罪と嘘
会社で、上司の豹変と職場の異変を目の当たりにして数日。
ある夜、花宮カナミから連絡があった。
『お母様のお見舞いに行きましょう』
メッセージアプリの吹き出しにはそんな端的な一文が表示されていた。
平素なら時間が取れないと言って断っていたろう。直近に半休を取ってからまだ一週間しか経っていない。有給はおろか同じように半休を申請したところでまず受理などされまい。以前までなら。
気が付くと、残業がなくなっていた。どうしたところで定時内に収まらない残務すら他の社員に奪われる。そして部長が直々に俺の席に赴き、やんわりと帰宅を促すのだ。命令ではなく、まるで懇願するように。
俺は社内の立派な腫物になった。同時に、社員一同には一つの共通認識が生まれた。
オフィス奥に据えられた係長用の空席は、さながら墓標であった。見る者に自身の不幸を暗示する象徴と化した。
不意に、茜色の光が目を焼いた。
「っ……」
西日を車窓から望むなど何年ぶりだろう。
慣れない帰宅ラッシュ、控えめに混み合う電車の席で見下ろしたスマホの画面。
その一文以後、少女からの絶え間ないメッセージはぴたりと止んだ。
俺の返答を待っている。画面から片時も目を離さず、じっと待っている。
液晶の向こう側に、確実に、こちらを見詰める黒い瞳があった。
「……」
返事に迷う。否が応でも。
確かに、母を見舞う際に一声かけろと言ったのは自分だ。花宮カナミはその言い付けを守り、こうして律儀に連絡を寄越している。
それ自体には何の誤りもない。
それ以前の数々の過ちにこそ、俺は迷った。目眩を覚えるほど惑った。
唯一、一線を越えていないことだけが救いだった。貪るような口付けと絡み付く舌の熱さ、その先へと引き摺り込まれる前にどうにか逃れ……違う、許された。俺は少女に見逃されたに過ぎない。大蛇が巻き付いた獲物を絞め殺さず、戯れに解放した。
肉体関係の有無に拘泥するのは法律上その一点が重視される為だが、俺の本音はもっと卑しい。後戻りの余地が、俺にはそこしかないのだ。一度でも結ばれれば、一度でもそこに至れば俺は。惰弱にして劣弱な俺の精神はあの若く美しい捕食者に取り込まれる。
そうなれば俺が取れる術はただ一つ、たったの一つきりになる。が、それはできない。選べない。
少なくとも今は、まだできない。まだ。
母はまだ生きている。病床で俺を待ってくれている。
今は駄目だ。まだ、俺はまだ。
死ねない
有給申請はあっさりと受理され、なんと申請日の翌日に全休を与えられた。普段から詳細を求められる申請理由の欄を見た上司、事務方の同僚からの強い奨めでもあった。
ひどく恐縮を覚えた。少なくない後ろめたさも。
自分の正当性はどこにある。俺が掠め取ったこの時間は、一体誰の負担により賄われたのだろうか。
筋違いの卑屈を自覚しながら、それでも俺は自問を止められなかった。
彼を犠牲に得た時間をお前は享受するのか
彼は確かに、善い上司ではなかったのかもしれない。口汚い罵倒は勿論、暴力など最も短絡的な犯罪行為である。
しかし、彼にも家族はあった。守るべき領域。良心。善心を以て慈しむものが。
彼自身のパワーハラスメントや人間性は糺されるべきものだったかもしれない。だがしかしそんなものは彼の家族、ましてや彼の子供達には与り知らぬこと、何の関わりもないことだった。少なくとも社会人的な責任を問われる所以はない筈だ。
彼の立場、彼の奉職、彼の収入は、偶さか彼の下に配属された男の由縁により喪われた。
俺の所為で、彼は会社を逐われた。
彼の家族の生活基盤に大きな亀裂を入れてしまった。
しかもそれは、俺自身が俺の責任において彼に対して問うべきだった、己曰くの犯罪行為。違法の暴力によってだ。
「……」
病院への道すがら、俺は思う。
人一人の人生を台無しにすること。それはこんなにも簡単なものなのかと。
あの日、痴漢として逮捕された男も。その後の人生は決して明るいとは言えまい。無論、明白な罪があり、償うべき刑罰に服するのは当然だ。それを疑問視する心持ちはない。
当然だ。
罪を犯したなら当然に、人は裁かれなければならない。
罪。
罪を。
裁かれなくては。
裁かれなくては。
