察へは、自分も説明に伺います。貴女がしたことを。貴女の、罪を……どうか、償ってください」
償える。
まだ、彼女は引き返せる。暴力も、破壊工作も、今ならまだ取り返しのつく段階だ。
時間は掛かるかもしれない。けれど戻れる。真っ当な、正常な、正当な人生に。
俺とは違う。
貴女は違う。
違ってくれた。だから、どうか。
「でも、あいつを嵌めるならもう一工夫要る。ごめんね、尾上さん。尾上さんを連れ出すのはまだ先になりそう」
朗らかに笑んで、女は再びそれを取り出した。
先程も俺の目前に掲げて見せた。珍しい玩具でも扱うように。
起爆装置を。
表面の文字盤を親指で弾き、コードを打ち込んだ。
「またね。もう少しだけ、待っててほしいッス」
「佐原さんッ!」
俺の呼ばわりに笑みを深めて、彼女はあっさりとスイッチを押した。
光が瞬く。連続してニ度。
視界を白化させる。それは閃光と、巻き上がった塵埃の煙幕。
轟音が一瞬で鼓膜を貫いて何処かへ失せる。途端、聴覚の不能を自覚する。耳鳴りばかりが五月蠅く、それ以外の音という音を喪失した。
それでも徐々に、しぶとくも五感は現実世界を取り戻していく。
最初に聞こえたのは、赤ん坊の泣き声だった。
どよめき、悲鳴、しかし多くはその場を凍り付いたように動かない。
荷台が幌ごと吹き飛んだらしい軽トラックが炎上している。花屋の店先に並んでいた花瓶やプランターは残らず粉々だった。
母の好きなガーベラが、擦ったマッチのように燃えていく。
「…………」
人波が動き出す。パニックだった。それは洪水の暴流に等しい。
歩道の向こうに布陣していた護衛部隊の彼らももはや動けない。
既に、佐原アミは消えていた。
阿鼻叫喚の様相を呈する世界に、思考を止め自失する愚か者一人。
ポケットの中で振動するそれに気付かなければ、俺はなお動けもせずその場に蹲っていただろう。
根気よく持ち主を呼び立てるスマホ。その画面を確認した時、背筋に衝撃を覚えた。先の爆破にもおさおさ劣らぬ、あるいは凌ぐ。
それはケア病棟からの着信だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます