再会は炎と共に





 車窓から望む外界をどうしてか遠く感じる。

 午前中、出勤ラッシュはピークを過ぎたと思われるがそれでも片側三車線の幹線道路には洪水のように車両が行き交っている。

 それらがまるでテレビ画面のザッピングめいて見えた。非現実感とでも呼べばよいのか。

 今の自分の状況こそ、現実感など欠片も湧かない。この数週間幾度となく繰り返した状況であるが、やはりどうにも自らの事とは思えない。

 自身の護衛兼運転手にかしずかれ、日々送迎車に揺られる生活など誰が想像できる。

 実に、身に過ぎた不相応な待遇だった。

 本革張りのシートは如何にも居心地が悪い。車内に重く満ちる沈黙は、不快ではないが望ましいものである筈もない。

 それが、不意に。


「腕の具合はいかがですか」


 現在車中に座する者は己を含めて三名。運転手、そして今、助手席からこちらに声を投げた人物。

 いずれも黒い背広に暗い色調のネクタイ。耳にはインカムを着装している。

 花宮曰く、彼らは私設のボディーガードであるという。身辺警護を警備会社に依頼するのではなく、独自に人員を収集し組織した、謂わば私兵集団と。

 現代日本の、ごく一般的価値観と常識しか持ち得ない凡人たる己にはまさに別世界の話だった。

 花宮カナミの為の護衛部隊。今俺に声を掛けた藤堂ジロウこそはその長である。


「一度外来に寄って治療を受けては」

「問題ありません。ほんの、軽い擦過傷です。稼働に支障はありませんし、血も止まっています。お気遣いありがとうございます」


 シートからやや身を起こして辞儀すると、シートベルトが肩に食い込んだ。

 藤堂さんが助手席から僅かに首を巡らせる。鷹のような目が、己の顔と左腕を順繰り確認している。

 精悍な、悪く言えば強面な、遊びの無い短髪の中年男性。俺より確実に一回り以上は年上だろう。彼の初対面における第一印象は歴戦の軍人か、あるいは古風な侠客だった。

 我ながら実に無礼な想像だった。


「カナミ様からはくれぐれもご負担のないようにと仰せつかっています。体調に変化があれば、どんな些細なことでも報せてください」

「ご配慮、痛み入ります。了解しました。変化があれば都度、お伝えします」

「頼みますよ」


 痩せ我慢はもちろん、下手な遠慮はむしろ彼の職務、彼の上司・花宮からの命令遂行に差し障りを来たす。

 言外に、仕事を増やすなと釘を刺されていた。

 苦言を呈したくなるのも当然だった。

 彼の本来の職務は花宮の護衛であり補佐である。こんなところで、こんな男の世話役などしている場合ではないのだ。

 しかし重視されるのはやはり、花宮の意向。尾上カゲユキという彼女の所有物(語弊はあるまい)の状態をなるべく損なわず保全するのが残念ながら現在彼らに課された職務なのだ。上司部下ではなくもはや主従といったトップダウンの命令系統を絶対遵守している以上、彼らに否も応もない。

 心底、同情したくなる。

 偉そうに言えた立場ではないが。


「ご造作をお掛けします」

「仕事ですから」


 堅い調子で藤堂さんは言った。

 言葉通りの機械的対応は俺を安堵させた。分相応、正しい認識と正しい処遇。そういうものが今、ひどく有り難い。


「いや……すまない。君に含むところはない」

「は?」


 突如解れた敬語に、半秒無呼吸の間。それはどうやら彼なりの『しまった』であったらしい。

 無色透明の沈黙の中に、なにやら色が見え隠れする。助手席の藤堂さん、そしてそれは運転手の彼にも伝染したらしかった。静かに焦り、無言で慌て、そうしてとうとう諦めて。


「……君はカナミ様にとって特別な、重要な存在だ。ならば私達がそれを全力で守り通すことは当然のことだ。君が気兼ねする必要はない」

「……」

「と、言ったところで、君のような人間は素直に受け入れまいな」


 薄く、猛禽のようなその面相に笑みが浮かぶ。

 呆れのようでもあり、憐れみのようでもある。


「カナミ様は変わった。少なくとも私の目には良い方向に。明らかに君の影響でね。あの年がら年中無表情な娘が、近頃笑うようになった。容赦のない経営戦略と無慈悲な“人員整理”を淡々と積み重ねてグループの規模を桁上がりさせたようなあの怪物が、はしゃいで笑うんだ。子供みたいな顔で。あれはそう、生き甲斐を見付けたんだろうな」

「……」

「君がカナミ様の生き甲斐になった。今まではホテル住まいを転々としていたのが、今じゃいの一番社員の誰より早く帰宅する。君の待っている家に」

「定時退社、羨ましいですねぇ。俺らなんて実質二十四時間拘束時間ですし」

「おい」

「す、すんません」


 運転手の軽口を藤堂さんが空かさず叱る。

 まったくのイレギュラーだからだ。この会話、彼が彼自身の感慨を口にするこの時間が。


「グループ総帥の一人娘。グループの全てを受け継いだ……いや、実力で簒奪した子供。だがあの子は今も花宮の姓を名乗っている。母方の姓だ。その意味を私達が知ることは許されない。下手に触れれば首が飛ぶ。意味はわかるな?」