裁かれ、罰を受けないと。
なのに。
どうして俺はここにいるのだろう。
のうのうと一般社会に紛れ生き永らえているのだろう。
罰はどこだ。処断は誰が。
俺は、なんで、今も、生きて────
『次は■■■、次は■■■、お出口は……』
耳孔を突く無遠慮なアナウンスで、飽和した意識は現実へ引き戻された。
立ち上がる。
何度目かもわからない確認行為。お前のそれは無価値だ。こんな、自己憐憫など。
ケア病棟の正面玄関。
待合所に入るでもなく、少女は前庭の花壇の傍に一人佇んでいた。
芍薬の立ち姿などとよく言ったもの。曇りがちの空模様、そこから一筋光明が彼女を照らしている。天すらもその美しさを讃えているのだろう。
見馴れてしまった青い制服姿。純黒のミディアムヘア、白磁のような肌。そして漆黒の両瞳が、己を捉えた途端に光輝を孕む。
破顔して、少女は俺に手を振った。
「カゲユキさん!」
強く、薬品臭が鼻腔に刺さる。それは大部分が幻覚、幻臭なのだろう。病院という場所柄、実際のそれ以上に人は臭いに敏感になる。
俺のように碌々見舞いにも来られない不孝者は、この臭いにもなかなか慣れることができない。
「痛みはどう? 酷くなってないか?」
「……」
病床の枕で、母はその細った顎を揺するように静かに首を左右する。
母は少し前から体が痛い痛いと頻りに言った。医師も母の医療麻薬の投与量は通常の末期癌患者のそれより多いという。
二ヶ月前よりも確実に、口数は減り、起きていられる時間も短くなっていた。
医師の宣告余命まで、もうそれほど日はなかった。
「こんにちはお母様、カナミです。また会いに来ました。今日は薄曇りですけど晴れ間の空が綺麗ですよ。そうそう、病院に来る途中のお花屋さんにすごく姿の良いガーベラがあったんです。お部屋に活けておきますね」
花宮カナミが話し掛けると、母は穏やかに笑みを深くした。
気管切開で人工呼吸器を繋いでも声帯に影響はない筈だが、母は声を出さなかった。
そっと、細枝のような手がシーツの下から伸びる。それは少女に差し出された。
少女が母の手を握り返す。両の手でひしと、まるで押し戴くように。
「大丈夫ですよ、お母様。大丈夫です。カゲユキさんは大丈夫ですから、ね?」
「……」
「きっと、きっと幸せに、なれますから。私が手伝いますから。幸せになれるように。絶対に、一人になんてしませんから」
少女は優しく母に語り掛けた。まるきり慈愛の天使の容貌で。
俺は、阿呆のように突っ立っていた。時折こちらを向く母の目に、不出来な笑みを返すしかできない。
訂正すべきなのか。少女のそれは妄言で、この少女は俺を付け回すストーカーで、脅迫紛いの真似すら厭わぬ異常者なのだと。
母に、言うのか。こんなにも穏やかに微笑む母に。
愚劣。愚劣。愚劣。ああ何度、繰り返せば済む。俺は何度、俺自身に失望すれば事足りる。
「!」
はっとして傍らを見やると、少女が振り返り俺を見上げていた。
「……じゃあ私、花瓶のお水を変えて来ますね」
母の手を繊細な美術品のように床に横たえてから、少女はパイプ椅子を立って病室を出て行った。
気を遣われた。やはり思慮の深さにおいて、俺と彼女には雲泥の差がある。
鼻から吐息し、妄念に蹴りをつける。ふと買い置きの果物が目に入った。
「リンゴ剥こうか。摩り下ろした方がいいかな。俺も食うからさ」
「カゲユキ……」
「なに?」
電子機器の駆動音にも負けそうな声で俺を呼ぶ。椅子に腰掛け、母に顔を近付けた。
「ゆるして、ね」
「はは、だから、苦労なんてしてないって全然。俺なんて病院の職員さんとか、花宮……カナミさんに頼りっぱなしだからさ。なにも苦労なんて」
「自分の、こと」
時間が止まったような気がした。血が止まり、呼吸が止まり、周りのあらゆるものが止まる。
ただ、母の眼差しだけが、静かに俺に注がれている。
「ゆるして、あげて」
「……うん、大丈夫。俺は大丈夫だよ。大丈夫だから」
俺はただ、それだけを繰り返した。
大丈夫。
白々しい、心にもない、嘘。
大丈夫。
何度も、何度も、吐き続けた。
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