 つまりは文字通りなのだろう。


「もしそれに触れる権利のある人間がいるとすれば、それは君だけだ」

「まさか」

「逃げられるとは思わないことだ。君以外に誰もいない。誰にも、無理なんだ」

「馬鹿な」


 俺でなくていい。いや、俺では駄目だ。こんな男だけは選んではいけない。


「ほら、よく言うだろう。パズルのピース。花宮カナミという厄介な形の娘に嵌る男なんてそうざらにはいない。君はその点……だった」


 その強面には不似合いなほど叙情的表現だった。聞き様によってはまるで、他愛のない男女の恋愛のよう。

 そうであったならよかった。そうであったなら、俺はただ俺と彼女の不釣り合いっぷりを誰かに笑ってもらうだけで済んだのだろう。


「割れ鍋に綴じ蓋ってやつですね~……すんません」

「……」


 鷹の目に睨まれ、今度こそ運転手の彼は無駄口に封をしたようだ。


「私は君の境遇について意見するつもりはない」

「…………」


 花宮カナミは、俺の過去現在を調べたと言った。ならばその直属の部下である彼が知らぬ道理はなかった。あるいは彼が、情報収集やその編纂を担当したやもしれないのだから。


「それでも一つ、老婆心で言わせてもらうがね。君には生きる義務がある。権利を放棄しようというのだから、当然だな」

「義務……」

「カナミ様と話を着けろ。それを片付ける前に消えようなんて無責任も甚だしいだろう?」

「…………」

「決断を下すなら、その後でも遅くはない筈だ。違うか」


 そこにあったのは純粋な、年長者の男の顔だった。俺の浅薄さとは比べ物にならない人生経験という厚み。

 恥ずかしく思う。

 そして申し訳なく思う。言葉を連ねて、諭し説得し誘導する、そんな労力を彼に強いたことが。


「……お察しの通り、所詮私兵の独り言だ」

「それでも、正しい叱責です」


 花宮の意向を、願いを叶えようとする彼の尽力は尊ばれるべきだ。

 俺はそこに、何かを覚えた。馴染みのない手触りを。

 これが、親心、なのだろうか。こういうのが……父親、なのだろうか。



 車が停止する。目前の赤いテールランプをぼんやりと眺める。

 渋滞に捕まったらしい。

 左端の車線から、じりじりとじれったそうに行進する追い越し車線の行列を横目にして。

 常にない混み合い方だった。ここ三週間、ルーティンワークのように母の見舞いに送迎を頼んできたが、この時刻に立ち往生するのは記憶の限り初めてだ。


「事故ですかね」

「……」


 運転手の彼が独り言ちる。

 藤堂さんは応えず、前方を睨み付けていた。

 車列の向こう。その合間から、ふと視線は空へと流れた。

 己にしてから同様に、立ち昇るものを追って。

 黒い煙が狼煙のように曇天に伸びて行く。


「火事……?」

「……確認します。少し待っていてください。くれぐれも車からは出ないで」


 インカムを押さえながら藤堂さんは助手席を出、歩道を早足に進んでいった。

 手持無沙汰を埋める為かこちらに気を遣ってか、運転手がオーディオを起ち上げ、地上波のテレビに繋ぐ。

 ニュース番組にチャンネルを合わせれば案の定。


 ────■市国道■号で軽自動車の横転事故が発生し、火の手が


「あぁやっぱり。この先の道ですよ」


 ニュース映像が深刻げなキャスターの顔から現場のカメラに切り替わる。

 交差点の入り口で激しく燃え上がる、白い車体。

 白い軽自動車が。


「…………」


 どうしてか、それを目にした時、記憶野を引っ掻く。いつかどこかで、近く見た。

 白い軽自動車などこの日本に、この地域に限ったとしても一体何百台走行していると思う。

 同じメーカー、同じ車種、見覚えがあったとて何の不思議もない。

 ない、筈だ。

 だが。

 あれは、そうあれは。

 影が差す。

 左頬を気配が刺す。いや、その感触は決して鋭くなどなかった。まるで頬を撫で、舐め、粘り纏わりつくような。

 視線。

 目。

 両瞳が。

 歩道から、それはべったりと車の窓ガラスにへばり付いていた。

 身を乗り出し、縋り付いて、そのまま中へ無理矢理ねじ込もうとするように。

 彼女が俺を見ていた。

 窓に張り付き、じっと、じっと、一心に俺を見ていた。

 じっとりと隈の浮いた目元、底無しに黒々とした目が後部座席を覗き込んで、そこに座る俺を覗き込んで。


 佐原アミがそこにいた。



 お が み さん



 彼女の艶やかな唇は、確かにそう形を変えて、そのまま笑みを形作った。

 逆月のように吊り上がり、満面に喜悦を溢れさせた。

 そして、片手に持ったそれを掲げる。

 それは一見、小型のトランシーバーのようだった。掌に収まるほどの黒い小箱、その頭頂からアンテナと思しい棒が一本伸びている。

 その側面から斜めに、のようなものが突き出ていた。形状は、例えるなら握力トレーニング用のグリップ。

 佐原さんは躊躇なく、それをかちりと押し込んだ。



 閃光が視界を染めた。

 轟音が、世界を止めた。






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